坂東眞砂子 蛇鏡 目 次  蛇  鏡  参考文献  蛇  鏡     1  夕暮れ時の町は、ひっそりとしていた。  辻や路傍に佇《たたず》む灰色の石灯籠や道標。「刃物」や「鹽《しお》」と書かれた古ぼけた看板が、風ひとつない空気の中に垂れ下がる。道に沿って続く黒々とした連子窓《れんじまど》。窓の奥にかかった簾《すだれ》の隙間に、家の灯が仄《ほの》かに赤く滲む。  人気のない町の辻から辻を、二人の姉妹が手を繋いで歩いていた。姉が、幼い妹の手をしっかりと握っている。  足許から湧き立つ、水路のごぼごぼという音。道端の小さな祠《ほこら》の蝋燭に浮かび上がる、お供えの菊の花。姉妹はもう長い間、その町をさまよっていた。  ──私、お家に戻りたい。  幼い女の子が脅えた顔でいった。  姉は細面の顔を妹に向けると、あやすように答えた。  ──心配せんでええ。ええとこに連れてったるからな。  ──ええとこて、どこやの。  姉の色白の頬に、長い黒髪がこぼれ落ちた。薄い唇に微笑みが広がった。  不意に、妹の手の中で、姉の手が煙のように消えた。  気がつくと、女の子は一人、辻の真ん中に立っていた。  ──お姉ちゃん?  女の子は大きな瞳を見開くと、周囲に首を巡らせて静かな辻の四方を眺めた。淡い闇が漂っていた。石灯籠の灯が、女の子の影をふらりと揺らせた。  女の子は、悲鳴のような声をあげた。  ──お姉ちゃんっ。  永尾|玲《れい》は、びくっと体を動かした。  車の低いエンジンの音が響いていた。玲は、茶色がかった瞳をぱちぱちとさせた。  目の前に広がるフロントガラス。バックミラーにぶら下がる交通安全のお守り。隣の運転席には、青い魚の柄のアロハシャツを着た大宮広樹が煙草をくゆらせていた。細く開いた車の窓から、紫煙が川となって流れ出している。  いつの間にか眠っていた。  では、あれは夢だったのか。  死んだ姉の夢だった……。  玲は、まだぼんやりした気分で、助手席に座り直した。  フロントガラスには、青味がかった奈良の山嶺が映っていた。鬱蒼《うつそう》と繁る木々の間から頭を出している寺院の屋根。冷たい飲み物を売る沿道の茶屋……。  玲は、眩しい夏の日射しに目を細めた。 「今、どこなの?」  彼女の声に、広樹がこちらを向いた。吸っていた煙草を灰皿に押しつけると、唇の端を曲げて笑った。 「まだ名阪国道だよ。まったく名古屋から、延々寝てるんだからな。気楽なもんだ」  広樹はがっしりした腕でステアリングを回した。彼の紺色の古びたワゴンは、がたがたと振動しながらカーブを曲がった。  玲は、全身の力が抜けたように、緑に縁取られた国道を眺めた。  今朝、広樹の車で東京を発ち、故郷である奈良に向かっているということが次第に思い出されてきた。 「そろそろ天理だよ。玲ちゃんの家、もうすぐだろう」  玲は頬に両手をあてて、軽く叩いた。少し頭がはっきりしてきた。 「そうよ。もうちょっとしたら、左折するの。この国道が西名阪自動車道に変わる前に、脇道に逸《そ》れてね」 「あれ、西名阪に乗って、郡山《こおりやま》で降りてもいいんじゃない?」  片肘で座席の背を押して、玲は体を起こした。 「だめだめ。たった一区間のために高速料金を払うなんて、馬鹿らしいわ」 「しっかりしてるな。たかだか、何百円かだろ」 「だって、広樹さんには、結婚資金を貯めてもらわないと困るんだもの」 「玲ちゃんの貯金があるじゃないか」  彼女は、つんと上向いた鼻の頭に皺《しわ》を寄せていった。 「あれは、ずっと取っとくの」  広樹が、いかにもがっかりしたらしい渋面をつくったので、玲はくすくす笑った。いつもの自分に戻った気がして、彼女は両手を上げて体をのけ反らせた。そうして伸びをすると、夢の中の姉の姿が遠ざかっていった。  山間《やまあい》を縫って走る名阪国道の向こうに、奈良盆地が開けた。田畑の中に点在する平屋の集落の周辺には、ドライブインや家具店、パチンコ店の豆腐に似た建物や、原色の派手な看板が、穏やかな田園風景にぶちまけた粗大|塵《ごみ》のように散らばっている。 「ここよ、ここで国道から出るの」  名阪国道が高速道に変わる手前、玲は広樹の横で指図した。しかし、彼はちらりと脇に逸れる道を眺めたきり、そのまま西名阪自動車道の入口に車を滑りこませた。 「ちょっと、広樹さん。どういうつもりよ」  玲が叫ぶと、広樹は平然として高速切符を受け取っていった。 「ごちゃごちゃした下の道を通るより、高速料金を払うほうを選ぶよ」  玲はむかっとして、広樹の脇腹を指で突いた。彼はくすぐったそうに上半身を捩《よじ》らせて、ワゴン車を若い女の運転する赤のクーペとトラックの間に滑りこませた。 「そうだ、郡山インターの次は法隆寺じゃなかったかい。せっかく高速料金払うんなら、法隆寺を見ていこうか」 「勝手にすれば」  玲はつんとして答えた。  私が何といっても、結局、彼は自分の意見を通してしまうのだ。  ソバージュをかけた短めの髪を掻き上げて、玲は運転席の広樹を眺めた。  逞しい肩に、長い顔。ぼさぼさの髪。ハンドルに手を置き、細い目を前方に向けて、どこか遠くを見つめている。口許には、あるかないかの微笑みが浮かぶ。一人だけで空想の世界に浸っているのだ。  こんな表情の広樹を見るたびに、玲はいつも問い質《ただ》したくなる。  今、何を考えているの?  ノートのように、人の心も開いて読むことができればいいのに。そうしたら、彼のどんな些細な心の動きも捕まえることができるのに。  だが実際はそんなこと、できやしない。広樹が物思いに沈むたびに、玲は彼の心から弾き飛ばされた疎外感を覚える。  郡山のインターは、あっという間に過ぎ去り、右手に法隆寺の五重塔が見えてきた。斑鳩《いかるが》の優しい山稜に立ち昇る煙を思わせる塔の先の相輪が、青く澄んだ空に消えている。  広樹の物思いをぶち壊しにしたいという欲求に駆られて、玲は彼の膝を大きく揺すった。 「ほら、広樹さん。法隆寺よ」  広樹は瞼に皺を寄せて瞬《まばた》きすると、法隆寺に目を遣り、おもむろにインターの出口へと車の方向を変えた。料金を払って一般道に出ると、彼は前方に聳《そび》える古寺を眺めた。 「あそこは不気味な寺でね」  どこか遠くにいっていた自分の意識を手繰り寄せるように、彼はゆっくりとした口調で語りはじめた。 「法隆寺では、雨だれが落ちても地面に穴が開かないとか、池に棲む蛙《かえる》は皆、片目だとか、いろんな言い伝えがあるんだよ。実際、五重塔の柱の礎石の下には、人の骨が埋まっていたというし、夢殿にある救世観音は、頭の後ろに大きな釘が打ちこまれている」 「おもしろそうじゃない」  広樹が法隆寺に寄りたがったのは、こんな蘊蓄《うんちく》を傾けるためだったのだろうと推測しながら、玲は陽気に応じた。 「だったら、今度、ちゃんと調べに行ってみようかな。雨の日がいいわね。雨だれが落ちることを観察して、蛙を捕まえて片目かどうか確かめるわ」 「不遜な気持ちで参拝した人間は、後で必ず不幸になるという言い伝えもあるよ」  広樹は真面目な表情でいうと、通りすぎてしまった郡山の方向に車の向きを戻した。玲は顔を歪ませて、後方に小さくなっていく法隆寺をこわごわと振り返った。朱色のブラウスから伸びるほっそりとした首の筋肉が、緊張したように張った。 「冗談だよ」  広樹の笑いを含んだ声が聞こえた。玲は、弾かれたように彼のほうを向いた。 「嘘つきっ」  唇をすぼめて、玲はなじった。 「骨と救世観音のことはほんとうさ」 「広樹さんの知識なんて、あてになるもんですか。それでよく古道具屋が務まるわね」  広樹は広い肩をすくめた。 「認めるよ。俺の鑑定眼なんか、怪しげな親父の受け売りだもの。だから玲ちゃんを、お嫁さんに選んでしまったりするんだ」  玲は広樹の膝を軽く叩いた。 「それは違うわ。広樹さんが、私を選んだんじゃない。私が広樹さんを選んだんだから」 「それは光栄だ」  広樹は、玲に向けて大仰に頭を下げた。  玲は静かに座席に体を埋めた。  広樹さんが、私を選んだんじゃない。私が広樹さんを選んだんだから。  心の中に、先の言葉が反響した。  二年間の恋人関係に業をにやして、結婚をいいだしたのは私だ。自分から申し出さなければ、広樹の頭には結婚のことなぞ浮かびもしなかったにちがいない。  そう思うたびに、玲は悔しくなる。 「どうした、玲ちゃん」 「どうした、って?」 「突然、黙っちゃってさ」  そういいながらも、広樹はさほど気にしてるようでもない。 「考えごとしてたの」  玲はつんけんしていった。 「下手の考え、休むに似たり」 「失礼ね」  唇を尖らせた玲に、広樹は声をあげずに、大きな口を開けて笑ってみせた。 「故郷に近づいてきたんで、懐かしくなったんだろう」  からかい口調の彼を、玲は拗《す》ねた目つきで睨んだ。  広樹と一緒にいると、大きな壁を相手に一人で格闘している気分になる。玲がどんなに不機嫌になろうと、あたり散らそうと、彼はおおらかに笑って受けとめるだけだ。それが子供扱いされているようで、物足りない。 「ちがいます」  玲は一字一字、区切って答えた。  広樹が自分を横目で捉えるのがわかった。玲は腕を組んで、まっすぐに続くアスファルトの道を見つめた。彼の声が、いたわりの調子に変わった。 「……お姉さんのこと、思い出していたの?」  玲の胸に、痛みに似た感覚が走った。自殺した姉の綾のことは、考えると辛くなるから、できる限り記憶から閉め出すようにしていた。  だけど、忘れられることではない。  さっき見た夢が脳裏に蘇《よみがえ》った。  幼い頃、綾と玲はあの町をよく一緒に歩いた。夢と同じく、姉はいつも玲の手を引いてくれていた。  ──ええとこに連れてったる。  玲が不安がると、そう姉はいったものだ。その「ええとこ」は、駄菓子屋だったり、寺の境内だったり、誰かの家の庭の兎小屋だったりした。玲は、綾の手に引かれるままに、辻から辻へとさまよったものだった。  だが、その姉はもういない。玲が二十歳の時、死んでしまった。  首吊り自殺だった。  今回、玲が奈良の実家に帰るのは、綾の七回忌の法要のためだ。東京で父親の古道具屋を手伝っている広樹が、ちょうど今週、名古屋方面に仕入れの旅に出ると聞いて、玲が自宅まで送っていってくれと頼んだのだ。法要は日曜日だし、広樹は週末にかけて伊勢を回りたいというので、玲はさっさと早めの夏休みをとってしまった。そして、送ってくれるなら自分の実家に泊まらないとだめだ、といい張って、この水曜日から東京を離れることになったのだ。 「そうよ、姉のことを考えてたの」  玲は呟いた。真実ではなかったが、そう思われているほうがよかった。広樹に自分の気持ちを正直にいうのは癪《しやく》だった。  もっと、私を愛して。  玲のいいたいのは、ただ、それだけのことだった。  道路脇に、『田原本町《たわらもとちよう》』という標識が現れた。 「着いたわ」  玲は窓に身を乗り出して、明るい声をあげた。  目の前に、のどかな故郷の光景が広がっていた。  風に揺れる水田の稲穂。緑の海原に浮かぶ島々のように、集落が散らばっている。七月の午後の日射しを浴びて、深い小豆色に輝く瓦屋根。集落の中央に鎮座する寺院の大屋根や、鎮守の杜《もり》。田圃《たんぼ》のあちこちで銀色に輝く溜め池。まっすぐに続く国道の先には、田原本町の中心部の木造の家並が肩を寄せ合っている。  腕時計を見ると、まだ二時過ぎだ。 「案外、早く着いたわ。お父さんやお母さん、びっくりするかもね」 「また、すごい歓待を受けるんだろうな」  広樹が、あまり乗り気ではない口調で呟いた。  やっと結婚する気になった広樹を両親に会わせるため、新幹線に乗って二人で田原本に帰ったのは今年の春のことだ。玲の両親は、傍目《はため》にも滑稽なほど広樹をもてなした。彼は、そんな遇され方が苦手なようだった。口下手な広樹がたじろいでいるうちに結婚話はどんどん進んでしまい、五月の連休には玲の両親が上京して広樹の両親と会い、結婚式の日取りは今年の十月と決まった。その段取りの早さに、広樹は釈然としなかったらしいが、玲はこれでよかったと思っている。広樹の裁量に任せていたら、二年たっても式場の予約すらできてない状態だっただろう。  結婚式を挙げる十月まで、あと三か月。それを考えると、玲の胸は騒ぐ。今いるマンションは引き払って、新居を探すことになっている。広樹の両親は同居を望んでいたが、せめて新婚の時くらいは別居させてくれと、玲ががんばったのだ。その代わり家賃を払うために、玲も現在のコンピュータ・プログラマーの仕事を続けるつもりだ。社長も社員も若くて気楽な雰囲気の今の勤め先を、彼女は気にいっていた。 「あっ、そこの道、入って」  玲の指示に従って、広樹は左に延びる農道に車を突っこんだ。田圃の中をゆったりと流れる川の辺《ほとり》に、三十軒ほどの家々が固まっている。永尾家のある斗根《とね》の集落だ。  車が農道を進んでいくにつれて、小さいながらに、周囲の田園風景と美しい調和を見せている木造の家々が見えてきた。  集落の北側を守るように神社があった。色褪せた赤い鳥居の奥は、こんもりした森になっている。 「あれ、何だい」  広樹が片手で神社の森の裏側を指さして聞いた。そこは広範囲にわたって、土が剥き出した空地になっている。簡単な低い柵で囲まれた敷地の中では、麦藁《むぎわら》帽子をかぶったり、手拭いで頬かむりした十数名の人々が地面を掘り返していた。 「斗根遺跡よ。去年、発見されたの。もとは田圃だったんだけど、宅地にするために地ならしをはじめたとたん、弥生時代の土器の破片が見つかったんだって」  広樹は、神社の森に隠れようとする遺跡をバックミラーで覗きながらいった。 「俺も玲ちゃんちの庭でも掘ってみようか。案外、すごい掘り出し物があるかもしれないな」 「庭なんか掘らなくても、蔵の中を探したらいいわ。あそこには古いものがごろごろしてるから」 「へえ、そう?」  突然、目を光らせた広樹に、玲はにやっとした。 「永尾家に養子に来るなら、蔵の中の宝物は全部、広樹さんのものになるんだけどな」 「俺に農機具屋の主《あるじ》になれっていうわけ?」  玲は彼のほうに身を乗り出した。 「似合うわよ、広樹さん。古道具屋も農機具屋も変わらないじゃない。ねぇ、やってみたらいいのに」  広樹は黙って笑っただけだった。 「あ、そこに車を止めるのよ」  玲は農道の脇を指さして、大きな声をあげた。広樹は草地にワゴンを乗り入れた。他にも、乗用車や軽トラックが数台置かれている。 「ここがうちの駐車場なの。どこにでも駐車していいわ。斗根の中に車で入っても、道は狭いし、置くところもないから」 「家は、すぐ近くだったっけ?」 「まあね。歩いて三分くらい」  広樹はしかたがないというふうに、ぷうっと息を吐くと、ワゴンを他の車と並べて置いた。  エンジンが切られて、車の振動が止まった。 「お疲れさま。やっと着いたわね」  玲は元気よく助手席から外に出た。広樹も出てくると、車の後部ドアを開いた。そこにはボストンバッグが二個と大きな段ボール箱が積まれている。すべて玲の荷物だった。 「まったく、たいそうな帰省だよ」  ぼやく広樹に、彼女は平然と応えた。 「マンションにあるいらない荷物、この際、家に預けておこうと思ってね。せっかく車があるんだもの。使わないと損だわ」 「車だけじゃなく、人間も使わないと損だと思っているんだろ」  広樹は自分のナップザックを肩にかけ、段ボール箱を抱えた。  玲はボストンバッグを両手に持つと、先に立って歩きだした。  駐車場の草地は、斗根の集落に隣接している。農道を離れて草地の横の小道を歩いていくと、すぐに集落に入った。  くすんだ色の木造の家並、淡い茶色の土塀。青空を鋭角に切り取る瓦屋根。さざ波のような海鼠壁《なまこかべ》が家や蔵を飾る。緑の葉を天に伸ばす松や樫の庭木。乗用車一台分くらいの幅しかない道に沿って、家々の軒先と連子窓が整然と続いていた。静かな通りを、ランドセルを背負った小学生が三、四人、小さな声で笑いながら歩いている。買物袋を荷台に積んで、自転車を走らせる主婦。道脇に出された大きな漬物樽の前で、鼻緒の切れたゴム草履を一心不乱に噛んでいる犬。初老の男が、数軒先の家の前にバイクを止めて、玄関に入っていく。  生まれ育った町に踏みこんでゆくに従って、玲は、強い力で過去に引きずられる自分を感じた。東京で一人暮らしをはじめて九年になる。今では標準語も板につき、話し相手に関西出身だと悟られることはほとんどない。彼女自身、東京にいると、自分が奈良で生まれ育ったことを忘れている。なのに、この土地に足を踏み入れた瞬間、その九年間が、あっけなく崩れ去っていく。東京での生活が夢の世界の出来事に思えてきて、今まで一度もこの土地を離れたことのないような気分すら覚える。  実家に戻るたびに襲われる感覚だった。そのたびに玲は、生まれ育った土地、故郷の持つ吸引力に感動する。  やがてT字路に出た。『太神宮《だいじんぐう》』と彫られた石灯籠の置かれている道の角が永尾家だ。白い漆喰《しつくい》塗りの三角形の妻が聳《そび》えている。その向こうに覗く大きな蔵。北面は黒い板塀が巡らされていて、西側が店になっている。  石灯籠の前を曲がると、店の格子戸が開け放たれているのが見えた。入口には、屋号の鎌の絵と『永尾農具店』と墨文字で書かれた欅《けやき》の看板が掛かっている。  玲は人差し指を唇にあてて、広樹にいたずらっぽく笑いかけると、そっと店の敷居を跨《また》いだ。  コンクリートを打った土間の暗がりに、耕耘機《こううんき》や、鍬《くわ》や噴霧器が鈍い光を放っていた。店の中の棚には、鎌やスコップ、篩《ふるい》などが並んでいる。土間の右手は板の間の帳場になっていた。玲の父、史郎は、いつものように帳場の机の前に座っていた。季節はずれの火鉢に寄りかかり、農機具のパンフレットをめくっている。 「ごめんください」  玲は澄ましていった。 「いらっしゃい」と、入口に顔を向けた史郎は、ぎょろ目を剥き出した。が、すぐに太い眉を下げて相好を崩した。 「こりゃ、玲かぁ」 「どこの別嬪《べつぴん》さんかと思った?」  玲は明るく笑って、ボストンバッグを帳場にどさっと置いた。  史郎は、店の入口に立っている広樹に気づいて、土間に飛び出した。 「ああ、広樹さん。わざわざ娘を送ってきてもろて、すんまへんなぁ。それ、重いですやろ。わし、持ちますわ」  広樹の抱えた段ボール箱を奪うようにして受け取ると、土間の奥に向かって怒鳴った。 「清代《きよ》、清代っ。広樹さん、きはったで」  台所に続く暖簾《のれん》がふわりと翻り、白い割烹着姿の玲の母親が現れた。むっくりと太った清代は洗いものでもしていたらしく、濡れた手を割烹着の裾で拭きながら、広樹に頭を下げた。 「ようきてくれはりました」  清代が広樹を暖簾の奥へと案内しようとすると、史郎が大きな声をあげた。 「あかん、あかん。大事な婿さんに台所から上がってもろたら、罰あたるで。ちゃんと玄関から入ってもらわんと。広樹さん、ほら、こっちにきてくなはれ」  史郎は広樹の背中を押すようにして、店の外に出ていった。  玲はあきれて両手を腰にあてた。 「しょうもない。大騒ぎしてからに。店から上がろうと、どうしようとええやない、なぁ」  無意識に郷里の言葉に戻って母に話しかけると、清代は困った顔をした。 「そら、お父さん、広樹さんを大事に思うてはるんやから」  母は父の悪口をいったことがない。いつも父のわがままを、はいはい、と機嫌よく聞いている。玲はそんな母が時々いやになる。自分なら、結婚しても、いいたいことはいうつもりだ。  清代は玲のボストンバッグを持つと、台所のほうに引き返しながらいった。 「それより、玲。広樹さんは客間で寝てもらうことにしたるから、あんた、案内したってや」 「あ、うん」  玲は慌てて広樹と父の後を追って、店の外に出た。  明るい陽射しの中に足を踏み出したとたん、向かいの家の連子窓が見えた。細長い連子の隙間で何かが動いた。玲は立ち止まって、そちらに顔を向けた。  永尾家の正面に一軒の家がある。間口の狭い民家だった。岩濠《いわごう》家だ。家の前はきれいに掃き清められ、入口の格子戸はぴたりと閉ざされている。整然としすぎて殺風景ともいえる家のたたずまいの中で、玄関脇の郵便受けの赤い色が唯一、華やいだ雰囲気を与えている。  人の気配の希薄な家だが、連子窓の背後に誰かがいた。玲は目を凝らしたが、連子の奥を見通すには、中はあまりにも暗すぎた。あたりはこんなに明るいのに、連子窓の向こうはつかみようのない闇が漂っている。  その闇の底から、誰かがじっと自分を見つめている気がした。彼女に注がれる視線が、連子窓の隙間から路上へと滲み出してくる。  忘れていた。私はこの空気の中で育ったのだった。この町では、誰もが連子窓の奥から外の様子を探っている。その絡み合う視線の中で、町の濃密な空気が醸し出される。  不思議なことだ。昔、私はこの空気にいささかも居心地の悪さを覚えなかった。魚が水を泳ぐように、ここで暮らしていたのだ。  玲は深々と息を吸いこんだ。故郷の空気が細胞の隅々にいきわたり、また自分が強い力でこの土地に引き戻されるのを感じた。 「玲っ、玲っ、どこにおるんやっ」  史郎の声に、玲は岩濠家から目を逸らした。道に沿って続く永尾家の連子窓に、自分を探す父の影が見えた。 「ここにおるわ。今、行くから」  玲は大声で返事して、家の門のほうへと歩いていった。 「どうも僕には、これがただの弥生時代の環濠集落の跡とは思えないんですけどね」  田辺|一成《かずなり》は右手で耳たぶを引っ張りながら、隣にいる鳴海に呟いた。鳴海教授の痘痕《あばた》だらけの顔に、もの問いた気な表情が浮かんだ。 「だったら、きみは何だと思うんだね。田辺君」  一成は苛立ったように口を結んだ。それが明確にいえるなら苦労はしない。  二人は発掘半ばの斗根遺跡に立っていた。神社の森に隣接した約百メートル四方の土地に、プレハブの作業小屋が立っている。低い柵に仕切られた遺跡の中では、地元で雇った作業員たちが移植ゴテを片手に土を掘り返し、手伝いの学生が平板にかがみこんで測量を行っている。人々がへばりつく褐色の地面の中央に、幅三メートルほどの溝がうねうねと曲がりながら環を描いていた。環の長さは、四、五十メートルというところだ。一成は指でその環をぐるりと示した。 「環濠集落にしては規模が小さすぎます。この規模じゃ、集落といっても、竪穴住居の四、五軒しか入らなかったんじゃないでしょうか。それにここの水濠は円形でもなく、やけに歪《いびつ》です。僕は何か特別な空間だったんじゃないかと思うんですけど」 「また墓地だというんじゃないだろうね」  鳴海は低く笑った。  一成は、大学院生だった時の失敗を思い出して顔が赤くなった。  京都の郊外で地下遺跡が発見された。その形状から、一成は縄文時代の埋葬地跡ではないかと騒いだのだが、結局は江戸時代の商家の地下室だとわかって恥をかいたことがあったのだ。だが鳴海は一成のどこが気にいったのか、大学院を卒業する時、自分の助手にならないかと誘ってくれた。 「私には、ごく小規模の環濠集落だという説明のほうが、まだ無理はないと思うがね。それに水濠の主な目的は外敵に備えることだ。環さえ描いていれば、歪だろうが何だろうが目的には叶っていたはずだ。いつもいっているだろうが、田辺君。想像力だけで突っ走るのは危険だよ」  一成は不満気に頷いた。  どうせ千年以上も昔のことを研究しているのだ。今までの学問成果といわれるものだって、せんじつめれば人間の想像力の産物でしかないじゃないか。心の中ではそう思ったが、大学の研究室で彼の助手を務めている立場上、表だっての反論は我慢した。  しかし鳴海は、自分の教え子の不満なぞは容易に察したらしく、諭すようにいった。 「とにかくこの付近の唐古、鍵遺跡から、すでに大規模な環濠集落の跡が発掘されているからね。そっちは南北六百メートルもある環濠だ。弥生時代ということを考えると、都市といってもいい大きさだ。ということは、都市周辺部分にあたるこの斗根遺跡に、変形の小規模環濠集落が存在していたとしても不思議ではないよ」 「そりゃ、唐古、鍵遺跡では、環濠内から掘立柱建物址が出てきているんです。環濠集落だったと確定できますよ。だけど斗根では、環濠内に住居らしい遺構は出てきてないんです。今のところは、いくつかの土器の破片だけで……」 「そう焦ることはないよ、田辺君。唐古、鍵遺跡だって、断続的とはいえ明治時代から発掘していて、最近、またあんな土器の破片が見つかったりするくらいだからね。こっちだって何が出てくるかわからないだろう」  一成はしぶしぶ頷いた。  焦っているのは事実だった。考古学者の彼が、田原本町に調査研究を依頼された鳴海の研究室から派遣されて、この斗根遺跡発掘の調査主任に就いたのは去年の暮れのことだ。同じ田原本町にある唐古、鍵遺跡から、弥生時代に高楼があったと思わせる絵の描かれた土器の破片が発見されて、マスコミを賑わせた事件も記憶に新しい頃だ。斗根遺跡は、規模は小さいし研究費も潤沢ではないが、彼は、案外ここで重要な発見ができるのではないかと期待してやってきた。ところが成果といえば、奇妙に曲がりくねった水濠跡と土器の破片が二十片ほど出土しただけだ。  目下、一成は、鳴海の研究室の助手のかたわら、他の大学で講師を務めてなんとか生活費を得ている。この斗根遺跡で華々しい発掘成果を上げて、どこかの大学の助教授の地位を得たいと思っていた彼にとっては、はなはだ冴えない状況だった。もっとも、期待のできる遺跡なら、鳴海だって時たま現場にやってくるようなことはせず、自ら陣頭指揮を執っていただろう。助手に任せるくらいだから、たいした成果は期待できないと踏んでいるのだ。それがわかっているだけに、なお一成は悔しい気がする。  鳴海が水濠のほうに歩きだした。一成も、隣に並んだ。  正面の森に太陽光線が降りそそいでいた。逆光になっているためか、重なり合うように繁る木々がやけに黒く見える。銀色に光るのは、遺跡の東に流れる大和川だ。首を巡らせると、二、三キロメートルほど先に、唐古、鍵遺跡も見える。その横に視線を滑らせていくと、田圃の向こうに田原本町の中心部が霞むように広がっていた。彼にとっては懐かしい光景だった。  一成は、大学院最後の年、やはり同じ田原本の多田遺跡の発掘の手伝いをしていた。鳴海を通じて紹介されたアルバイトだった。冬休みの間、下宿をしていた京都から田原本町に毎日のように電車で通った。この町はずいぶん歩いたし、思い出もいくつかあった。その思い入れが、斗根遺跡に特別な成果を期待する心理を生んでいるのかもしれなかった。  地面に掘り出された水濠の縁に立って、鳴海はあたりを見回した。そして少し先の環濠の幅が広がっている部分に目を止めた。 「あれは、どういうことだろう」  歪ながらも環を描いている水濠が、そこで一旦、途切れていた。片方は卵形に膨らみ、もう片方は、丸い形で終わっている。その二つの端の間は、幅三十センチほどの壁で仕切られていた。 「この部分には、頭を悩ましているんです」  一成はそこまで歩いていくと、卵形に膨らんだほうの溝に飛び降りた。穴は彼の胸のところまである深さだ。鳴海も近づいてきたので、彼は土の壁を指さした。 「この水濠を作った人たちは、どうして、ここで掘るのを止めたんでしょうね。あと少し掘り進めば、簡単に水濠が繋《つな》がって環になれるのに」 「そこだけ岩盤が硬いということはないかな」 「そうでもなさそうなんです」  一成は楕円形に膨らんだ部分の先端を指先で触ってみた。他の場所の土と変わりない。ただ少し湿っている気がした。この前、触った時は乾いていた。 「ひょっとしたら、水脈と関係あるのかもしれませんよ」  一成は、でこぼこした土壁の表面を掌で触った。楕円形の溝の先端は三角形といっていいほどに尖っている。よく見ると、土の中が円錐形にへこんでいる。彼はそのへこみにかがみこんだ。彼の臍《へそ》の高さの部分の土が、二十センチほど地中に抉《えぐ》れていた。  何か意味があるのだろうか。  一成はへこみの中に右手の指を這わせた。  ぷん、と湿った土の臭いが鼻を衝いた。指先に風を感じた。土壁のどこかで向こうに繋がっているのかもしれない、と思って手探りしたが、風が吹いてくるような穴はなかった。手をひっこめようとした時、指先に鋭い痛みが走った。 「あいたっ」  彼は慌てて、手を引き出した。 「どうしたのかね」  鳴海が聞いた。  一成は眉をひそめて自分の手を見た。  右手の中央の三本の指の第二関節の上に、縦にひっかいた傷がいくつかできていた。傷の深いところでは、赤い血が滲んでいる。 「土の中に尖った石でもあったのでしょう」  彼はポケットからハンカチを出して、指の血を拭った。 「破傷風になったら困るから、医者に行ったがいいよ」 「大丈夫ですよ。予防注射は受けてますから」  一成は明るく応えると、身軽な動作でひょいと溝から上がった。茶色がかった癖っ毛がふわりと揺れた。  鳴海は思案顔で水濠跡を見下ろした。 「確かに、ここは普通の環濠集落ではないかもしれないな」  一成も、鳴海の視線を追って、その楕円形に広がった溝の端を眺めた。壁面にできた穴の奥が、やけに暗く見えた。  さっき手を突っこんだ時の感触が再び体内を這い上がってきた。  ただの小石にひっかかったとは思えなかった。指先が急に冷たくなり、穴がすぼまった気がした。そして尖ったものが、彼の指に突き刺さった。まるで何かが彼の手を噛もうとしたように……。  きしむ音をたてながら、漆喰塗りの重い扉が開いた。その奥の引き戸をがたがたと開ける。暗闇から黴臭《かびくさ》い風が漂ってきた。 「ほうら、広樹さんの宝の蔵よ」  玲は靴を脱いで蔵に上がると、背後の広樹を振り返った。彼は顔をしかめながら、埃だらけの床を素足で踏んで入ってきた。 「こりゃあ、おばけ屋敷といったほうがいいかもな」  天窓から射しこむ夕暮れ時の淡い光に、壁際に雑然と置かれた行李や古びた箪笥《たんす》、木箱などが影のように浮き上がっていた。玲は入口脇にある電気のスイッチをつけた。天井から下がった白熱灯がぼうっと光った。それで蔵の中は明るくなるどころか、ますます陰気になったようだった。  玲は言い訳がましくいった。 「お祖父《じい》ちゃんが死んでから、蔵の中にあるものを整理する人はいなくなったのよ。お祖父ちゃん、けっこう骨董好きでね、古いものを集めては喜んでいたっていうわ。私が大きくなった時には、もう惚《ぼ》けて、何を集めたかも覚えてない状態だったけど」  玲は、離れの座敷で、縁の欠けた茶碗や壺を後生大事に膝に抱えて、撫でさすっていた祖父の健太郎の姿を思い出した。時々それらの品の由来を語るのだが、大皿を指して煙草盆だ、といってみたり、掛け軸の絵を見て書だといい張ったりしていたから、玲はいつもいい加減に聞き流していた。祖母を早くに亡くした祖父には、老人の繰り言を我慢強く聞いてくれる話し相手もいなかった。今考えると、もっと愛想良く返事してあげればよかったと思う。  両腕を組んで、蔵を見回していた広樹がいった。 「つまり、ここには手つかずの宝の山があるってことだな」  玲は、彼の嬉しそうな顔に満足して頷いた。 「九年前にお祖父ちゃんが亡くなった時、随分処分したとはいっても、昔から伝わるものはまだどっさり残ってるわ。入口に近いところは、お母さんがしまった衣装箱や使わなくなった家具が置かれているけど、奥のほうは昔のままよ。好きにひっくり返せばいいわ。お父さんは古いものなんかに興味ないんだから、広樹さんが買い取ってくれたら感謝するわよ」 「よおし」  広樹はジーンズの尻を両手でぱんぱんと叩くと、玲の前を通って大股で蔵の中央に踏みこんだ。  蔵の前半分は屋根までの吹き抜けだが、奥の半分の天井は中二階の床になっている。低い天井と三方の壁に囲まれて洞窟のようになった奥に入った広樹は、あたりの荷物を少し片づけて半畳ほどの空間をつくった。そして古箪笥の上の行李を選ぶと、床に置いて蓋を開けた。 「ああ、ごたまぜだな。洋燈《ランプ》に弁当箱に……なんだいこりゃ、日本人形だ」  尻が汚れるのも気にしないで、板張りの床に座りこむと、独り言をいいながら行李の中のめぼしいものを取り分けていく。  玲は入口付近の茶箱に腰を下ろして、足を組んだ。広樹はいかにも楽しげに、品物をひとつひとつ手に取っている。  まるで動物園の片隅で、餌をもらって喜んでいるオランウータンだ。  そんな連想が浮かんできて、玲はくすりと笑った。  最初、彼に会った時もそう思った。  この人、オランウータンに似ている、と。  玲が広樹に会ったのは、彼の父親が経営する中野の古道具屋でだった。その近くに引っ越したばかりの頃、食器を探していて、たまたま店の前を通りかかったのだ。一枚百円の小皿や、昔懐かしいかき氷屋を思い出させる硝子《ガラス》の器に惹かれて、いくつか買物をした。その時、店番をしていたもっさりした男が広樹だった。彼は、玲の選んだ硝子の器の縁が欠けているのに気がついて、別のものと取り替えてくれた。その正直な応対に、玲は好感を持ったのだった。  以来、時々、その店に顔を出すようになった。達磨《だるま》のように太った主がいない時には、広樹が店に座っていた。安物の皿やコップ、小物入れなどを買うたびに、玲は広樹と言葉を交わした。たいした会話ではなかった。天気がどうとか、この近くで事故があったとか。そんなあたりさわりのない話題──。  それだけなら、ただの店の者と客の関係で終わっただろう。しかし、ある時、玲は遊びに来た友人と駅の近くの飲み屋に行った。そこで偶然、広樹と会ったのだった。彼はその店の常連らしくて、カウンターに座り、店主と話していた。  店が混んでいたために、玲と友人は広樹の隣に座ることになり、買物の時の延長のような会話がはじまった。酒が入るとお喋りになる友人の影響もあって、話は弾んだ。それではじめて、古道具屋の店員と思っていた広樹が店の跡継ぎだと知った。  その時はまさか、このオランウータンのような男が自分の恋人になるとは思いもよらなかった。玲にとっては、彼はまったく好みではなかったのだ。  だが、人の心とは、どこでどのように変化するかわからない。  古道具屋の店先で何度か顔を合わせるうちに、友達づきあいがはじまった。夕方、近所の飲み屋に行って、他愛ない会話を交わす程度の仲が半年ほど続いた。そしてある日、広樹が女友達の話題を持ち出した時に、突然、嫉妬している自分に気がついた。それはまるで、背後から忍び寄ってきた恋の感情に抱きすくめられたようだった。五歳年上の兄のような存在だと思っていたはずの広樹は、いつか彼女の心の中で大きな位置を占めていたのだった。  だから玲は広樹に恋を打ち明けたのだ。  二人の関係の進行役は、最初から玲だった。  彼に恋を告白したのも私なら、求婚したのも私。どうして、彼から、ではなかったのだろう。  そう思うと、また悔しい気分が湧き上がってきて、玲は広樹から視線を逸らせた。ふと、自分の隣にある木箱に目が止まった。彼女は何気なく箱の蓋を開けた。  埃でざらざらする蓋を横に置いて、玲は、箱の中に視線を落とした。芥子《からし》色の刺子の手提げ袋が見えた。心の扉を拳で、どん、と叩かれた気がした。  死んだ姉、綾の愛用していた袋だった。  袋の下には、黒い漆の文箱《ふばこ》が覗いている。その横には、アイヌの人間をかたどった木彫りのブックスタンド、淡いピンクの絹の化粧ポーチ……。どれも綾の遺品だ。  玲は、木箱の中のものに手を伸ばした。  七年前、姉の自殺を聞いた時の胸の痛みが蘇ってきた。信じられなかった。優しくおっとりした姉が、自殺などという思いきったことをするとは。  小さい頃から、よくいわれた。「綾ちゃんは、おとなしいええ子やけど、玲ちゃんはほんま騒がしい子や」。綾はもの静かな娘だった。足音を忍ばせるように歩き、小さな声で話した。少女の時ですら、口に手をあてて、ひそやかに笑っていた。  今でも、はっきりと思い出せる。色白の細長い顔、筆で横に流したような目。骨ばった手で、口を覆って笑っていた姉の姿を。肩を震わすたびに、長い黒髪が揺れていた。  玲は姉の広い額をからかいの種にしていた。「お姉ちゃん、手で口を隠すより、そのおでこ隠したほうがええよ」。こんな憎まれ口を叩くと、綾は、「ほんま口の悪い子やわ」と玲に背を向けた。  しかし本気で怒っていないことは、玲にもわかっていた。綾が本当に激情した時は、その白い頬がぱあっと赤く染まる。そして、さらに激怒すると、額が青くなっていくのだ。  一度、そんなふうに怒った姉を見た。  綾はしばしば桜井市にある親戚の家に泊まりがけで遊びに行っていた。行くと、新しい服や人形などをもらって帰った。だが玲は、一度もその親戚の家に呼ばれたことはなかった。それが羨ましくて、悔しまぎれにいったのだ。「お姉ちゃん、そんなに可愛がってもらえるんやったら、桜井の家の子になったらええやんか」と。  あの時の姉の顔を忘れることができない。高校生だった綾が、顔を朱に染めて棒立ちになった。そのまま声もたてずに泣きだしたのだ。体を硬直させて、嗚咽《おえつ》も悲嘆もすべて自分の内に流しこもうとするように、口だけ大きく開いて泣き続けた。玲は七歳年上の姉をなぐさめる言葉も浮かばずに、茫然と見守っていた。  綾と玲とが異母姉妹だと母から聞かされたのは、その後のことだった。桜井の親戚とは、亡くなった綾の母、多黄子《たきこ》の里だった。多黄子が病気で死んだ時、綾は三歳だったという。二年後、父は清代と再婚して、やがて玲が生まれた。継母と異母妹のいるこの家での生活を、綾はどう感じていたのだろう。姉がよく肩をすぼめて家の中を歩いていたのを思うと、決して居心地のいいものではなかったのかもしれない。だから玲が、桜井の家の子になればいい、といった時、行き場のない自分を感じて泣きだしたのではないか。知らなかったとはいえ、悪いことをしてしまった。玲は、今でもあの時のことを後悔している。  いや、あの時のことだけではない。姉の心中も知らずに、ただ屈託なく、子供時代を過ごした自分自身が悔やまれる。いろんな意味で、自分は姉を傷つけていたのではないかと思うのだ。  大学二年の時、姉が自殺したと聞いた時、そんな想いにいたたまれなくなった。もっと姉と心を開いて話をしておけばよかったと思った。  綾は、この蔵の中で首を吊っていたという。両親が長い間、蔵の整理をしたがらなかったのもそのためだ。ただ、玲が訃報を聞いて帰省した時には、綾はすでに棺に横たわっていた。警察の検死もすみ、蔵の中も片づけられていた。おかげで玲は、この蔵と姉の死とを結びつけて考えないですんでいる。  それにしても、姉はなぜ自殺したのだろう。遺書もなかったし、両親も思いあたるふしがないという。自殺する前の正月、玲が帰省した時、綾は結婚も決まり、喜んでいた。自殺するとは想像すらできなかった。  綾の遺品を探っていた玲の手に、柔らかなものが触れた。真紅の天鵞絨《ビロード》に包まれたものが見えた。天鵞絨の縁をめくると、古ぼけた写真が出てきた。永尾家の店の前で、和服の女が赤ん坊を抱いている。赤ん坊は姉のようだった。ということは、この女は綾の母、多黄子かもしれない。  玲は、はじめて見る多黄子の顔を見つめた。山吹色の着物がよく似合っていた。綾よりも少し頬骨が高く、顎が尖っている。しかし写真の多黄子の笑い顔は、綾を彷彿とさせた。少し寂しげで優しい笑顔を……。  玲は頭を振って、写真を木箱の中に置いた。写真の下には、直径四十センチほどの円盤が置かれている。彼女は両手でそれを抱えあげた。ずしりとした重みが伝わってきた。  円盤の表面は平らで、蒼味がかった銀鼠《ぎんねず》色をしている。鏡だった。しかし、端のほうが緑青《ろくしよう》に侵されていて、顔を近づけてみても滲むような影しか映らない。普通の硝子の鏡ではない。どうして姉がこんなものを持っていたのだろう。  訝《いぶか》りながら鏡をひっくり返した玲は、はっと息を呑んだ。  そこに見事な浮き彫りの紋様があった。一瞬、赤い花びらが描かれていると思った。だが目を凝らすと、それが口で尻尾《しつぽ》をくわえて環になっている蛇だとわかった。縁に沿って体をくねらせて巡る姿が、花びらの形に見えたのだった。  金属に刻みつけられた蛇の体には、天道虫ほどの大きさの鱗《うろこ》がびっしりとへばりついている。その鱗のひとつひとつが、鮮やかな赤に染まっていた。胴体の脹らみ、滑らかな腹のくびれ。触れれば、今にも動き出しそうに見えるほど、生々しい蛇の彫刻だ。  ただひとつ、おかしなところがあった。蛇の丸い眼の左側の虹彩は鱗と同じ赤い色なのに、右眼は地色の銀鼠色のままだった。  しかし、それ以外は完璧な形をしている。鏡の周囲に巡らされた葡萄《ぶどう》と蔓唐草《つるからくさ》の優美な線。蛇の描く環の中にも、丸い小さな突起と渦巻きが組み合わされた模様がついている。素人目にも、ただの鏡とは思えなかった。  これは、どういう鏡なのだろう。  見ているうちに、腕がだるくなってきた。鏡の重さが増してくる。全身が鉛と化して脱力感に襲われた。そのまま蛇の環の中に引きずりこまれそうで、玲は慌てて頭を振った。  手の中の鏡がふっと軽くなった。 「広樹さん」  むりやり鏡から視線を引き剥がすと、玲は声をあげた。薄暗い蔵の奥で、広樹が顔をこちらに向けた。 「何だい」 「あの……」  言葉がうまく出てこない。いつもの自分らしくない、と玲はもどかしく思いながら、鏡を広樹に向けようとした。 「珍しいものを見つけたわ」  その時、鏡の背面の蛇が、かあっと炎の如く燃えたった。  玲は体をこわばらせた。  蛇が血の色に輝いていた。鱗の一枚一枚が、濡れたように光る。波状の環を描き、鏡の上をゆっくりと這う蛇体。目の錯覚に決まっている。玲は眉根を寄せた。その時、蛇の左目の赤い虹彩がするりと横に滑り、玲を捉えた。尻尾をくわえた蛇の口が裂けて、にやりと笑った。  悲鳴が喉元までこみあげてきた。 「なんだい、珍しいものって」  広樹の声が聞こえたとたん、蛇の鮮やかな赤が消えた。  玲はまじまじと鏡を見つめた。尻尾をくわえた蛇の口許から、笑いは消えていた。茫然として鏡から顔を上げると、天窓から入ってくる眩しい光に気がついた。彼女の体から力が抜けていった。  鏡を手にした角度の具合で、蛇の浮き彫りが太陽を反射しただけだ。それでやけに蛇が生き生きと見えたのだ。鏡の模様が動くわけはない。  玲は自分にそういい聞かせながら、再び鏡に視線を落とした。  銀鼠色の金属の上で磔《はりつけ》になった蛇は、微動だにしなかった。     2  ざっ、ざっ、ざっ。地面に猫の爪跡のような細いひっかき傷をつけて、竹箒《たけぼうき》で風に飛ばされた緑の葉を掻き集める。土くれと一緒になった塵ごみの中に菓子の空袋を幾つも見つけて、東高遠《ひがしつじこうえん》は白いものが混じった眉を寄せた。  また、境内をお喋《しやべ》りの場所に決めている中学生たちの残したものだ。塵は塵箱に入れろと、あれほど口を酸っぱくして注意しているのに、彼が目を離していると平気で地面に棄てる。あんな奴らこそ、まとめて塵箱に突っこんでやればいいのだ。そうすれば、この世はどんなにきれいになることだろう。  高遠は塵取《ちりと》りに木の葉や紙袋を掃き入れると、腰を伸ばした。  鏡作羽葉《かがみつくりはば》神社は、日没前の柔らかな空気に包まれていた。参道の正面にある拝殿、その奥に続く本殿。周囲を包む杉や粗樫《あらかし》や榎《えのき》。楝《おうち》の巨木には、今を盛りと淡紫色の花が咲き誇っている。  竹箒を手にして、しばらく境内の佇《たたず》まいを眺めていると、苛立《いらだ》ちもおさまってきた。  最近、怒りっぽくなっているのは、歳のせいばかりではない。神を信じなくなっている近頃の人間が、彼の神経を苛立たせるのだ。  亡父から神職を譲られて以来四十年、高遠はこの神社を守ってきた。その長い年月の間に、人々の意識も変化してきたのを感じる。まだ斗根《とね》の人間はましなほうだが、たまに出かけて行く奈良市内で観光客の一団とすれ違ったりすると、つくづく情けなくなる。敬虔な心をもって参拝している者はほとんどいない。おもしろ半分か、お義理程度の気持ちで、神の前で手を合わせるだけだ。このまま世の中が進んでいくと、ろくなことはあるまい。  高遠は苦虫を噛み潰した顔で、塵取りに集めた木の葉や空袋を黒のビニール袋の中に落とすと、次に拝殿の前の玉砂利を掃きはじめた。  小石の飛ぶ音がした。顔を上げると、自転車に乗った若い男が参道をこちらにやってくる。背広姿でいかにも暑そうに頬を膨らませて息をしながら、近づいてくると、 「ただいま、お父さん」  と声をかけて、横を通り過ぎていった。  次男の高志《たかし》だ。高遠に似て痩せ型の体つきだが、自転車を漕ぐたびに背筋がぐねぐねと揺れる。そんな主人に追従するかのように、前の籠に突っこまれた書類バッグも一緒になって飛び上がっている。精神的な鍛練に欠けているためだ。息子の姿勢を見るたびに、高遠は背中を一喝してやりたい気持ちをこらえる。彼はむっつりした声で、おかえり、と返事をした。  高志は、拝殿の南木立の中にある家へと自転車で入っていく。あの子が神官になると決心してくれさえすればすべてまるくおさまるのだがな、と、何度となく呟いた愚痴が、高遠の胸にまたこぼれ出てきた。  東家は代々、鏡作羽葉神社の神官職を務めている。社伝によると、その歴史はこの神社の建立された雄略天皇の代に遡《さかのぼ》るというから、千五百年以上続いていることになる。しかし高遠の代になって、その血統は途絶えようとしていた。  高遠には二人の息子がいる。長男の高勝は教職に就き、結婚して橿原《かしはら》市に住んでいる。次に期待をかけた高志は、神主のような辛気臭い仕事は嫌だといって、奈良市の商事会社に就職してしまった。三十五歳になる今も独身のまま、会社と家とを往復している。  高志が興味を示すのは、女でも神事でもなく、電気製品だ。新製品が出るたびに、給料をはたいて買いこんでいる。そして会社が終わると、どこかで遊ぶでもなく早々に家に帰って機械相手に夜を過ごす。休日までも、嬉々として機械の掃除や修理に費やす。  高遠には、息子の精神構造がさっぱり理解できない。  だが、もっと驚くのは、息子だけが特別なのではない、ということだ。  神職のかたわら、彼は自宅で小学生相手に塾を開いていた。その塾に通ってくる子供もまた電気製品の話になると、俄然、目を輝かせる。外で遊ぶこともしないで、テレビゲームとやらに耽《ふけ》っているらしい。  ざざざあっ、ざざざあっ。高遠は、玉砂利の上を竹箒でならしていく。白っぽい小石のひとつひとつが夕日の淡い光を宿している。銀色の羽を震わせて、糸《いと》蜻蛉《とんぼ》が飛んできた。宙に浮かんだ色《いろ》硝子《ガラス》のような青緑色の胴体が、石の原を滑っていく。身近にあるこんなに美しい光景に目を向けようともせずに、奴らは暗い部屋に閉じこもっている。  神を見なくなったせいだ。今の時代、誰もが神の力を信じなくなっている。侮《あなど》ってはいけないのに。神は、人間にいつも優しい顔を見せてくれるとは限らない。優しい顔の裏には、恐ろしい顔が潜んでいる。  神の優しい顔を見続けることが大切なのだ。その顔から注意を逸《そ》らすと、神はくるりと顔を裏返しにする。そして、災いをもたらす恐ろしい顔を人間へと向けるのだ。だからこそ、神は崇《あが》めなくてはならない。なのに近ごろの人間ときたら……。  高遠の額の皺《しわ》が深くなった。  彼の視線が拝殿の前の玉砂利から、さらにその向こうの池へと移っていった。  神社の北側に広がる森を背景に、小さな池がある。夕焼けに染まった空と木々が水面に映し出されている。澄んだ水の表面で、森の緑も空の雲も揺れていた。  風が吹いているのだろうか。  高遠はあたりを見回した。空に貼りついた押し絵のように、木の葉はそよとも動いていない。風なぞなかった。  彼の心に、いやな予感が湧きあがった。  まさか……。また、あれがはじまった、ということがあるだろうか。  高遠は竹箒を手にしたまま、不安を胸に抱えて池の辺《ほとり》に歩いていった。  それは直径十メートルほどの円形の池だった。なぜかは知らないが、昔から鏡池と呼ばれている。鏡池のすぐ後ろを森の木々が守り、境内に面する側には低い石の柵が設けられていた。いつもは鏡のような水面を見せているその池に、今、波が立っていた。  普通の波ではなかった。  水に石を落とした時のように、小さな環が池の中央に生まれてするすると広がる。波が池の縁に達すると、また中央にぽつんと次の環が現れる。誰かが石を投げてるわけでも、風が吹いているわけでもない。なのに波は規則正しく、池の中で環を描き続ける。  高遠は身じろぎもせずに水面を凝視していた。脅えが体内に満ちてくる。唇が寒気を覚えたように震えだした。 「か……神様……」  喉の奥から、呻き声が絞り出された。  手から滑り落ちた竹箒が玉砂利の上に転がって鈍い音をたてた。  弁柄《べんがら》を菜種油と混ぜた溶液に浸した布をこする。力まかせに何度も手を動かして、弁柄の赤茶色に染まった布を取った。  銀鼠色の鏡の面に、白い顔が映っている。おぼろげながら、顔の輪郭がわかった。表面の曇りは、少しは晴れたようだった。最後に、鏡に残った弁柄をきれいな布で拭き取ると、玲は顔を上げて嬉しそうに叫んだ。 「見て、広樹さん、やっぱり弁柄で磨くといいみたい」  広樹は雑巾を手にしたまま、縁側の玲をふり向いた。彼の前に敷かれた茣蓙《ござ》の上には、金具が取れかかった茶箪笥や漆器の膳、蛇の目傘や煙草盆などが置かれている。蔵から出した古道具類の汚れを取っているところだった。 「どら、見せてごらん」  広樹は二の腕に額の汗をなすりつけると、玲にいった。玲は縁側から降りて、彼のところに蔵で見つけた鏡を持っていった。  広樹は雑巾をバケツに放りこんで、濡れた両手をジーンズの尻で拭った。そして真剣な面持ちで鏡を受け取った。 「まあまあだな。でも、鏡として使いたいなら、もっと磨かないとな」  玲は顔をしかめて、力をこめたためにだるくなった腕を振った。 「こりゃ、大変だわ」  弁柄の粉末は、やはり姉の遺品の中に入っていた。それで磨けば鏡の曇りが取れると教えてくれたのは、広樹だった。 「まったく、すごい鏡だな。親父が見たら、涎《よだれ》を垂らして喜ぶぞ」  広樹は鏡をひっくり返すと、しげしげと眺めた。 「古代の鏡だとは思うが、それにしては珍しい模様だ。たいていは中国の影響で龍が描かれているのに、ここでは蛇だ。それも花びらの形の環になっている。中国ではなく、どこか遠いところから渡ってきた品かもしれないな」 「遠いところって?」  横から鏡を覗きこんでいた玲が聞いた。 「西アジアあたりかもしれない。この鏡の縁につけられた葡萄唐草《ぶどうからくさ》文様は、もとはアッシリアに起こり、世界に広まったといわれているから、案外、そんな遠くからシルクロードを通って日本に持ちこまれたのかもしれない……」  広樹は目を細めて、永尾家の瓦屋根の向こうを眺めた。彼の心は、またどこかにさまよい出ていた。玲は、広樹の手から鏡を取り上げた。 「わかったわ。とにかく、これは古代の舶来品なわけね」 「いや、いちがいにそうとも……」  広樹がさらに説明しかけた時、納屋の戸口に史郎が現れた。農耕機械の手入れでもしていたのか、両手が油で汚れている。広樹と玲を見て、近づいてきた。 「どうでっか、広樹さん。なんぞ、蔵で見つけはったか」  広樹は、茣蓙の上に広げた古道具を指さした。 「たくさん、いいものがありますよ。ほんとに、これ全部お譲りいただけるんですか」  史郎はそこに並んだものを一瞥《いちべつ》して、口をへの字に曲げた。 「こないながらくた、買い取ってくれはるだけでありがたいですわ。けんど広樹さん、ほんまにこれで商売になりますんか」  広樹は白い歯を見せて笑った。 「古い民芸品には、けっこう固定客がいるんですよ。店のインテリアにいいって、どっさり買いこんでいくレストランの経営者もいますしね」 「そうかぁ。東京へんやったら、古い物も珍しがられるんか。うちにある鍬《くわ》やら鋤《すき》も、東京へ行ったらどしどし売れるかもしれへん。一遍、売りに行ったろか、なぁ」  玲は吹き出した。 「お父さん、阿呆なことゆわんといてや。広樹さん、あきれてはるやんか」 「どこが阿呆なことや。在庫の農具を抱えて、ほかすわけにもいかんで、うちは今、困ってんや」  おどけるように応えた史郎だったが、玲が抱えている鏡に気がついたとたん、声音が変わった。 「おまん、何、持っとんや」  玲は銀鼠色に光る鏡を見せた。 「蔵で見つけてん。広樹さんが弁柄で磨くといいと教えてくれはったから、やってみたら少しは曇りが消えてきたわ」  焼いた魚の目玉のように白眼を剥き出して、史郎は鏡を睨みつけた。 「その鏡、綾の……」  玲はためらいがちに頷いた。 「お姉ちゃんの遺品の中から見つけたんや。気にいったんで、私、使わせてもらうことにしたん」 「あかんっ」  史郎の怒鳴り声が飛んだ。玲は驚いて、鏡を胸に抱いた。広樹も、突然の史郎の変化にぽかんとしている。 「ただの鏡やないの。私が使うて、どこが悪いんや」 「あかんものは、あかんっ」  史郎は鏡を両手でつかんで、玲から引き剥がした。 「こんなもん、外に出したらあかん」  吐き出すようにいって、庭木立の向こうに立つ白壁の蔵に行きかけたが、その足がはたと止まった。史郎は、広樹に向き直った。 「せや、広樹さん。この鏡、あんたにお譲りしますわ。早いとこ、どこぞに売り飛ばしてくれはらへんか」  広樹は驚いて言い返した。 「でも、永尾さん。こんな珍しい鏡、手放すのはもったいないですよ」 「そうよ、お父さん。白銅鏡ゆうて、青銅の一種やけど、錫《すず》の割合の多い金属なんやて。古墳時代のもんかもしれへんて。もしそうやったら、すごい貴重品なんやで」  玲も、広樹の言葉の受け売りをした。鏡の価値を説明していると、なおさら売り飛ばすことには承知できない、と思った。  だが父は口を曲げたままで、頑固にいい張った。 「どんな鏡やろうとかまへん。とっとと売り飛ばしたってや。頼んますわ、広樹さん」  腕に鏡を押しつけられ、広樹は戸惑って、はあ、と返事した。 「約束しましたで」  史郎は念を押すと、店のほうに歩いていった。玲は父の背中に声をかけた。 「お父さんっ。そんな、もったいないこと、せんといてえや」  史郎はくるりと振り向いた。そして興奮を抑えて大きく息をすると、静かに口を開いた。 「ええか、玲。それは……その鏡は……自殺した綾の足許に転がってたもんなんや」  玲の心に、その言葉の意味がゆっくりと滲みこんできた。 「お姉ちゃんの横に……?」  百日紅《さるすべり》や金木犀《きんもくせい》の庭木を隔てて、蔵が見えた。その蔵の中で首を吊っていた姉の姿が頭に浮かんだ。綾は、お気にいりの白のブラウスに、芥子《からし》色のスカートを穿いていたという。鏡は、薄暗い蔵の天井を背景に、首に縄を巻きつけて揺れる姉の遺体を映していたのだ。  玲は青ざめて、弁柄で赤茶色に汚れた手で広樹の腕にしがみついた。 「そんな鏡、二度と見とうもない」  史郎は呟くと、足早に家に入っていった。  夕闇の迫る庭で、しばらく玲も広樹も無言のまま立っていた。烏《からす》の黒い影が空を横切っていく。それを見上げていた玲の視線が、広樹が手にした鏡に降りてきて止まった。銀鼠の輝きが、やけに冷たく感じられる。 「知らなかったわ……」  広樹は鏡を眺めていった。 「見事な鏡だが、お父さんが手放したいというのも、むりないな。この鏡を見ると、お姉さんのことを思い出して辛いのだろう」 「見せて」  玲は再び広樹の手から鏡を取り上げた。  姉が最後の瞬間まで手放さなかった鏡なのだ。よほど気にいっていたのだ。玲は、鏡を両手で持つと、ぶ厚い縁に沿って赤茶色に染まった指を走らせた。そこにはまだ、姉の手の温もりが宿っている気がした。 「私、やっぱり、この鏡を売るのはよくないと思う」  広樹はあきれた顔をした。 「おいおい、玲ちゃん。俺は、お父さんから売るように頼まれたんだぜ。約束を破るつもりはないよ。明日ここを出発する時には、持っていくつもりだ」 「私が買い取るわ」  彼は首を横に振った。いつもは玲のわがままを笑いながら聞き流す広樹だが、どうしても譲れないところに来ると、表情が鋼鉄の仮面と化する。今の広樹がそうだった。玲は、彼に何をいってもむだだと悟った。 「だったら、明日まで私に預からせて」  広樹はためらうように口を結んだ。玲は、鏡を肘で抱えたまま両手を合わせた。 「お願い」  こんな仕種《しぐさ》に、広樹が弱いことはわかっていた。案の定、彼は不承不承ながら肩をすくめた。 「しょうがないな。明日までだぞ」 「ありがとっ」  玲は鏡を持って縁側に戻ると、そこに置いていた緋色の天鵞絨《ビロード》を拾い上げ、サンダルを脱いで家に上がった。 「これ、明日まで部屋に隠しておくわ」 「見つからないようにしてくれよ。玲ちゃんのお父さんに睨まれたくないからな」  広樹はバケツの雑巾を取り上げながらいった。玲は、わかった、という印に、親指と人差し指で、輪を作ってみせた。  縁側を入ると、茶の間になっている。続きの台所で、母が夕食の準備をしていた。玲は鏡を両腕に隠して、台所の横の襖《ふすま》を開いた。三畳の仏間を横切って、また襖を開くと、玲の部屋になっていた。  玲は部屋の襖をしっかりと閉ざして、洋服箪笥と本棚が並んでいるだけの殺風景な六畳の間に足を踏みいれた。この部屋は、生前の姉が使っていた。今では姉の持ち物は片づけられて、納戸代わりになっている。ここに置かれている家具は、玲の箪笥や本棚だ。自分の持ち物があるというだけで、玲は東京から帰ると、いつもこの部屋で寝起きしている。  部屋の北側は壁。襖を隔てた南隣は、広樹が泊まる部屋だ。西側は、道路に面していて、連子窓が嵌《は》めこまれている。玲は窓辺の明るいところに座ると、床に天鵞絨を広げた。その上に鏡を置こうとして、背面の浮き彫りに目が吸い寄せられた。  蛇は艶めかしい色を放ちながら、体をくねらせている。見れば見るほど、美しい模様だと思った。  どうして、この鏡を手放さないといけないのだろう。見事な細工を見ているのが忌ま忌ましくなって、玲は鏡をひっくり返した。銀鼠色の鏡の表面が現れて、連子窓から射しこむ夕日をぎらりと反射した。  向かいの家の窓辺に、銀色の輝きが見えた。  赤い糸の絡みついた指が、動きを止めた。白い指を薄暗い連子窓の内側に這わせ、少女は窓辺にかがみこんだ。  夕焼けに染まる表の道路に面して、左端の道角の石灯籠の前から右端の門まで、永尾家の堂々とした建物が続いている。光が放たれたのは、その家の中央にある連子窓からだった。  あの鏡や。あれがまた出てきたんや。  少女は唇を半ば開いて、じっと永尾家の連子窓を見つめた。しかし、あの銀色の輝きはもう現れなかった。  少女の指が再び動きだした。両手の親指と人差し指に赤い糸を巻きつけて、小指で糸を取る。中指を曲げて糸をつまむ。赤い糸を絡ませた白い手が、薄暗い窓辺で楽しげに舞う。  だが少女の瞳は、手許で繰り広げられる綾取り遊びを見ていない。少女の視線が注がれているのは、永尾家の連子窓の奥。  外の景色が、次第に淡い闇に溶けていく。向かいの家に灯がともる。  それでもまだ、少女はじっと通りの向こうを見つめている。つぶらな瞳に暗い情念を燃えたたせ、少女は待っていた。今までずっとそうしてきた。獲物を待つ狼のように、暗がりに息をひそめて待っていた。  あの鏡が、少女の前に現れるその時を。 「ほら、広樹さん。まだ、いけますやろ」  史郎が上機嫌でビールを差し出した。広樹は照れ笑いを浮かべながら、史郎の注ぐビールをコップに受けた。  玲は、自分のコップも父に差し出した。 「なんや、おまえもまだ飲むんか」  史郎が大きな白目の縁を充血させていった。父は、口では大酒飲みのようなことをいうが、実際はそれほど強くはなかった。  玲はけろりとしていった。 「ええやんか。はよ、入れてよ」  史郎は、座卓ごしに広樹に囁《ささや》いた。 「ほんま、広樹さん、こんな娘をようもろうてくれはりますわ」  広樹は、玲を振り返って笑った。 「いや、僕も酒は好きですから、好都合ですよ」  史郎は玲のコップにビールを注いだが、娘にいい聞かせた。 「ええ旦那さんや。大事にせなあかんで」  玲は、はいはい、と生返事して、ビールを飲んだ。  茶の間の卓上では、すきやきが煮立っていた。開け放した縁側の硝子戸の向こうの庭が闇に沈んでいる。蚊取り線香の匂いが微かに漂っていた。  玲はコップを持ったまま、丸い座卓を囲む両親と広樹を眺めた。史郎の横に座った清代が、煮えた野菜を菜箸《さいばし》で父の鉢に盛っている。父は、母が差し出した鉢を当然のように受け取り、母が注ぐビールを飲み干す。見慣れた食卓の光景だ。それに今、広樹と玲が加わっている。  すきやきの鍋から、白い湯気が立ち昇る。煙を通して、皆の顔がぼやけて見える。この中に欠けているのは、姉の姿だ。  姉が生きていたなら、もう結婚していただろう。子供もいたかもしれない。  玲にはその情景が見える気がした。白い顔を上気させて、口に手をあてて笑う綾。いつもは声をおし殺して笑うのだが、何かのはずみで抑制がきかなくなると、頭のてっぺんから出るような甲高い声になったものだった。 「……なぁ、玲。玲っ」  気がつくと、父が声をかけていた。  玲は、自分がもの思いに浸っていたことに気がついた。故郷に帰ったせいか、今日はやけに姉のことを思い出す。玲は、まだ頭の中でこだましている綾の笑い声を振り払い、「なに?」と聞いた。  史郎はおおげさにため息をひとつ、ついてみせた。 「聞いてへんかったんか。広樹さん、うちに一泊しか、でけへんのやて?」  玲は、困った顔をしている広樹を非難をこめて振り向いた。 「そのことやったら、お母さんに電話でゆうたやろ」  清代はご飯を口に含んだまま、頭を下げた。 「ああ、すんまへん、お父さん。うっかり、ゆうの忘れてもうて」  史郎は眉間に皺を寄せた。太い眉が横に一文字に繋がった。 「もうちょっと、ゆっくりしてかはったらええのになぁ」 「仕事があるんやて」  玲はぶっきらぼうに答えた。  せっかくだから実家で二、三日滞在していったらいいとは、すでに口を酸っぱくして広樹に勧めていた。しかし彼は首を縦には振らなかった。  玲にはわかっていた。彼女の両親、特に父が苦手なのだ。広樹はどちらかというと無口な男だ。一方、父はどんな相手でも喋り倒してしまう口達者だ。広樹は、父と一緒にいると疲れるという。  清代が、怒った口調になった玲を諫める視線を送って、広樹にいった。 「そら、お仕事は大事ですもんなぁ。ほんで、松阪に行かはるんでしたな」  広樹はあぐらをかいた膝に片手をのせて、ほっとしたように頷いた。 「ええ。三重県と愛知県の骨董品屋を何軒か回って、日曜日には名古屋の骨董市に顔を出して帰るつもりです」  史郎が、広樹のコップにビールを注ぎ足して訊ねた。 「ほいで、明日の松阪の宿は決まってはるんか」 「いや、まだですが……」  玲がすかさず口を挟んだ。 「決まったら、絶対、連絡してよね」  広樹は頷いただけだった。玲は、彼のあぐらの膝を揺すった。 「電話するの忘れたりしたら、今度こそ許さないから」  史郎と清代が、あきれ顔で娘を見た。広樹は苦笑いしながら、説明した。 「仕入れの旅に出ると電話もしないというんで、玲ちゃん、僕のことを怒ってるんですよ」 「だって広樹さん、糸の切れた凧《たこ》みたいに、行ったきりなんだもの」  玲の呟きに、史郎がぱしんと自分の太腿を叩いた。 「おい、玲。今から、そんな縛りつけるようなこといいよったら、広樹さん、逃げてかはるで。男ゆうんは、女にごちゃごちゃいわれるんが、いちばんたまらんのや」  玲はむすっとして、ビールを飲み干した。 「お父さんは古い人間やから、そうゆうんやわ」 「古い人間やから、やない。それが夫婦の道理、ゆうもんや」  馬鹿らしい。玲は内心思ったが、父といい争ってもむだなのはわかっていたので、黙っていた。  広樹があの古ぼけたワゴン車で日本国中を回っている間、めったに玲に電話をかけてこないことは、常に二人のいい争いの種だった。公衆電話を探すのが面倒なのだ、と広樹は言い訳するが、玲にはそれが信じられない。自分を愛しているなら、電話くらい探すのは苦にならないはずだ。私が彼を求めているほど、広樹は自分を求めていないのではないか。デートの予定を立てるのは、たいてい玲だ。電話をかけるのも、彼女からのほうが多い。そして仕入れの旅に出ると、一週間も二週間も電話一本よこさない。そんな時、玲は、彼がどこかの町で浮気しているかもしれないと不安になる。結婚を迫ったのも、自分と彼の絆《きずな》を確かなものにして、不安感から抜け出したかったためだ。  玲は、自分の隣の大柄な男を見遣《みや》った。肉をほおばって、頑丈な顎で噛み砕いていた。玲が不機嫌になったことなぞ、少しも気にしていない。  どうして、こんな無骨な男を愛するようになったのだろう。学生時代から何人かつきあった恋人たちとは、広樹はずいぶん違っていた。彼らはいつも玲の顔色を窺《うかが》った。おちゃめでわがままな娘。それが男たちの一定した評価だった。逆にいうと、玲はそんな自分を演じているところもあった。  だが広樹は、彼女が何が欲しいかとか、何を考えているかとか、しつこく聞いたりしない。玲がじゃれる子猫のように寄っていくと、毛糸の玉になってくれる。しかし彼女がじゃれるのを止めると、その毛糸の玉は得体の知れないものに変わって、手の届かないところに行ってしまう気がした。  この前、仕入れの旅に出たまま、一か月も連絡がなかった時もそうだった。玲は自分が棄てられたのではないかと疑い、毎日泣き暮らした。  感傷的になっているだけのことだとはわかっていた。ただ、やはり気がかりなのだ。  玲は、社会的には立派なキャリア・ウーマンだ。二十七歳で自立している。なのにこと広樹に対しては、聞き分けのない小娘になってしまう。たぶん彼が、彼女の知り合ってきた男たちの中で、唯一、玲に譲らない男だからだろう。  広樹は気ままに生きてきた男だった。大学を出て、一年間日本各地を放浪。根なし草の生活にも飽きて、やっと勤めはじめた会社も、半年して飛び出した。その後、トラックの運転手や営業員、探偵業まで、さまざまな仕事を転々として、今の父親の店の手伝いに落ち着いたという。はじめてみると案外、古道具屋の仕事は彼に合っているとわかり、父の跡を継ぐ決心をした。だが店を大きくしようという野心もなく、気ままな生活を続けている。結婚しても、それは変わることはないだろう。  きっと自分は、広樹のその自由なところに惹《ひ》かれたのだ。自由で何事にもたいした執着心はない彼を、玲は好きなのだ。  しかし、そんな彼を愛することは、両刃の剣だった。執着心が薄いということは、愛についてもいえるのだから。玲にとって、彼は、どこまでいっても自分の手中に入らない宝物のようだった。  広樹が大きな口を開いて、欠伸《あくび》をした。お茶を出していた清代が、気づかっていった。 「疲れはったんやろ、広樹さん。今日は東京から運転してきはったんですもんな」 「なんだかビールが利《き》いてきたみたいです」  広樹は拳を口にあてて、また欠伸を噛み殺した。玲は腰を浮かせた。 「広樹さん、部屋に戻りましょ」  いつまでも父の相手をつとめさせるのも気の毒だった。玲はいい頃合だと思って、広樹を連れて茶の間の横の仏間に入っていった。仏間から玄関の控えの間に行き、さらに襖を開くと客間になっている。すでに母が広樹のために夜具の用意をしていた。  部屋の電気をつけると、青白い蛍光灯の光に八畳の客間が浮かび上がった。南面に床の間があり、西面に連子窓。北は玲の部屋と襖で隔てられている。  広樹は部屋に戻ると、ごろりと布団に仰向けになった。 「ああ、腹いっぱいだ」  自分の下腹部を両手で叩いている。玲はその横に座って、広樹の腹を撫ぜた。 「ほんとだ。ぷっくり膨れてる。赤ちゃんみたい」  広樹はわざと腹を膨らませてみせた。玲は、その筋肉の張った腹の脇を両手でくすぐった。 「よせよ」  広樹が体をよじらせて、玲の両手をつかんだ。玲は笑いながら、両足で彼の体を跨《また》いで覆いかぶさった。広樹の体温が服を通して伝わってくる。彼の息づかいが顔に吹きかかった。玲は、広樹を見下ろした。彼は、口許に穏やかな笑みを浮かべて、眩しそうに蛍光灯を見ていた。 「私のこと、愛してる?」  玲は聞いた。彼はゆっくりと視線を玲の顔に移した。その目は驚いたように、少し見開かれている。 「どうしたんだい、急に」  玲は彼にかがみこみながら、もう一度聞いた。 「私のこと、愛してる?」  ふと口をついて出た言葉なのに、真剣味が混ざっていた。彼女の真面目な表情に気がついたのか、彼はからかうのをやめて、玲の背中に手を回した。 「ああ、愛してるよ」 「ほんとに?」  広樹は頷《うなず》いた。  玲は微笑んで、広樹の顔に唇を近づけた。しかし、唇が触れ合うか触れ合わないうちに、玄関前の廊下で声がした。 「広樹さん、お風呂の用意できてますねん。入らはったらどうですか」  清代だった。 「はーい、すみません」  広樹は両手で玲の肩を押して、起き上がった。 「つまんないの」  玲は小さな声でいって、しぶしぶと彼から離れた。広樹はにやりとした。 「実家では、いい子にしとくんだよ」  広樹はナップザックを開けると、下着や洗面用具をしまった半透明のバッグを取り出して、部屋を出ていった。  玲は布団から立ち上がり、隣の部屋に入った。後ろ手で襖を閉めて、六畳の部屋の電気をつけた。 「愛してるよ、か」  玲は一人で呟いて、部屋の真ん中にどさんと座った。  先の広樹の言葉を頭の中で繰り返すうちに、苦々しい思いが混ざりこんできた。あの言葉も、自分が広樹に強要していわせたようなものだ。  ほんとうに、彼は私を愛しているのか。私のことを必要としているのだろうか。  愛する者は、貪欲な獣だ。最初は、甘い言葉の砂糖にくるまれたほんの僅かな餌をもらえただけで喜んでいても、やがてはもっとたくさんの甘い言葉、もっとたくさんの心が欲しくなる。  広樹がいけないのだ。私に、愛されているという実感を与えてくれない。私はいつも腹を空かせて、彼の周囲を徘徊している。彼の投げ与える、ほんの小さな餌すらもむだにしたくなくて。  そんな自分を感じるたびに、自尊心が傷つけられ、玲は腹立たしくなる。そして、彼女の精神的な葛藤に無頓着な広樹が憎らしくなる。憎らしくて、忌ま忌ましくて……もっと愛して、と叫びたくなる。  膝小僧を抱えて座っていた玲の目が、窓辺の緋色の天鵞絨に止まった。彼女は、連子窓ににじり寄ると、布を開いて、鏡を取り出した。  鏡の面に、丸いぼんやりした顔の輪郭が浮かんでいるだけだった。丸顔に大きな瞳。滲むように映る自分の顔を眺めながら、姉はこんな恋愛の苦しみを知っていたのだろうか、と思った。  玲が東京の大学に入学して、この家を離れた時、綾は二十五歳だった。彼女が覚えている限り、それまで姉が恋愛沙汰を起こした記憶はない。密かに憧れている男性くらいはいただろうが、誰か特定の相手と交際したことはなかったはずだ。  綾は典型的な箱入り娘だった。奈良市の短大を卒業後、家を手伝うようになると、何の疑問もなく、次の目標である結婚への準備にとりかかった。両親もそれを歓迎して、次々に見合いの話を持ってきた。  いい婿養子をもらって、店を継いでもらう。それが両親と姉の夢だった。  玲が中学校の時から、着物を着た姉が頬を紅潮させて、母と一緒に家を出ていく姿をよく見かけるようになった。  帰ってきた綾は、ぐったりと疲れていた。相手が気にいった時は、細い目がきらきらしていたし、気にいらなかった時はふさいだ顔をしていた。  だが、結果はいつも同じだった。どの縁談も潰れていった。向こう側から断られることも、こちらから断ることもあった。その度に、ため息が家に満ちた。  綾は理想的な女性だったと思う。しとやかで従順。見合い相手としては申し分なかった。だが、養子という条件が災いしたのか、なかなか相手は見つからず、姉は次第に見合いに嫌気がさしていった。  ──私なんかより、あんたがこの家を継いだらええ。玲ちゃんやったら、喜んで養子になる人が見つかるかもしれへん。そうしたらどうや?  ある時、姉が、玲にいったことがある。まだ高校生だった玲が、それもいいかもしれない、と軽い気分で答えると、綾は連子窓の外を眺めて呟いた。  ──あんたが結婚して、この家で旦那さんと暮らすようになったら、私、一緒におられへんな。羨《うらや》ましゅうて、辛《つろ》うなりそうやわ。  それは冗談とも本心ともとれる口調だった。玲は慌てて、今にいい相手が見つかるよ、となぐさめたものだった。  姉は何回見合いをしたのだろう。二十回はしたと思う。最後の見合い相手は、京都の繊維会社に勤めている会社員だった。その見合いの時、玲は大学の冬休みで帰省していたから覚えている。見合いから帰ってきた綾は、考えるような表情をしていた。  ──ええ人みたいやけど、私のこと、気にいってくれるかはわからへん……。  好意は抱いていたが、夢中になっていたわけではなかった。だから姉がその相手と交際をはじめたと聞いて、少し驚いた。だけど、きっとデートを重ねるうちに、お互い本気になったのだろう、と玲は単純に考えていた。  もし、あの時の姉の気持ちをちゃんと聞いていたなら、姉は自分に心の中を打ち明けていたかもしれない。そして半年後に自殺なぞしなかったかもしれない。  どうして姉は自殺してしまったのか。  今日、何度も頭に湧いた疑問が、また浮かんだ。  家中の者が喜んでいた縁談だった。姉もまんざらでもない顔をしていた。秋に挙式を控え、なぜ死んでしまったのだろう。結婚相手との間に、何かあったわけでもなさそうだった。綾が結婚するはずだった男は、彼女が自殺するような理由は思いつかない、と答えたという。  玲は、その相手を姉の葬式ではじめて見た。これといって特徴はないが、実直そうな男だった。彼となら、姉も幸せになれただろうに……。  玲は、無意識に鏡の縁を撫ぜさすっていた。手の温もりが伝わったのか、鏡の冷たさが和らいでいた。  姉は、死ぬ直前まで鏡を見つめながら、悶々と悩んでいたのかもしれない。誰にも悩みを打ち明けることができなかったのだ。姉はそんな人間だった。子供の時から、辛いことはすべて胸の内にしまっていた。  だが、もしかしてこの鏡だけは、姉の悩みを聞いていたのではないか。  銀鼠の鏡には、輪郭も曖昧《あいまい》な丸い顔が映っている。光の具合か肌が妙に白く見えた。そう、姉の肌のように白い……。  玲は不思議な気がして、曇った鏡を覗きこんだ。ぼんやりと輝く色白の顔に、黒い染みに似たものが二つ。何かを語りかけるように、鏡の中からこちらを見ている。  じっと眺めていると、その滲んだ瞳が少しずつはっきりとしてきた。茅《かや》の葉を思わせる細い目だ。  私は、こんな目をしていただろうか。こんなに横に切れていただろうか。  ぼやけた顔の中で、二つの目だけがくっきりと浮き上がっていた。それはまるで鏡に落とした墨の雫《しずく》。黒い虹彩の部分が鮮やかに輝いている。  姉の目だ。  何の脈絡もなく、そんな思考が頭に閃いた。そのとたん、瞳が合図をするように瞬《またた》いた。  玲は息を止めた。体が凍りついている。それでも鏡から目を逸らすことができない。  今、見たものは何だっただろう。自分では、瞬きした覚えがなかった。どうして鏡の中の目だけ、瞬いたのか。もう一度、じっと鏡の中を覗いた。そこに映る二つの瞳は、再び滲むような黒い点に戻っていた。  目の錯覚だったのだろうか。  玲は鏡を連子窓の下に置いた。ことり、という重苦しい音が部屋に響いた。     3  緑の苔に覆われた石が、木洩れ日の中に佇《たたず》んでいた。長年の風雨に晒されて、ぼろぼろになった灰色の岩肌。石の下半分は軟らかな泥に埋まっている。東高遠は鏡作羽葉神社の森の中に立って、打ち棄てられた墓標にも似たその石を見下ろしていた。  木々の間から、子供たちの笑い声が聞こえてくる。神社の境内は、近所の子の通学路になっていた。毎朝、小学校のはじまる時間になると、境内を横切って農道へと向かう小学生たちの姿が現れる。  無邪気な子供の笑い声と、小鳥の囀《さえず》り。その平和な音に耳を傾けながら、拝殿で祈りを捧げるのが、高遠の朝の日課だった。  だが、今朝はとうていそんな気分にはなれなかった。心の奥から、もやもやと湧き上がってくる不安感は昨夜から続いている。  高遠は大きく息を吸うと、その場にしゃがみこんだ。下駄の先が泥にめりこんで、素足の親指に触れた。泥の冷たさが、全身を貫いた。彼は、ぎょっとして腰を浮かせた。そして下駄の先を泥から引き上げると、目の前の石を見つめた。  円盤の形をした石だった。湿地の上に、三十センチほどの高さに突き出ている。石の丸い縁には、びっしりと小さな切り傷がつけられていた。よく見ないと、ただの石のでこぼこと間違いそうな古い傷から、比較的新しい傷までさまざまだ。 「いち、にぃ、さん、しぃ……」  高遠は最も古い切り傷から指さして、慎重に数えはじめた。 「二十三、二十四、二十五、二十六……」  彼のしゃがれ声が、木立の間に流れていく。石の周囲には姫蒲《ひめがま》の群生が広がっている。じめじめした空気がたちこめていた。 「六十九、七十、七十一、七十二、七十三……」  祝詞《のりと》をあげる時と同じ単調さで、高遠は数え続ける。骨ばった指が、石につけられた傷の上を滑っていく。 「……九十六、九十七、九十八、九十九」  声が止んだ。  高遠は自分の見ているものが信じられないというように、石の傷を睨みつけた。それは、比較的新しい傷だった。その傷のすぐ先に、彼が最初に数えはじめた最も古い切り傷があった。 「ほな、あと一遍しかないゆうことか」  低い呟きが洩れた。 「もう一遍、池が赤うなったら、神様が出てきなはる……」  ぴちゃっ。泥の撥《は》ねる音がした。姫蒲の間から、灰色の蛇が這い出てきたところだった。蛇は鎌首をもたげて丸い瞳を光らせると、彼の足許をぬるぬると滑っていった。  鏡の中の顔に、鼻と口の形が映るようになった。玲は弁柄《べんがら》の染みこんだ布を持つ手を止めた。妙に白い顔の輪郭が、鏡の中でぼうっと輝いている。昨日よりも、さらに曇りは消えていた。  玲は、自分の部屋に座って、鏡を磨いていた。  表の道路から、重い物を置く音が聞こえてくる。広樹が蔵で見つけた古道具をワゴンに積みこんでいるのだ。彼はもうすぐ出発する。鏡を渡さないといけないとわかっているのに、玲は朝食がすむと部屋にこもって鏡を磨きはじめた。自分でも、どうしてこんなことをするのか、わからなかった。ただ、鏡を手放すならなおさら、表面の曇りを少しでも取り除いておいてあげたい、と思った。  姉もまた毎日のようにこの鏡を磨いていたのだ。玲は確信に近い気持ちを抱いた。真剣な眼差しで、弁柄の赤錆色に染まった指先に力をこめて、布できゅっきゅっと拭く姉の姿が頭に浮かぶ。きっとこの連子窓のそばに座って、外の弱い光に鏡を照らしながら、磨いていたことだろう。  姉が生きていた頃の部屋は、今とは違っていた。窓際には、桐箪笥と焦茶色の本棚が並び、連子窓の前には座り机。姉は、古ぼけた和家具が好きだった。その机も、店で不要になって棄てられるはずのものだった。黒光りする机には、誰かに贈られたという藍染めの敷物を置いていた。  姉の鏡には、それらの家具がぼんやりと映っていたはずだ。中央にあるのは、姉自身の顔。色白で広い額。薄い唇の線の細い顔。鏡の中の自分の顔を探るように覗きこんで、心の中で、堂々巡りの問いを繰り返す。  ──あの人と結婚して、幸せになれるんやろか。  姉の呟きが耳に響いた。  玲はぎくりとして、鏡を見つめた。  声は、鏡の中の白い顔から聞こえた気がした。しかし、そこに滲んだように映る顔は、怪訝な風情で見返しているだけだ。  彼女はゆっくりと周囲に視線を巡らせた。  固く閉ざされた襖。細かいひびの入った壁。黒ずんだ柱。六畳の部屋が妙に寒々と感じられた。  みしり。畳のきしむ音がした。  玲は、はっとして振り向いた。  部屋の襖が開いて、母の丸々とした顔が現れた。提灯《ちようちん》袖のブラウスに、エプロンをつけている。 「ああ、玲、ここにおったんか」  母は部屋に入ってくると、玲の横に来て、四角い箱を見せた。 「広樹さんへのお土産、こんなんでええやろか」  それが奈良名物の三輪素麺《みわそうめん》だとわかるまで、少し時間がかかった。玲は頷いた。 「ええんちゃう? 広樹さんが食べへんかっても、ご両親が好きやろし」 「せやな」といった母の目が、玲の持つ鏡に止まった。 「あんた、それ、どないしたん」  母の声が鋭くなった。それで玲は、この鏡を自分が持ち出したことを、母がまだ知らなかったのに気がついた。 「蔵で見つけたんや。お姉ちゃんの形見やってな。私がもらうゆうたら、お父さん、えろう怒りやって、広樹さんに売り払ってくれ、いいやってん。私、これから広樹さんに渡そうと思うて、鏡を掃除していたところや」  玲は一気に説明した。母は、それで咎めるのを止したようだが、まだ警戒する顔つきで立っている。玲は鏡を膝の上に置いて、母を見上げた。 「けど、この鏡、広樹さんは、すごい価値のあるもんやいわはったで。売るのん、もったいないと思わへんか」  母のふくよかな頬が歪んだ。 「何ゆうてんの。そんな鏡、お父さんのゆう通り、さっさと売ったほうがええ」 「なんで、この鏡をそんなに嫌うんや。お姉ちゃんの形見やないの」  清代は急に玲の前に座ると、小さな声でいった。 「その鏡を持っとったら、ろくなことあらへん。綾の様子がおかしゅうなったんやって、その鏡を蔵から見つけてきてからやし」 「お姉ちゃんの様子がおかしゅうなった?」  母は苛々《いらいら》した顔で、玲の膝の上の鏡に視線を落とすと、早口になった。 「綾がそれを見つけてきたんは、春先のことやったわ。ちょうど結納も交わした後で、蔵の中の持ち物を整理してやった途中に見つけたらしかった。けど、その鏡を手にしてから、綾はだんだん陰気になってきたんや。毎日鏡を磨いては、ため息をつきよる。縁談も決まったんやし、もうちょっと嬉しそうな顔したらどうや、て私がゆうた時、顔をふっと上げてな……」  言葉を切った母の顔に戸惑いが浮かんだ。 「なんてゆうたん?」  玲は促した。母は膝に重ねた自分の手を睨みつけて、ぶっきらぼうに答えた。 「あの人と結婚して、幸せになれるんやろか。そうゆうたんや」  鏡を持つ玲の指に力がこもった。  それは、さっき鏡を見ていた玲の頭に浮かんだ言葉だった。  玲は、その合致に気味の悪いものを感じながら訊ねた。 「お姉ちゃん、なんで、そんなこといいよったんやろ」  母はだぶついた顎に手をあてて、親指で肉を揉んだ。 「多黄子さんのことが頭にあったんかもしれへん……」 「お姉ちゃんのお母さんのこと? なんでやの?」  玲の鋭い声に、清代は、はっと顔を上げた。小柄で太った体が姫達磨《ひめだるま》のように前後に揺れた。 「なんでもあらへん」  母は、なぜかわからないが動揺し、腰を浮かせて立とうとした。玲は母のエプロンの裾を引っ張った。 「なんやの。ゆうてや」  清代はためらいながら、また畳の上に尻をおろした。八の字眉をさらに下げて、困った表情で連子窓の外と玲の顔を見比べていたが、最後に小さな息を吐いた。 「多黄子さん、綾がこんまい時に亡くなったゆうんは知っとるやろ」  玲は頷いた。清代は、いいにくそうに口許を歪めた。 「あの人も自殺しはったんや」  玲は驚いて、声を洩らしそうになった。 「綾と同じように、蔵の中で首を吊らはったんやて」 「どうして?」 「わからへんけど……、美佳さんがゆうことには」  清代は口ごもった。  美佳とは、父の妹だった。以前は田原本《たわらもと》の駅前で喫茶店を開いていて、玲も大学の休みに手伝いに行ったこともある。はきはきとものをいう、きっぷのいい叔母だった。 「美佳叔母さんが何てゆうたの?」  母の柔和な顔に苦渋が滲み出ていた。玲は、こんな母の表情をはじめて見た気がした。  母は膝の上で手を握りしめた。 「お父さん、その頃、別のとこに女の人をこさえてはったらしい。ほんで多黄子さんは嫉妬して自殺しはった、ゆうてな」  玲は、綾が鏡と一緒に残していた多黄子の写真を思い出した。色白の美しい女。だが、神経質そうな印象を受けた。父の浮気が、死にたくなるほど悔しかったのだろうか。 「お父さん、ひどいことしたんやな」  玲は腹立たしくなって呟いた。  清代は泣きそうな笑みを浮かべた。 「そんでも私と再婚してからは、浮気は一遍もしてはらへん。よっぽど多黄子さんの自殺がこたえはったんやろ。お父さん、多黄子さんのこと、ものすごう好きで結婚しはったんやて。それが綾が生まれて一、二年してから、ふらふらと別の女の人に出来心、起こさはった。魔がさしたんやて、美佳さんはゆうてはったけどな」  母は、陽に焼けて茶色くなった畳の表面に悲しげな視線を落とした。  美佳叔母は、気はいいのだが、自分の言動がどんなに他人を傷つけるのかがわからない女だった。玲が叔母の喫茶店で手伝いをしていた時、客の一人に恋したことがあった。それに気がついた美佳に何かというと冷やかされ、いたたまれない思いをしたものだ。十九歳の姪の気持ちなぞ、笑いの種にしかできない叔母だ。きっと、母に対しても、心を傷つけることをいったにちがいない。 「美佳叔母さんのゆうたことなんか、あてにならへんわ」  しかし母は独り言のように続けた。 「今でもお父さん、時々、多黄子さんのこと思い出してなはるんよ。好きでたまらんかった人やよって」 「お母さんとも、好きで結婚したんやないの?」  玲は、母の寂しそうな口調をこれ以上、聞きたくなかった。しかし、清代はやはり畳に視線を定めたまま首を横に振った。 「お父さんが私と結婚したんは、綾のためや。娘もおるし、店の跡取りがいつまでも男やもめでおるわけにもいかんゆうて、親戚に勧められて再婚しはったんや。それやに私は、綾を死なしてしもうた」  母は長いため息をついた。玲は驚いて、いい返した。 「お姉ちゃんの自殺は、お母さんのせいやないやろ」  清代はうなだれて、かぶりを振った。 「いいや、私の責任や。綾の気の乗らん見合い話を、どんどん進めてしもうた。母親代わりの私が、もうちょっと気ぃつけるべきやったんや。本当の娘やったら、私に自分の気持ちをちゃんと打ち明けておったと思う。綾にとっては、私はいつまでも他人でしかなかった。それがたまらん……」  玲は、母のほうに身を乗り出した。 「そんなに自分を責めることないよ、お母さん」  母は突然、きっと顔を上げた。 「私がたまらんのはな、お父さんが心の中で、多黄子さんやったら、娘を死なすことはなかったと思うてはることや」 「まさか、そんなこと……」 「私にはわかってる。お父さんは、いっつも頭の中で私と多黄子さんを比べてはんねん。多黄子さんやったら、こうしたやろ。多黄子さんやったら、こんなことせえへんかった、ゆうてな。私が勝てるわけないわ。多黄子さんは死んではる。死んだ人は歳もとらんし、悪いことも失敗もせえへん」  玲は言葉もなく母を見つめた。母が父と再婚して、三十年近くなるはずだ。その間、ずっと父の前妻と張り合ってきたのだろうか。母が父に口ごたえひとつせずに、父の気にいるようにしてきたのは、女の意地だったのだ。そうやって、前妻との間の見えない戦いを繰り広げていたのだ。  清代は弱々しく微笑んだ。 「死んだ人はええよ。生きてる者の心の中で、いつまでもきれいな姿でおられるからなぁ」  母はそのまま言葉を切って、しばらくおし黙った。丸々とした指先がエプロンの汚れをいじっていた。 「お母さん、お父さんと結婚して、よかったと思うてる?」  玲はそっと聞いた。  母はぎょっとしたように、娘の顔を見た。その小さな瞳に惑うような表情が浮かんだ。が、急に、ぱっと笑いが広がった。 「あたりまえやないの」  そして体を前に倒して腰を上げると、三輪素麺の箱を小脇に抱えた。 「ほら、広樹さん、もうすぐ出発やろ。辛気臭い話はこのへんにしといて、早よ、用意したらんとな」  玲は、小太りの体を揺らせて部屋から出ていく母の後ろ姿を見送った。さっき母の顔に浮かんだ戸惑いが、心にひっかかっていた。母は、父との結婚を後悔しているのかもしれない、と思った。  玲は膝から鏡を取り上げて、自分の顔を眺めた。白くぼんやりと映る顔が、何かいいたげに首を傾げている。  ──あの人と結婚して、幸せになれるやろか。  姉の呟きが心の底で聞こえた。  照りつける太陽の下で、麦藁帽子をかぶった作業員たちが背中を丸めて地面を掘り返していた。歪《いびつ》に曲がった水濠跡の環の中で、集落の存在した証拠を求めて丹念に土を除いている。水濠の遺構から少し離れた弥生式土器の破片の出土した場所では、鳴海の研究室からかりだされた学生たちが水糸を張って、土器の埋まっていた位置を実測していた。  田辺一成は水濠の縁に立って、手にしたグラフ用紙と遺跡の状態とを見比べた。  グラフ用紙には、水濠の遺構の実測図が描かれていた。地上に立っていると、ただの湾曲した溝にしか見えないが、実測図に落とされた模様は、何かの形を描いていると確信できた。  しかし、いったい何の形なのだろう。  一成は唸《うな》り声をあげて、花びらの形に環を描く模様を見つめた。簡単に花びらだといえないのは、その環の途切れた部分だ。切れた部分の片方の端だけが楕円形に膨らんでいるのは、何か理由があってのことではないか。  もう一度、水濠のほうに目を向けた時、手からグラフ用紙が滑り落ちた。そのまま風に飛ばされて地面を転がり、竹べらで土をほじくっていた男の手にぶつかった。男は軍手で、その紙をつまみあげた。 「すみません」  一成は慌てて、男のところに駆け寄った。角刈りの初老の男が彼を見上げた。斗根《とね》の集落から働きに来ている、高田という人夫だった。 「ああ、先生のやったんでっか」  高田はグラフ用紙を一成に差し出そうとして、ちらりとその模様に目を遣《や》った。 「なんや、みぃさんのお祭りみたいな絵やな」  一成は、高田の呟きを聞きとがめた。 「みぃさんのお祭りって何ですか」  高田は首にかけていたタオルで額の汗を拭いた。 「先生はここの人やないよって、知らはらへんやろな。みぃさんゆうんは、斗根の十五歳から十七歳までの男の子が集まって、藁《わら》で作った長い蛇を担《かつ》いで回る行事なんですわ」  高田の隣で、鋤簾《じよれん》に掘り出した土を入れていた主婦が口を挟んだ。 「うちのへんかて、そのお祭りしますで。名前は違いますけどな。鍵や今里の集落では、蛇巻きいいますねん。六月の第一日曜日やったんで、もう終わってしもたけど」 「斗根のみぃさんのほうが本式や」  高田は年甲斐もなく、むきになっていった。 「うちのほうは新暦みたいなもんでやらへん。昔通り、旧暦の六月|朔日《ついたち》にやるんや。ほいでみぃ、蛇綱を作る時には、神社の境内で、この絵みたいな形に藁をなわなあかんと決まったある。鍵や今里の蛇巻きは、そんなことせえへんやろ」  女は、ふん、と鼻を鳴らすと、鋤簾を手にして向こうに行ってしまった。  一成は地面に膝をつくと、手にしたグラフ用紙を高田の前に差し出した。 「そのお祭りの蛇、ほんとにこの図の形をしているんですか」  高田は低い鼻の横に皺《しわ》を寄せて、その実測図を見た。 「確かにその形ですわ。毎年、蛇綱を作る段になると、花びらみたいな形にしとかなあかんて、世話役がうるさい、うるさい。それが斗根のみぃさんの昔からの形なんやと。せやけど、みぃさんという名前かて蛇の巳から取った名前やよって、花びらの形ゆうたかて、ほんまは蛇の這いずり回る恰好を表してん、ちゃいますか」  一成はまじまじと実測図を見つめた。そういわれれば、その模様は、体をくねらせて環を描く蛇の形にも思える。大きな楕円形の端は、蛇の頭。尻尾をくわえた蛇を表しているようだ。 「蛇か……」  一成は呟くと立ち上がった。  曲がりくねった水濠の影が、夏の光の中に黒く際立っている。  大地に刻みつけられた蛇だ、と彼は思った。体をくねらせて環を描く蛇。その頭の向こうには、遺跡に隣接する鏡作羽葉神社の森が広がっている。  ひょっとしたら、この遺構はやはり環濠集落ではなく、何か宗教的なことに関係があるのかもしれない。だとすればおもしろいことになる。  彼の気持ちに呼応するように、右手の指先に、ずきっと鈍い痛みが走った。一成は絆創膏を巻きつけた三本の指に目を遣った。  昨日、溝の途切れた部分に手を突っこんだ時にできた軽い裂傷だった。どうして今また急に痛んだりするのだろう。  左手で右手の指を揉みながら、彼は眉をひそめて掘り返された土の溝を眺めた。そして、この水濠が蛇を表しているなら、自分が手を突っこんだのは、その口にあたる場所だったことに気がついた。  あの時の感覚が蘇《よみがえ》ってきた。湿った土の臭い。冷たい風。何かに噛まれたような鋭い痛み……。  いったいあれは何だったのか。  一成は地面に穿《うが》たれた蛇の頭部に目を遣った。楕円形に膨らんだ穴の底だけ、やけに影が濃い。その深い闇から、何かが呼んでいる気がした。彼は、蛇の頭部にあたる穴へ足を踏み出した。 「田辺さんっ、ちょっと来てくださーい」  一成はどきっとして振り向いた。遺跡の入口にあるプレハブ小屋から、学生が手を振っていた。もう一度溝を見ると、楕円形の穴の底はそれほど冥《くら》くはなかった。他のところと何ら変わらない、ただの影だ。  蛇の頭部に対する興味がすっと消えていった。 「田辺さぁん」  学生がまた呼んだ。 「わかったよ」  一成は返事をすると、小屋のほうに歩きだした。 「国道に出てな、橿原《かしはら》市まで、まっすぐに行かはるとええ。ほんでみぃ、八木の駅前らへんから百六十六号線に乗ったら、松阪までそのままや」  玲が重い紙袋を持って家の外に出ると、父の声が聞こえた。  門の横に紺のワゴンが止まり、車に荷物を積み終わったらしい広樹が、史郎に軽く頷いていた。 「わかりました。なんとか行けるでしょう」 「子供でもわかる道や。心配せんでええ」  史郎が、広樹の背中を叩いて笑った。横の清代も一緒に笑い声をあげた。  玲は広樹に近づいていくと、紙袋を差し出した。 「はい、広樹さん」  広樹は一瞬、怪訝そうな顔をしたが、中にある緋色の天鵞絨《ビロード》の包みを見て、すぐに中身を悟ったらしい。玲に頷くと、運転席のドアを開けてそれを助手席に置いた。  父はわからなかったようだが、母は玲の渡したものに気がついて表情を緩めた。  広樹は運転席に座ると、ドアを閉めて窓から顔を出した。 「どうもお世話になりました」  史郎が、また来るように、といい、清代が横でぺこりとお辞儀をした。広樹は二人に頭を下げると、玲にいった。 「それじゃ、玲ちゃん。東京で」 「電話、忘れないでね」  史郎が大袈裟《おおげさ》に顔をしかめた。 「まだ、そのことゆうてんのか、玲」 「お父さんは黙っといてよ」  玲がぴしゃりと言葉を返すと、史郎は冗談めかして「おおこわ」と呟いた。  クラクションを一回鳴らして、広樹の車は走りだした。 「気をつけてね」  玲は手を振った。  紺のワゴンは石灯籠のある道の角を曲がると、視界から消えた。史郎と清代が家に入ってからも、玲はエンジンの音が聞こえなくなるまで通りに立っていた。広樹がいなくなって急に気が抜けた感じだった。  玲はしばらく一人でいたくて、そのままぶらぶらと斗根を歩きはじめた。  低い木造の家並が続く。路傍のあちこちに立つ石灯籠や祠《ほこら》。主婦らしい女性が石鹸《せつけん》を持って微笑んでいる色褪せた看板。硝子瓶《ガラスびん》の中に飴《あめ》や煎餅を入れた駄菓子屋。時代に取り残されたような光景が、ぽつんぽつんと残っている。  昨日、家に着いた時、広樹と歩いた道だった。その時は懐かしさを覚えたが、たった一日いただけで、もうすべての光景は見慣れたものに戻っていた。ここは玲の生まれ育った場所だった。路地の間で縄跳びをして、家の陰で隠れんぼをした。  一軒の家の土塀の前で、髪をひっつめにした女が泣いている赤子を腕に抱いていた。 「ほうら、にゃんにゃんやで。何してんやろなぁ、かわいいなぁ」  塀の上に寝そべっている灰色の太った猫を赤子に見せてあやしていたが、玲の近づく気配に気がついて顔を向けた。 「あれっ、玲ちゃんやないの」  小柄な女は素っ頓狂な声をあげた。  玲は、あら、と顔をほころばせた。大村|徳子《とくこ》だった。綾と同じ歳で、幼い時にはよく一緒に遊んだものだ。今では結婚して、大和《やまと》高田《たかだ》市のほうに行っているが、夫の顔も、結婚後の姓も知らない。 「実家に戻ってはんの?」  玲が聞くと、徳子は四角ばった顔に誇らし気な表情を浮かべて、腕の赤子を見せた。 「この子が生まれたんで、しばらく里帰りしてるとこやねん」  生後間もない小さな子だった。タオル地のおくるみに包まれて、皺の寄った猿顔でぽかんと空を見上げている。 「名前は何ていうの?」  玲は愛想代わりに聞いた。 「雄太。英雄の雄に、太い、の太」  徳子は、赤子を腕の中で揺すり上げた。 「確か他にもお子さん、いはったよね」 「これで三人目や。上の子は八つ、中の子は六つ。中の子は一緒に里に来てんやけど……あの子、どこ行ったんかな」  徳子は首を伸ばして通りを見たが、すぐにあきらめてしかめ面をした。 「ほんま、男の子ゆうんは、どこ行くかわかったもんやないわ」  そして玲に、どうして帰省しているのか、と聞いた。今週の日曜が綾の七回忌なのだ、と答えると、徳子ははっとしたようだった。 「七回忌か。もう、そんなになったんか。時間たつの、早いなぁ」  彼女はぽつんといった。綾が自殺した時、徳子はすでに結婚していたが、すぐに駆けつけてくれた。葬式の時、徳子の母親ともども世話になった覚えがあった。母子そろってしっかり者で、近所の手伝いの者の陣頭指揮にあたってくれたものだ。  玲も徳子も、綾の死の追想に浸って、しばし黙ってしまった。土塀に座った猫が丸い瞳で、じっと路上の二人を見つめていた。 「今週の日曜日ゆうたら、みぃさんの日やないの」  徳子が突然、思い出したようにいった。 「そう。七年前、姉が死んだ日も、同じみぃさんの日やったわ。偶然やな」 「せやったなぁ、みぃさんの蛇綱の……」といいかけた徳子が、あっ、と声を洩らして言葉を切った。そして腕の中の赤子と、玲の顔を見比べた。徳子は呟くようにいった。 「せやわ、七回忌やったら、ちょうどええかもしれへん。実は私、綾さんの……」  その時、腕の子供がむずがりだした。 「お姉ちゃんの?」  玲の問いに、徳子はまた何かいいかけたが、火がついたように泣きだした赤子の声がそれを遮った。徳子は情けなさそうに自分の子供を眺めた。 「また、ゆっくり話しするわ。玲ちゃん、いつまでおるん?」 「今週いっぱいはおるわ」 「ほな、また私、訪ねてくわ」  子供は頭が痛くなるほどの声で泣き叫んでいた。徳子は、よしよし、とあやしながら、家の中に入っていった。  徳子は何をいいかけたのだろう。  玲は土塀の巡らされた徳子の実家の前に少し立っていたが、近いうちに話しに来てくれるのだと考えて、また歩きだした。  やがて家並が途切れた。目の前に田圃《たんぼ》が広がっている。玲は斗根の集落から延びる道路に沿って、風に揺れる稲穂の中を歩いていった。水を張った水田で、畦《あぜ》の補修をしている農夫の姿。遠くに点在する古墳のこんもりした森。奈良盆地を囲む山々の稜線が淡い影となって連なっている。  玲は今朝、母から聞いた話を思い出していた。綾の母、多黄子まで自殺していたとは知らなかった。しかも原因が父の浮気だったとは……。ひょっとしたら、姉は母親の死の原因を知って、自分の結婚にも疑問を感じたのかもしれない。あの人と結婚して、幸せになれるんやろか、と。  玲は風に乱れた髪を掻き上げた。そして、水が流れるように、次の問いが心に滑りこんできた。  私は、広樹さんと結婚して幸せになれるんやろか……。  これまで玲は、結婚すれば広樹との恋愛は完結すると信じていた。広樹という空を舞う凧《たこ》の糸を、地上で握っていることができると思っていた。  だが、果たしてそうだろうか。  人が人を操ることなど、できるはずはない。彼が私を必要としない限り、今の一方通行の関係は踏襲される。私が彼を追いかけ、そんな私を彼が受け入れる、という関係。コンピュータのプログラムみたいなものだ。愛情の流れはいつも一回路。  玲は皮肉な笑みを浮かべた。  だから、広樹は常に余裕のある態度をとっていられる。鷹揚《おうよう》に愛を受けいれる博愛主義者。  恋愛では、愛する者の立場は、愛される者の立場より弱い。私がいつも広樹に媚びるくらい、明るく無邪気に振る舞っているのは、愛を求める側にいるからだ。広樹はそれを私が子供っぽいせいだと思っている。  アスファルトの道を、蛙がのたのたと横切っていた。それが恋人を追いかける自分の無様さとだぶって見えて、玲は奥歯を噛みしめた。  気がつくと神社の前に来ていた。色褪せた赤い鳥居が濃い緑の森を背景に立っている。  一人の男が、鳥居の横に置かれた石柱を眺めていた。あちこちに飛び跳ねた癖毛の髪と土で汚れたズボンの裾が、大人になった悪童の印象を与えている。玲は、その男の横を通って神社に入っていこうとした。 「すみません」  男の声が聞こえた。男性にしては、少し高めの声だった。  玲は立ち止まった。 「これ、どう読むんですか」  その男は、石柱に彫られた神社の名前を指さした。標準語を話している。この付近の者ではないようだ。玲は、ちらりと石柱を見ていった。 「鏡作羽葉《かがみつくりはば》神社です」 「羽葉ですか」  男は白い歯を覗かせて笑った。陽に焼けた顔に丸い瞳が人なつこく輝いた。 「この町には、鏡作って名のついた神社が多いですよね。|鏡 作 坐 《かがみつくりにいます》天照御魂《あまてるみたま》神社、|鏡 作伊多《かがみつくりいた》神社、|鏡 作麻気《かがみつくりまけ》神社。ここもそうだとは知らなかった」  ただの観光客にしては、この土地に詳しい。玲は、その男の顔を見つめた。ふと誰かの顔を思い出しそうになった。誰だろう。昔、知っていた人……。  彼は、玲の視線に気がついて、きまり悪そうに顔を逸《そ》らせようとした。その時、男の表情がぱっと明るくなった。 「あれ、ひょっとして、きみ、『雅《みやび》』の……」  玲は悲鳴に近い声をあげた。彼を思い出したのだ。美佳叔母の経営していた喫茶店によく来ていた客。美佳の冷やかしの種だった、玲の片想いの相手──。 「田辺さんっ」  玲は叫んだ。  田辺一成は驚いて、目の前の若い女を見た。柔らかな髪が、丸い顔の周囲を縁どっている。向日葵《ひまわり》の柄のワンピースがよく似合っていた。  彼の覚えている玲はもっと太っていた。髪もショートカットだった。だが、大きな瞳も少し上向いた鼻も昔のままだ。あの頃、遺跡発掘の手伝いに来ていた一成は、電車待ちの時間潰しによく『雅』に通っていた。そこに彼女がいたのだ。よく笑う、明るい娘だった。  一成は額に手をやって、思い出すように半ば目を閉じた。 「ええと、玲ちゃん……だったっけ」 「あら、覚えてくれてたんだ。玲です。永尾玲」 「今はどうしているの?」  一成が聞くと、玲は、東京で働いていて、法事のために帰省しているのだ、と答えた。 「東京にいるのか。おかしなもんだな。奈良生まれのきみが東京にいて、神奈川生まれの僕はまだ京都にいる」  玲は懐かしそうな表情を浮かべた。 「そういえば、田辺さんは京都の大学の大学院に行ってたんですよね」  一成は肩をすくめた。 「相変わらず、同じ大学に行ってるよ。今は助手だけどね。それで研究室の教授から斗根遺跡の調査主任に命じられて来たんだ」  そういってから、一成はこの神社に来た用件を思い出した。 「この神社の、みぃさんっていうお祭りに興味を持ってね。どんなところで行われているか、見にきたんだよ」 「だったら私が案内したげる」 「そりゃ、嬉しいな」  一成は、まだ玲との再会が信じられない気分で、鳥居をくぐった。  杉や檜《ひのき》、銀杏《いちよう》などが雑然と生える林の中に、砂利の敷かれた参道が続いている。日陰のひんやりする空気を吸いながら、玲は一成と並んで歩いていった。 『雅』での思い出が生き生きと蘇ってくる。明日香《あすか》村のスケッチ画の掛かった店内。仄暗い喫茶店の片隅で、本を開いてコーヒーを飲んだ。時に玲と他愛ない会話を交わしたものだった。京都の四条通りの話、学生のよく利用する店屋のこと。東京の学生と、京都の学生の差。どんな話題も、彼女の鈴の鳴るような笑い声で彩られていた。  今も玲は、その響きのある声で楽しげに話している。 「みぃさんの日には、お昼過ぎからこの境内で、藁の大きな蛇の綱を作るの。それを男の子たちが担いで斗根をねり歩くのよ。ひとまわりしたら、またここに戻ってくるわけ」 「それって古い祭りなのかな」  玲は首を傾げた。 「どうかしらねぇ」  正面の拝殿に突きあたった。巻きあげられた簾《すだれ》の奥に供え物の台があり、神酒《みき》の白い徳利や果物が置かれている。一成はぐるりと見回した。拝殿の北には池があり、南の奥には宝物殿が建っている。なんということのない普通の神社だった。ここで行われる祭りと、遺跡の水濠址とどういう関係があるのか、想像もつかなかった。  拝殿の横から、ざくざくと玉砂利を踏む音が聞こえた。茶色のポロシャツに、灰色のズボンを穿いた初老の男がこっちに歩いてくるのが見えた。細長い顔に、通った鼻筋。額に糸のように垂れた白髪。眉間には気難しそうな縦皺が寄っている。  玲は一成に囁いた。 「ここの神主の東高遠さんよ。お祭りのこと、聞いてみたらどうかしら」  一成は目を輝かせた。 「そりゃ、いいや」  声をかけようとする一成を、玲が、まかせておいて、というふうに止めると、高遠に近づいていった。 「おひさしぶりです、東さん」  高遠は足を止めた。 「ああ、玲ちゃん。もんてはんのか」  高遠は口許に親しげな笑みを浮かべたが、眉間の皺は消えはしなかった。神官の近寄りがたい、陰鬱な表情に、何か気がかりなことでもあるのだろうか、と一成は訝《いぶか》った。  玲は、昨日帰ってきたと告げると、一成を手で示した。 「こちら田辺一成さん。斗根遺跡の発掘をなさっている学者さんです。なんか聞かはりたいこと、あるんやて」 「よろしくお願いします」  一成が頭を下げても、高遠は、はあ、と気乗り薄に返事をしただけだった。しかし彼は、そんなことには頓着せずに質問した。 「みぃさんの行事のことですけど。ここの神社だけ旧暦の六月|朔日《ついたち》に行っているのは、何か理由があるんですか」  高遠は一成を不機嫌な目つきで一瞥《いちべつ》した。 「旧暦の六月朔日が、剥《む》けの朔日《ついたち》ゆうのん、知ってはりますか」  一成は、いや、と首を横に振った。高遠は唇を舌で湿すと、ちっと口を鳴らした。 「剥けの朔日はな、人間が蛇みたいに脱皮して生まれ変わる日ですわ。全国的にいわれてることですわ。学者さんが、そないことも知らはらへんのかいな」  一成はむっとして応えた。 「それは民俗学の範囲のことですから。僕は考古学なんです」 「昔の日本人やったら誰でも知っとったことやけどな」  高遠は呟くと、一成の顔を眺めて鷹揚につけ加えた。 「まあ、若いうちはわからへんことが多うてもしょうがないわな」  一成は自分が二十代後半くらいに見られたのだろうと察した。それにしても、この男はまるで俺に喧嘩を売りたがっているようだ。腹立たしい気分になったが、高遠の話を聞く必要があるのだと自分にいい聞かせた。 「それで、みぃさんとは、蛇が脱皮する日に、人間も生まれ変わるという意味の行事なんですか」  高遠は首を傾げた。 「ようはわからへんけど、蛇綱を担ぐのは十七歳までや。その子が蛇綱を担ぐ役目をきちんと果たしたら、それからは一人前の男としてみなされるといいますねん」 「成人の通過儀礼のひとつですね。きっと蛇が脱皮して再生することと、少年が一人前の男になることを重ね合わせているんですよ。そんな祭りが残っているからには、この神社は、何か蛇と関係があるんですか」  高遠の顔色がさっと青ざめた。 「変なこといわんとってください。うちの祭神は|大物主 大 神《おおものぬしのおおみかみ》様です。蛇とは関係あらへん」  激しい口調に、一成は驚いた。玲もあきれたように高遠を見ている。  神主は喉を鳴らして唾を呑みこむと、柔らかな口調に変じた。 「とにかく、そのことはちゃんと社伝に出てますよって、間違いあらしまへん」 「社伝が残っているんですか。できたら見せて頂きたいものですが」 「なかなか読めしまへんで。昔の言葉遣いで書かれたあるさかい、わしかて難しい漢字の中からわかる文字だけ、ようよう拾い読みできる程度やし」  一成は微笑んだ。 「それはなんとかなるでしょう。仕事柄、古い文献に目を通すのは慣れてますから」 「へえ。昔の文が読めますんか」  高遠の口調に僅かに尊敬の念が感じとられた。一成は先の屈辱を晴らせて、溜飲が下がった。しかし、さらに社伝を見せてもらうように頼んでも、高遠は曖昧な返事をしただけだった。  まあ、そのうち彼の警戒心も解けたら、その機会も訪れるだろう、と彼は考え直して、肝心の質問に移った。 「みぃさんのお祭りの時、蛇綱を花びらの形にして境内に置くというのは、ほんとうですか」  隣で、はっ、と小さな声が洩れた。見ると、玲が目を丸くして口に手をあてていた。どうしたのだろう、と一成が思った時、高遠の声がした。 「ああ、そうです。確かに蛇綱を作る時、花びらの形に置きますわ」 「それ、どういうわけなんでしょう」  高遠は下唇を突き出した。 「わからしまへんなぁ。まあ、私にあれこれ聞かはるより、実際に見にきはったらどうでっか。みぃさんは今週の日曜にやりますよってな」  高遠は話を打ち切ると、二人に軽く会釈してその場を離れた。そして砂利を下駄の歯で撥ね飛ばしながら、拝殿の横の家のほうに去っていった。  表面は穏やかに取り繕っているが、内心の緊張が全身から滲み出ている。いったい神主は、何を苛立っているのだろう。一成は不思議に思った。 「花びらの形の蛇といえばね」  玲の声が聞こえた。振り向くと、玲が何か思い惑うように、眉根を寄せていた。 「どうかしたの?」  一成が促すと、玲は重い口調で応えた。 「関係あるかどうかわからないけど、実は私、そんな形の模様のついた鏡を知っているの」 「なんだって」  一成は驚いて声をあげた。 「どこにあるんだい。見てみたいな」  玲はためらうように口を噤《つぐ》んだ。しかし一成の真剣な顔を眩しそうに見て、一気にいった。 「その鏡、今、私の部屋に置いてあるわ」     4  杭に鉄線を張っただけの粗末な囲いの中に入ると、掘り起こされた土地が広がっていた。大地を抉《えぐ》った傷の所々を青いビニールシートが覆っている。午後遅くの弱まった陽射しの中で、作業員たちが巣を作る蟻《あり》のようにせっせと土を掘っていた。  その中に田辺一成らしい姿は見当たらなかった。 「すみません」  玲は入口付近の水道の前で、如雨露《じようろ》に水を汲んでいた学生に声をかけた。 「田辺さんはどちらでしょうか」  頭に暑さよけのタオルを巻き、顔を土埃でざらつかせた若者は、玲を好奇心に満ちた視線で眺めた。 「田辺さんやったら、事務所と思いますよ」  学生はすぐ先にあるクリーム色のプレハブ小屋を指さした。玲は学生に礼をいって、そちらに歩きだした。背後で学生が水道の蛇口を締める、きゅっという音が響いた。  一成と神社で再会してから、後で遺跡に訪ねていくと約束して、一旦家に帰った。昼食を食べていざ出ようとすると、配達のある父に店番を頼まれてしまった。やっと父が帰ってきて体が空くと、もう四時を過ぎていた。玲は急いで部屋に戻って、押入れの中から隠していたものを取り出した。あの蛇の模様のついた鏡を……。  玲は手にした布のバッグに目を遣《や》った。その中には、スカーフに包まれた白銅鏡が入っていた。  今朝、広樹に渡したのは、緋色の天鵞絨《ビロード》にくるんだ普通の化粧鏡だった。  とにかく手放したくはなかったのだ。だが手許に残したおかげで、この鏡に関することがわかりそうだ。何か解明できてから、広樹に返しても遅くはない。それなら広樹も喜ぶだろう。玲は、自分にそう言い訳しながら、プレハブ小屋の前に立った。  壁には『斗根遺跡調査事務所』という看板が掛かっている。入口の硝子《ガラス》の引き違い戸が開け放たれていて、誰もいない小屋の中が見えた。部屋の中央の大きな机に広げられたぶ厚い書類や図面。日程表の貼られた壁。部屋の隅に置かれた段ボール箱の山。まるで工事現場の事務所のようだ。奥に簡単な間仕切りがあり、他の部屋が設けられている。  玲は土足で汚れている小屋の床に足をのせて、大きな声をあげた。 「田辺さん、いますか」  間仕切りの向こうから、「おう」という返事があった。 「玲ちゃんか。こっちに来てくれ」  一成の声だった。玲は机の脇を通り抜けて、間仕切りの奥に行った。そこは三畳ほどの小さな空間になっている。一成は、壁に沿って置かれた長机の前に座って、カップラーメンを啜《すす》っていた。 「昼飯、食いっぱぐれちゃってさ」  彼は黄色い麺をかきこむと、にやりと笑った。玲はあきれていった。 「お昼、そんなもんだけじゃ、体がもたないでしょ」 「だからすぐに夕飯にする」  一成はラーメンの汁を飲み干すと、塵袋《ごみぶくろ》の中に放りこんだ。 「まったく発掘調査の現場なんて、ひどいもんさ。調査できる期限が決まっているから、朝から晩までびっちり作業が詰まってる。強制労働に駆り出された受刑者みたいな気分さ」  長机の上には、小さなガス台、コーヒーカップや小皿、コップなどが置かれている。調味料やインスタント食品、缶詰も並んでいた。玲は、簡単な料理なら作れそうなその一角を眺めた。 「ここに寝泊まりしているの?」  一成は、自分の座っていた折りたたみ式椅子を机の下に突っこんだ。 「まさか。車でアパートと往復してるよ。仕事がこんでくると泊まることもあるけどね」 「どこで寝るの?」  一成の後から入口前の大きな部屋に戻りながら玲は聞いた。彼は段ボール箱の積み重ねられた壁を指さした。 「あそこが仮眠室になってるんだ」  よく見ると、壁と思ったのは引き戸で、その向こうに部屋があるらしかった。一成は、玲に大きな机の前の椅子を勧めると、自分も隣の椅子に座った。彼の視線が、玲の膝に置かれたバッグに止まった。 「で、鏡ってのは、それなの?」  玲は頷いて、紙袋の中から白銅鏡を取り出すと机の上に置いた。一成は、これは古代の鏡だと呟きながら手を伸ばしたが、背面の蛇の模様を見るなり言葉を失った。そのまま彼は玲の存在も頭から吹き飛んだように、熱心に鏡を観察しはじめた。  その様子は、昨日鏡をはじめて見た広樹を連想させた。彼と広樹は似ているのかもしれない、と玲は思った。  二人とも、どこか社会の枠からはずれているところがある。だが、それぞれの放つ雰囲気はまったく違っていた。広樹が重厚な青銅でできているとしたら、一成は、軽やかな色の大理石だ。広樹は、ひとつのものが気にいると、とことんその中に埋没することに愉しみを見出す人間だ。そんな時、彼の表情は内に沈みこみ、何を考えているのか、玲がいくら想像してもつかみようがない。  しかし一成の表情は正直だ。色々なことに興味を示し、そのたびに生き生きとした感情が顔に出る。叔母の経営する喫茶店の片隅で電車を待ちあぐねている時ですら、一成は退屈そうにしていることはなかった。ノートにメモを書きつけたり、本を読んだりする表情が、いかにもその時間を楽しんでいるようだった。  それは八年の月日を経ても変わっていない。巻尺を片手に鏡を計り、白い小さなカードに何か書きこみはじめた一成の表情から、興奮が手に取るようにわかった。  玲は微笑みながら、座り心地の悪い椅子で脚を組み直した。叔母の喫茶店で働いていた時に舞い戻ったような気がした。あの頃もこうして彼の姿をじっと見つめていた。秘めた愛を胸に燻《くすぶ》らせながら……。  不意に一成の顔が上げられた。彼を見つめていた玲は、慌てて目を逸《そ》らせた。  一成は視線がぶつかっても、にっこりしただけだった。中の三本の指に絆創膏を巻いた右手で蛇の模様を撫ぜていった。 「どうもわからないな。鈕《ちゆう》の部分だけ、陰刻した型みたいにへこんでいる」 「それ、珍しいの?」 「ああ。ほら、この真ん中の穴があるだろ」  一成は鏡の中央の小豆ほどの穴を指さした。 「これは鈕といって、普通の鏡ならこの部分は突起していて、そこに鏡に紐を通して使うための穴が開いている。だが、こんなにへこんでいたら、鈕の役目が果たせやしない。どういうわけだろう。まるで鈕の部分だけ、鋳型を作る要領で仕上げたみたいだ」 「鋳型?」  怪訝な顔をした玲に気がついて、一成は鏡を机の上で立ててみせた。 「古代の鏡というのはね、表と裏、二面の鋳型を最初に作って、その中に銅や青銅といった金属を流しこんで作るんだ。いってみれば鯛焼きみたいなもんだな。ふっくら盛り上がった鯛を作るには、その両面の鋳型は、鱗《うろこ》も体の部分もへこんでないといけない。鋳型などに銘文や紋様をノミで彫りこむことを陰刻といって、陰刻の鋳型から浮き彫りになった鋳造品を作ることを陽鋳というんだけどね、この鏡はまるでその二つの混合みたいだ。模様は陽鋳だけど、鈕の部分だけ鋳型にくっついていた陰刻に思えるんだよ」  玲は一成が支えている鏡の背面を見た。確かに蛇の模様は、胴体も鱗も目玉も浮き彫りにされている。なのに、その中央だけ穴が開いているのは、確かに少し変な気がした。  玲は考えながらいった。 「なにかのはずみで、つけ間違ったのかしら」  一成は吹き出して、鏡を伏せて置いた。 「そんなことはありえないよ。鋳型は、鏡の出来上がりを想定しながら丹念に陰刻していかなくちゃならない。そんな時、肝心の鈕を陽刻してしまうとは思えないな。特に古代においては、鏡は重要な祭祀道具だった。軽い気持ちでは作れなかったはずだ」 「だめ。ちっともわからないわ」  玲は椅子の背もたれに寄りかかって、両手をぶらぶらさせた。一成もお手上げらしく、頭を振った。 「写真に撮らせてもらっていいかな」  玲が承知すると、彼は部屋の棚の中からカメラを取り出して機材を用意しはじめた。 「どこで、これを見つけたっていったっけ」  三脚を立てながら、一成が聞いた。 「私の家の蔵の中よ。祖父が古いものが好きで集めていたから、その収集品のひとつだと思うのだけど、はっきりしたことは、わからないわ」 「ということは、この土地で作られたものだっていう可能性もあるな。この一帯は、古墳時代頃から|鏡 作氏《かがみつくりし》という鏡の鋳造専門の技術者集団が住んでいたといわれてる。鏡作の名をつけた神社が田原本《たわらもと》に多いのも、その鏡作氏に由来するし、江戸時代までその神社のひとつは全国の鏡職人のメッカでもあった。つまり田原本は、鏡とは縁の深い土地なんだ」 「そういえば、そんな話、中学校の時に社会の先生に聞いたことがあるわ」  だが、故郷の歴史などさして興味もなかったから、聞き流していたことだった。 「そしたら田辺さんは、この鏡は鏡作氏が作ったものだと考えるわけ?」  一成は三脚にカメラを固定すると、鏡の位置を定めながら答えた。 「いや。それは何ともいえないな。これだけの細工ができるほどの技術が、当時の日本にあったとは疑わしい。これは中国からやってきた舶載鏡《はくさいきよう》の可能性は高いし……」 「中国より、ずっと向こうかもしれないわ」  玲は広樹の言葉を思い出していった。 「その葡萄唐草は、古代アッシリアから来た模様なんですって」  一成はカメラレンズから顔を上げて、驚いたように彼女を見た。 「よく知ってるね。そうだよ。この鏡は日本のものとは思えない特徴がある。しかしだからといって、舶載鏡と断定もできない。複製ということも考えられるからね」 「複製?」  カシャッ。シャッターの切られる音が響いた。一成は露光を変えて鏡の背面を何枚も撮りながら話を続けた。 「古代においては、鏡の複製はかなり頻繁に行われていたんだよ。複製の製造方法は、まだ謎に包まれているけれど、その中で最もよく行われたと思われているのが踏み返し鋳造法でね。原型の鏡を直接、型土に押しつけて、新たな鋳型を作る方法だ。ただしこの場合、模様はあまり鮮明でなくなるし、鋳型の材料の土を乾燥させて焼いているうちに収縮が起きるから、完成した複製は原型よりも縮んでしまうんだ」  玲はカメラの下に置かれた鏡を指さした。 「で、これはどっちなの?」 「さあね。この鮮明な模様から見ると、原型の気はするが。だけど、これだけ丁寧な細工をしているくせに、一枚の鱗だけ彩色するのを忘れるなんていう迂闊《うかつ》さは、複製なので気を抜いていたせいかもしれないし」 「鱗じゃないわ、赤い色がついてないのは右眼でしょ」  一成はカメラから目を離さずに応酬した。 「蛇の場合は、眼も鱗のひとつなんだよ。脱皮する時、眼の皮も体の鱗と一緒にはずれるの、知らない?」 「知るもんですか、そんな気味悪いこと」  玲が不機嫌な口調でいうと、一成は軽く笑った。さらに彼は鏡を表や横から撮影すると、カメラを片づけた。そして玲に鏡を返して、窓の外を顎でしゃくっていった。 「外に出て、実際に見比べてみようか」 「そうね。私も、この鏡の模様そっくりの溝っていうのを見てみたいわ」  玲は鏡を再びスカーフに包んで、大事に布のバッグにしまった。それから二人はプレハブ小屋から出ていった。  もう夕方になっていた。炎天にさらされて疲れた顔の作業員たちが、土まみれの鋤簾《じよれん》や植木ゴテを抱えて引き揚げてくる。 「お先に、先生」 「ああ、お疲れさんでした」  声をかける一成の横で、玲も見知った顔を見つけて会釈した。斗根の人間が数人、混じっていた。鏡をバッグに入れておいてよかった、と思った。この中の誰の口から、自分が鏡を持って遺跡を訪れていたことが父の耳に入るやもしれない。玲がまだこの鏡を持っていることがわかったら、父はかんかんになるだろう。広樹にも、とばっちりがいくにちがいなかった。  荒涼とした土地では、作業員たちがいなくなってもまだ四、五人の学生たちが実測を続けていた。夕方の涼風に吹かれて、土に被せたビニールシートがぱたぱたと翻る。あらためて足許の大地を眺めた玲は、そこに掘り出された溝が、確かに蛇行しながら環を描く蛇を表していることに気がついた。黒々とした花びら形の巨大な蛇の溝は、大地に刻みつけられた、禍々《まがまが》しい刻印のように見える。  玲は手にした袋の中から鏡を取り出すと、両手で持って前に差し出した。大地の黒蛇と、鏡の赤い蛇。体のくねり方から、頭の向きまで同じだった。 「ほんとだわ……そっくり……」  玲は呟いた。一成も腕組みして、二つの蛇の模様を見比べた。 「どうしてこの弥生時代の遺跡と、玲ちゃんの持っている鏡の模様が一緒なんだろう」 「どっちが先に作られたのかしら」 「そりゃあ一般的にいうと、弥生時代の水濠のほうが先だろうな。だけど弥生時代の水濠の形が、なぜこの鏡の紋様と同じなのか……わからないな」  一成は眉をしかめて、言葉を切った。  蛇の形の水濠の向こうに、鏡作羽葉神社が見えた。黒々とした神社の森が、赤味を帯びた光に沈みつつある。玲は鏡を袋に戻しながら聞いた。 「それに、みぃさんのこともあるわね。どうしてあのお祭りの儀式の中に、この蛇の形が残っているのかしら」 「みぃさんは、奈良盆地によくある野神《のがみ》祭りのひとつなんだ」  一成は蛇の形をした水濠のほうに足を踏み出していった。 「野神とは、野の神様のことだけどね。昔から水不足で悩まされて溜池の多いこの地域だけに、野神は水の神となった。水神といえば、一般的に竜蛇の形をとっている。そして、その原型は蛇神だといわれている」 「蛇神?」  玲は、突然出てきたその言葉の響きにぎょっとした。一成はでこぼこした地面をゆっくりと歩きながら説明を続けた。 「蛇神ってのは、かなり古い神様でね。その信仰は縄文時代にまで遡《さかのぼ》れる。火炎土器といわれる縄文中期の土器を知っているだろう。あの土器の中には、蛇の形を刻みつけたものがいっぱいあるよ。縄文の名前のもとになった、縄の模様も、せんじつめれば蛇だといえなくはないしね。それに頭に蛇のとぐろをのせた巫女《みこ》の埴輪も出土していることから考えて、縄文時代は蛇神信仰が深く浸透していたと思われるんだ」  奈良盆地に薄闇が降りてこようとしていた。赤紫色の空と盆地の境界を縁取るなだらかな山の稜線を眺めて、玲はふと思い出した。 「そういえば三輪山の神様も、実は蛇だという話もあったわね」 「ああ、そうだったな。古事記にあったっけ。夜ごとに姫のもとに通ってくる男の服に糸のついた針を刺していたら、朝になって、鍵穴から出た糸が三輪山の神様の社《やしろ》の前まで続いていた。そこで実は三輪山の神様は蛇だ、とわかった話だったよね。あの神様、何ていったっけ」  一成は耳たぶを右手で引っ張った。それが、彼の考えこむ時の癖だったことを思い出して、玲はおかしくなった。  考えあぐねる表情ですら、彼だとなぜか楽しげだ。広樹だったら沈鬱な表情に陥り、近寄りがたい雰囲気になるだろう。 「そうだっ」  一成が大きな声をあげた。 「三輪山の神様は、確か|大物主 大 神《おおものぬしのおおみかみ》だよ」  玲は驚いて、一成の腕をつかんだ。 「ねえ、それって、東さんのいってた、鏡作羽葉神社の祭神じゃない?」  一成は悔しそうに舌を鳴らした。 「くそっ、あの親父、知らんぷりしてから。やっぱりあの神社は蛇神を祀ってるんじゃないか」  玲はとりなすようにいった。 「きっと東さんはそのことは知らなかったのよ。それとも、蛇神なんて気味の悪いものが祭神だなんて思われたくなかったか。ほんとに、どうして縄文の人たちが蛇神をそんなに信仰したのかわからないわ」  最後の言葉は独り言のようになった。一成は苦笑いをした。 「蛇神様も気の毒なもんだ。気味が悪いってだけで、神様の資格まで疑われる」  玲はむっとしていい返した。 「あら、じゃあ蛇神なんか、なぜ信仰されたのか教えてくださいな」 「東さんもいっていたように、蛇は脱皮するからさ。脱皮して、新しい皮膚を得る。古代人は、そこに死と再生を見た。だから蛇は死と再生の神となったんだ」 「死と再生の神?」 「そうだ。ただし、死と再生の行われるのは、現世ではない、別の世界。つまり冥界だ。だから蛇神は冥界を司る神ともいわれている」  彼は、蛇の頭部にあたる溝の前で立ち止まった。玲もその穴の底を覗きこんだ。その底が、やけに暗く感じられた。 「おや」  一成が溝の縁にひざまずいた。 「どうしたの?」  玲が横にしゃがむと、彼は溝の底を指さした。 「水が入ってきている」  蛇の頭部をかたどった楕円形の穴の底の土が泥状になっている。底は暗いのに、何の具合か水を含んだ泥がてらてらと光っているのがわかる。一成は手で溝の壁を触った。 「おかしいな。雨が降ったわけでもないのに、土が昨日より湿っている」  穴の底からは、むっとする生臭い空気が立ち昇っている。泥の底に何かいるような気がした。鈍く輝く穴の底で、息をひそめて蠢《うごめ》く巨大な蛇が……。  玲は自分のばかげた連想を嗤《わら》うと、溝から顔を上げた。空はもう群青《ぐんじよう》色に沈み、奈良盆地に夜が訪れようとしていた。  親指と小指の間の糸を人差し指で取って、ぱっと開くと、竹《たけ》蜻蛉《とんぼ》。小指で隣の糸を拾って親指の糸を抜けば、ほら太鼓。  赤い糸を両手に絡ませて、少女は綾取りを続ける。  人差し指で両手首の糸をつまんで、小指を離す。すぐにまた小指で親指の糸を取ると、今度は風鈴ができた。  少女の口許に笑みが浮かぶ。目を閉じても、もうできる。毎日、何百回となく繰り返してきた尻取り綾取りだ。  暗い家の中は静まり返っていた。黒光りする天井の梁《はり》。すりきれた畳の黒い縁。壁際に置かれた学習机。薬屋からもらったシールが、引出しに貼りつけてある。だが、少女がその机の前に座ることはもうない。筆箱を開けて鉛筆を取り出し、帳面を開いて文字を書くかわりに、少女は綾取りをする。日がな一日飽きることなく、黙って綾取りを続ける。  ずっと昔、まだ小さな子供だった頃、綾取りの相手をしてくれたのは祖母だった。その祖母が死んでしまうと、向かいの家の老人が糸を取ってくれるようになった。  二人で、家の前の日溜まりに腰をおろして、赤い糸を取り合って遊んだ。少女の小さな手から、老人の節くれだった手へ。糸は形を変えながら、指から指へ渡されていった。  その老人の名は、永尾健太郎。背中の曲がった小柄な男だった。団子鼻で、鼠《ねずみ》のような小さな目をしていた。笑うと紫色がかった唇がめくれて、そこだけやけに鮮やかな桃色の歯ぐきが見えた。それが入れ歯だったと気がついたのは、ずっと大きくなってからだった。  健太郎は絶えずぶつぶつと独り言をいいながら、少女と一緒に遊んでくれた。その呟きは、綾取り遊びをしながら歌っているようだった。  母がいうには、永尾のお爺さんは惚《ぼ》けているということだった。しかし少女には、老人が耄碌《もうろく》しているほうがありがたかった。勉強をしろとか部屋を片づけろとか、母のようにうるさいことは何もいわず、少女が飽きるまでいつまでも、綾取りの相手をしてくれたから。  だけど、あの老人も死んでしまい、少女が外の日溜まりで綾取り遊びをすることもなくなった。こうして窓辺でひとり黙って赤い糸を手繰るだけだ。  だけど退屈することはない。綾取りをしながら、少女はいろんなことを思い出す。小学校時代の遠足や運動会。好きな男の子に手紙を書いたこと。家族で行った海水浴……。何より思い出すのは、永尾健太郎の語った鏡の話──。  耄碌した老人は、長年胸に抱いてきた、口にしてはならない秘密を少女に洩らしているとは気づいてなかったにちがいない。もしかしたら、子供だから彼のいうことを理解できないはずだ、と侮《あなど》っていたのかもしれない。  しかし、少女はちゃんと覚えていた。綾取りの糸とともに、老人の秘密をしっかりと受け取っていた。  少女の親指が赤い糸を放した。右手で、左手の人差し指と小指の間にある糸を三本まとめてひっぱった。  ほら、手鏡。  少女の赤い唇が柘榴《ざくろ》のように割れて、小さな笑い声がこぼれ出た。  川辺の家々の明かりを反射して、水面が揺れていた。星のように散らばる集落の灯。その間を縫って流れる車のヘッドライト。宵闇に包まれはじめた水田から、蛙の声が湧き上がる。その煩《うるさ》いほどの蛙の合唱の中、玲と一成は川沿いの道を歩いていた。  遺跡を見終わると、一成が家まで送ってくれるといった。そのままなんとなく散歩することになり、いつの間にか川辺に出たのだった。  頬を撫ぜて通る微風が気持ちよい。隣で一成はひとり楽しげに、遺跡に関する彼の見解を綿々と喋《しやべ》り続けている。玲は、それをまるで音楽のように聞いていた。  芯からのお喋りというのは、この一成のような男だ。玲は彼の横顔を盗み見て、笑いを噛み殺した。なんと屈託なく軽やかに話し続けることだろう。  玲も、子供の頃からお喋りで騒がしい子だといわれてきた。そのため、彼女のことを人なつこく開放的な性格だと思っている友人も多い。でもそれは、一成にこそいえるだろうが自分にはあてはまらない、と玲にはわかっていた。  彼女が多弁なのは、沈黙に耐えきれないからだ。誰とでも、黙ったまま五分もいるとたまらなくなる。相手が何を考えているかが気になってしかたがない。さっきいった言葉を考えているのではないか、私は何かまずいことを口走ったかもしれない。そんなことを考えてしまうのが辛くて、また口を開いてしまうのだ。実際、広樹と一緒の時は、お喋りは玲の役回りだった。聞いているか聞いていないか、よくわからない広樹の横で、玲はとめどなく喋り続ける。ほんとうは、相手が喋るのを聞いているほうが気がらくなのに。  結局、玲は、自分のお喋りは小心さゆえのものだ、と思っている。  だから広樹のように、他人の前でいつまでも黙っていられる人間を見ると感心する。周囲の人間に沈黙でもって対抗できる人間は強いと思う。姉もそんな人間だった。父に話しかけられても「うん」とか「そうやね」とか返事するだけだった。父はそれがもの足りなくて自分から喋りまくり、その横で姉はますます寡黙になった。最後には、父は助けを求めるように、玲に話しかけるのが常だった。そして会話は玲と父親の騒がしいお喋りへと転換していった。  綾にとっては、父よりは義理の母のほうが口を開きやすかったようだ。しかしその会話も、母に何か聞かれて、ぽつぽつと答える程度のものだった。姉が母に口答えしたり、反抗したりするのを見たことがない。綾は「いい子」だった。両親と対立はすまい、誰にも迷惑はかけまい。そう決めていたかのように、自分の枠からはみ出さずに生きていた。玲はそれは姉が臆病なせいだと思っていた。  しかし大人になり、東京で一人暮らしをするようになって考えも変わってきた。  姉は臆病だったのではない。家庭の中でひとり孤独だったのだ。継母と親しくなれず、父との間にも溝があった。そして妹の私は……やはり何の助けにもならなかった。七歳も年が下で、姉に甘えていただけだから、むしろ姉にとって私は、唯一の肉親であった父の愛情をも独占していた憎い存在だったのかもしれない。  綾は孤独で、それを見せないでいるほどに強かったのだ。しかし、そんな姉がなぜ自殺という逃避手段を選んだのだろう。孤独から逃げ出さねばならないほど、弱い人間ではなかったはずなのに……。 「なんだか、さっきから僕ばっかりが話してるな」  一成の言葉が耳に飛びこんできて、玲は我に返った。 「そんなことないわ」  反射的にそう応えながら、どうして昨日から姉のことばかり頭に浮かぶのか、不思議に思った。今まで記憶の奥に封印していた姉の記憶が、とめどなく溢れてくる。  一成は玲の表情を横目で見ると、拗《す》ねた子供のように口を尖らせた。 「僕は喋りすぎるんだ。これで、もうちょっと無口だったらいいのに、と思うよ」 「あら、田辺さんの話を聞いてるのはおもしろいわ」  玲は心からいったのだが、彼はお世辞と受け取ったようだった。 「そういってもらうのはありがたいけどね、わかってるんだ。喋りすぎるから、僕自身まで軽く見られるのが癪《しやく》なんだ。おまけに童顔だろ。学生にまで馬鹿にされてさ。一度、髭を生やしたんだけど、当たりもしない辻占い師みたいだって、ガキみたいな学生からいわれて止めてしまったよ」 「ぴったりよ、その表現」  玲は明るい声で笑った。  一成が目を大きく見開いて微笑んだ。 「『雅』でも、よくそんな声で笑っていたね。僕、玲ちゃんのその笑い声が好きだったんだよ」  好き、という言葉が、玲の胸をつん、と刺した。彼女は照れ隠しに慌てていった。 「あの頃の私って、子供だったでしょ。何かというと笑ってばかりで」 「そんなことないさ」  一成は少し言葉を切ってから、星の瞬《またた》きはじめた空を仰いだ。 「ほんというと、あの頃、僕、玲ちゃんに恋していたんだ」  玲は驚いて一成を見た。いつか二人の足は止まっていた。彼は肩をすくめるようにして、ポケットに手を突っこんだ。 「だけど、『雅』のママはおっかないから、うっかりデートに誘うと叱られそうだし、どうしようかと思っているうちに、正月になっちゃった。年が明けてやっと決心して『雅』に行ったら、きみはもう東京の大学に帰ったといわれてさ。そのうち春になって発掘も終わってしまい、田原本に来る用もなくなって、あっけなく幕切れになっちゃった」  この人が私に恋していただなんて。  柔らかな掌で自分の過去を包んでもらったように、心に温かなものが広がった。 「私も田辺さんのこと、好きだったのよ」  玲は川辺の茅《かや》を指先で撫ぜていった。 「ほんとかい?」  一成は弾んだ声で聞き返した。玲は黙って頷いた。  そのまま二人はまた歩きだした。しばらく、お互い何もいわなかった。しかし玲は、黙っていることに不思議と気づまりは感じなかった。先の告白が全身を駆け巡っていたからかもしれなかった。 「八年前か……」  しばらくして一成がぽつんといった。 「なんだか何もしないで、あっという間に時間がたっちゃった気がする。僕なんかやってることもあの頃と同じだから、この八年間、自分は何してたんだろうって思うよ。毎日、泥だらけになって土の中を這いずり回るか、報告書や文献の中を這い回っていたか、どっちかだもんな」  彼は自分で自分のいったことに苦笑して、玲を振り向いた。 「でも、玲ちゃんは変わったよね。すごく女っぽくなった。むりもないな。あの時、きみは、まだ二十歳かそこいらだったんだろ。二十代の八年間の変化はすごいしね」 「そうね……」  大学時代。社会で働くようになり、恋愛を知り、別れを知る。それだけのことをその八年間ですませてしまった。一成にとっては、八年前が昨日の出来事に思えたとしても、玲にとっては百年も前のことのような気がする。それだけ自分は変わったと思う。  もう、『雅』の片隅で一成をじっと見つめていた娘ではなくなった。 「結婚はしてるの?」  一成の質問に、玲はどきりとした。 「いえ……でも、この十月に結婚するの」 「へえ」  彼の声に悔しさが混じっていると思ったのは、気のせいだろうか。玲は薄闇の中で一成の横顔を窺《うかが》い、ふと、自分は何を期待しているのだろう、と腹立たしくなった。 「どんな人なの、相手は」  玲は少し黙ってから答えた。 「古道具屋をやってるの。旅が好きな……無口な人」 「古道具屋と考古学か。商売は似ているけど、僕とは大違いだな」  一成がおどけたようにいい、玲はくすりと笑った。  広樹は今頃、どうしているだろう。もう、松阪に着いているはずだ。どこかの居酒屋でひとり、杯を傾けているかもしれない。その広い背中が見える気がした。そして、自分は昔好きだった男と一緒に歩いている。罪悪感が湧き上がってきた。  ばかな。私たちは、悪いことは何ひとつしてない。  玲は頭から彼の姿を追い払って、一成に顔を向けた。 「田辺さんは? 結婚しているの?」  一瞬、一成は言葉に詰まった。 「いや、してない。しそうになったけど、逃げられちゃった」 「逃げられた?」 「大学の研究室の助手なんて、収入は僅かだし、将来も安定しない。愛想を尽かされたってとこさ。彼女は今では別の奴と結婚して、子供が二人いる。毎年、一家の写真つきの年賀状を送ってくるんだ。添え書きも何もなく、ただ送りつけてくる。女って、よくわからないな」  毎年、昔の恋人に宛てて、家庭の写真を印刷した年賀状を送る。一成の住所を書いている時の女の気持ちが玲にはわかった。過去の懐かしい思い出への手紙。それは、かつてその人を愛した自分自身に出すラブレターでもある。相手が返事をくれないのがわかっていれば、その手紙はますます確実に遠い過去へと届けられる。  玲は、鏡の入ったバッグを持ち換えていった。 「私も結婚したら、田辺さんに年賀状、出そうかな」 「玲ちゃんなら歓迎さ」  一成は気軽に応えた。玲は少し寂しい気がした。自分たちは八年前、あの喫茶店ですれ違っただけ。恋心を抱いたままで終わってしまった。その先に進まなかったからこそ、二人とも、今こうして平気で昔のことを語っていられる。  でも、もし彼があの時、自分に告白していたら、どうなっていただろう。ひょっとしたら、結婚する相手は広樹ではなく、一成だったかもしれない。  玲は横にいる男を改めてじっと見つめた。正面から見ると童顔だが、暗い中に浮かび上がる横顔の線は、意外に整っていた。  急に落ち着かないものを感じた。こうして暗い夜道を一成と歩くのはよくないことだ。八年前の感情が、今の広樹への愛を侵食していくような恐れを覚えた。  二人はコンクリートの小さな橋の前に来ていた。斗根の中を流れる小川が、大和川に合流する場所だった。五十メートルほど先に、斗根の集落の灯が固まっている。 「あ、もう、ここでいいです。家はすぐそこだから」  一成は斗根の明かりに目を遣った。 「いいよ。家まで送ってくよ」 「こんなところ痴漢も出ないから大丈夫。それに一成さん、うっかり家に来たら、お喋りなうちの父に捕まってますます帰りが遅くなるかもしれないわ」  彼は大仰に肩をすくめた。 「そりゃ、たいへんだ」  玲は一成に向き合うといった。 「散歩、楽しかったわ」 「東京に戻る前に、また遺跡に遊びに来ればいいよ」  といって、にやりとした。 「遊びというより、手伝いに来てくれるなら大歓迎だ。猫の手も借りたいところなんだ」 「ただで働かせようと思ってるでしょ」  玲は冗談めかして応酬しながらも迷っていた。また彼に会うのがいいことかどうか、わからなかった。 「それじゃ仕事、がんばってね」  玲は一成に手を振ると、くるりと背中を向けた。 「またね」  一成の声が聞こえた。  少し歩いてから振り返ると、彼は遺跡に続く畦道《あぜみち》に入っていくところだった。  玲は複雑な気分で、家へと戻りはじめた。気持ちが、遠くに引っ張られている。東京にいる時は広樹以外の男性なんか目に入らなかったのに、どうしたというのだろう。ここに戻ったとたん、私の心は過去へ過去へと引きずられている。  手にしたバッグの重みを感じた。玲の指が布の袋の中に伸びて鏡に触った。彼女は立ち止まり、鏡を取り出した。  この鏡のせいだろうか。昨日、これを蔵で見つけてから、玲の周囲で過去が活発に動きはじめたのではないか。  蛇神は、死と再生の神。  一成の言葉を思い出した。  蛇の模様のついたこの鏡は再生をもたらすものかもしれない。  過去の感情の再生、姉の記憶の再生……。  死んだ綾の再生。  突然、意識に滴り落ちた言葉に、玲はぎくりとした。  黄色い光がふわりと前を横切った。玲は瞬きして、その光を目で追った。  蛍だった。  よく見ると、川辺にたくさんの蛍が集まっている。草の間に、ぼうっと灯る蛍の光は、夜陰にひそむ誰かの密かな息遣いのように強くなったり弱くなったりしている。  ──蛍はなぁ、死んだ人の魂なんやて。  こんなことをいったのは、姉だった。  子供の頃、夏になると、姉に手を引かれて蛍を見によくここまで来た。そんなある時の言葉だった。  何歳の頃だったのか覚えてはいない。しかし、綾も玲もお揃いの赤いほおずきの柄の浴衣を着ていたのは印象に残っている。黄色の帯を締めて、ズック靴を履いて。そんなちぐはぐな恰好で、二人は夜露に濡れた草を踏みしだき、川辺を歩いていた。姉は背中まで垂らした長い髪を、夜風になびかせて小さな声で歌っていた。  ──ほぅ、ほぅ、蛍こい。    あっちの水は苦いぞ。    こっちの水は甘いぞ。  低い綾の声が、川のせせらぎに呑まれていった。  玲は川の辺《ほとり》に立って、あの頃のことを思い出していた。  蛍の幽かな光がふわふわと飛んでいる。あたりは白々とした月明かりに満ちていた。すべてはおぼろげな銀色の光に包まれて、物の形も定かではない。  まるでこの鏡の中のようだ。玲は手の内の白銅鏡に目を落とした。  そこに女の顔が映っていた。月明かりのせいか、やけに色が白く見える。まだ充分に磨けていないので、顔の造作がはっきりしない。目も鼻も口も、影のようにしか見えない。  鏡の中の薄い唇が震えた。  ──こっちの水は甘いぞ……。  頭の中で声が響いた。  玲は片手で自分の口を押さえた。  私が歌ったのだろうか。いや、口を動かした覚えはない。  心の中に気味の悪いものが這い上がってきた。  さっきの声は誰かがいったのだ。  姉の声に似ていた。  がさりっ。どこかで草の揺れる音がした。玲はぎょっとして鏡を握りしめた。 「ちっ、ちっ、ちっ」  舌を鳴らす音が聞こえた。  川沿いの道の向こうから、黒い影が二つ、近づいてくる。 「みぃや、みぃ、みぃ」  女が背中を丸めて、草むらを覗きこんでいた。横では小さな男の子が舌を鳴らしている。  草の間から女が頭を上げた時、月光に四角ばった顔が照らし出された。玲は鏡を袋に戻すと、声をかけた。 「徳子さん」  徳子は一直線に背筋を伸ばした。そして玲だとわかると、ほっとしたように聞いた。 「ああ、玲ちゃん。うちのみぃこ、見んかった?」  あの土塀で寝ころんでいた太った猫のことらしい。玲が首を横に振ると、徳子は顔をしかめた。 「夕御飯になっても、出てけへんのや。うちの子が心配してな、探しに来てん」  話している間も徳子の子供は、舌を鳴らしながら草むらへ向かっていく。 「こら、友保《ともやす》。一人で行ったらあかん。川にこけるで」  徳子は、玲に「ほな、またな」というと、慌てて幼い息子を追いかけていった。 「みぃこ、みぃこ、みぃこ」  猫を呼ぶ声が遠ざかっていく。草をかき分ける音と舌を鳴らす音が夜の闇に消えてしまうと、また水の流れる音が大きくなった。静かになった川辺に、蛍がふわりと舞い上がる。  ──ほぅ、ほぅ、蛍、こい。    こっちの水は甘いぞ。  蛍取りの歌が、玲の頭にこびりついていた。  こっち、とは、どこだろう。  玲は、ふとそう思った。  目の前をかすめるように、また蛍がすうっと飛んでいった。  黒い鎮守の森が夜空に貼りついていた。  森に囲まれた古ぼけた家から、男の影がそっと這い出した。手に大きな袋を握りしめて、暗い神社の境内を横切っていく。  向こうに銀色の光が見えた。鏡池だ。月明かりを反射して鈍い光を放っている。  東高遠は、池の前に立って荒い息を吐いた。手でつかんだ紙袋の口が汗で滑りそうになるのを、力をこめて握りしめた。畑の肥料を入れていた紙袋は、甘くすえたような堆肥の臭いを漂わせている。  高遠は怒りを含んだ顔で、池の表面を見つめた。風もないのに、波は立ち続けている。丸い池の中央からぷくんと波が立って、丸い輪となり周囲に広がっていく。ゆったりとした間隔だが、波は途絶えることはない。  なぜなのだ。  高遠は心の中で叫んだ。  自分の代になって、なぜ度々こんなことになるのだ。しかし、もう最後だ。後はない。今度こそ止められなければ、恐ろしいことになってしまう。  高遠の額の皺《しわ》がますます深くなった。彼は手にしていた紙袋を地面に置いた。周囲に誰もいないのを確かめて、紙袋に手をつっこむ。  肥料の乾いた臭いがむっと顔に押し寄せてきた。その中から、高遠は灰色の塊を引きずりだした。よく太った猫だった。さっき、被せた袋の上から棒で殴ったので、ぐったりしている。口から血が滴り落ちているが、まだ死んではいない。虫の息の猫は、ぐるるという鳴き声を洩らして、丸い目で高遠を見上げた。  高遠は、猫を手にして鏡池の縁に立つと、ベルトに差していた新聞紙の細長い包みを抜いた。新聞紙がはらりと滑り落ちて、彼の手には包丁が握られていた。  彼は、絶え間なくさざめく池の上に猫を捧げ、低い声で告げた。 「血が欲しくば、この血を飲め」  包丁で力をこめて、猫の首を切った。猫は、ぎゃおっ、という声をたてて、一瞬、体を痙攣《けいれん》させた。生温かな血がぼたぼたと滴り落ちた。血は黒い筋となって池に落ちていく。高遠は力の抜けた猫の体を逆さにした。半分ちぎれた首がぶらりと揺れている。そのまま彼は腕を突き出して、猫の体を支え続けた。  血は黒い輪になって、池に広がっていく。水面を舐《な》める波の舌が、その血を池の縁に押し遣る。血の波は池の縁にぶつかり、水底にくるりと吸いこまれる。  高遠は口を一文字に結び、水面を睨みつけていた。額に汗が滲んでいる。獣の血の臭いに、胃がせり上がる。しかし彼は最後の血の一滴までもふり絞ろうとするように、猫の体を離さなかった。空には満天の星がきらめいている。この儀式を見守る鎮守の森の木々は、そよとも動かない。  ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん。  池の波が岸にぶつかる小さな音だけが、静かな境内に響いていた。     5 「なんや、蒸しますなぁ」 「今日も暑うなりそうで、たまりまへんわ」  往来から聞こえる話し声で目が覚めた。母と、近所の誰か同年輩ほどの女がたわいない会話を交わしている。昨夜の寝苦しさを語る二人の声に、通りすぎるバイクの音や子供の泣き声が混じる。連子窓を通して聞こえてくる表の活気に身を委ねて、玲は布団の上でしばらく横になっていた。  広樹は電話をくれなかった。  起きぬけのまだぼんやりした頭に、そのことが真っ先に浮かんだ。  昨夜、真夜中まで広樹からの電話を待った。しかし、いくら待っても、かかってはこなかった。また、彼は約束を破ったのだ。  何回目になるだろう。数えあげたら、きりがない。いつも彼は、うんうん、と生返事するだけで、旅に出たら私のことなどけろりと忘れてしまう。  そして苛々《いらいら》するのは、私だけ。こんなのは不公平だ。  玲は頭上を睨みつけた。木目模様が焦茶色の波となって、天井を覆っている。それは自分に向かって雪崩《なだれ》落ちてくる怒りの波に思えた。  彼女は目を閉じた。  愛するよりも、愛されるほうがいい。  二十歳過ぎの頃、友人と集まると、そんな話ばかりしていた。どんな恋愛をしたいか、どんな結婚をしたいか。菓子を食べ、何杯もの紅茶を飲みながら、食傷するほど理想の恋愛像、結婚像を語り尽くし、結局、結論はそれだった。  愛されて、結婚したい。  玲は嗤《わら》いたくなった。  あの時、一緒に語り合った友人たちは、自分の理想が叶っただろうか。  恋愛は、先に惚れたほうの負け。結婚しても子供ができても、効力を持ち続ける法則だ。恋愛は最初が肝心。恋愛の最初の段階で生じた負債は、その後もずっとつきまとうのだから。  そして私は、恋愛の法則を無視してはじめてしまった。彼が先に足を踏み出すのを待てばよかった。なのに自分から先に行動を起こしてしまった。  でも、待っていたら、彼は私に向かって足を踏み出しただろうか。  玲は微かに首を横に振った。  いいや、彼は二の足を踏んだまま、止めてしまったにちがいない。結局、私が彼を愛するほど、彼は私を愛しているわけではないということだ。結婚を承知したのも、私が頼んだから。彼には、積極的に私といつも一緒にいたいという気持ちはないのだ。その証拠に電話ひとつかけてこないではないか。  胸の底をかきむしりたくなった。広樹が、今、目の前にいたら、あの広い胸を思いきり揺さぶってやりたい。  私を本当に愛しているの?  だが、その問いは、虚しく六畳の間に消えていく。  玲は呻き声をあげると、タオルケットをめくって起き上がった。  壁を隔てた店のほうから、父の声が聞こえている。客と応対しているのだろう。時計を見ると、もう十時だった。  部屋は蒸し暑くなっていた。玲は連子窓の硝子戸《ガラスど》を開いた。外は曇っていた。それでますます気分が憂鬱になった。  布団を乱暴にたたんでいると、部屋の隅に置いた布のバッグに足がぶつかり、中から、姉の形見の鏡が転がり出た。拾うと、ぼんやりと自分の顔が映っていた。はっきりしない顔の表情は、今にも泣きだしそうだ。  ばかね。  玲は心の中で呟いた。  たかが電話ひとつくらいで、大騒ぎして。それは本質的なことではない。重要なのは、私が彼を愛していることではないか。  鏡の中から、二つの瞳が玲を見つめていた。自分の目のようでも、姉の目のようでもあった。昨日の夕方、川辺で見たことを思い出した。あの時、この鏡に姉が映った気がしたのだ。もしかしたら本当に、姉はこの鏡の向こうから、私を見守ってくれているのかもしれない。姉が愛用した鏡だ。死んだ姉の霊が宿っていても不思議ではない。  玲は、またじっと鏡を覗きこんだ。顔の輪郭は曖昧で、背景はぼんやりと白く濁っている。この鏡に映るものはすべて幽玄の世界へと溶けこんでしまう。  突然、鏡の表面の曇りを取り除きたい欲求にかられた。その奥を、はっきりと見たくてたまらなくなった。  玲は布団を脇に押し遣《や》ると、押入れの中から弁柄《べんがら》と菜種油を取り出した。  玲は弁柄と菜種油を混ぜ合わせた赤茶色の溶液を布につけて、鏡を拭きはじめた。  きゅっきゅっ。布がこすれて小気味のよい音をたてる。少しずつ鏡の表面の曇りが消えてくる。いつか彼女はその作業にのめりこんでいった。鏡を磨くことによって、自分の心の中の陰鬱な気分も晴れてくる。  弁柄の滲みこんだ布を押さえる指が、黒ずんだ血の色に染まる。力をこめるため、額に汗が滲む。肩が疲れるほど布でこすりながら、どうして姉がいつもこの鏡を磨いていたのか、理解できた。  忘れるためだったのだ。  頭に浮かぶ色々な迷いを、忘れてしまいたかったのだ。  誰にも心の内を話すこともなかった孤独な姉は、鏡を磨きながら、そこに映る自分に向かって吐き出していたのだ。悩みや苦しみ、秘めた心の内を鏡に注ぎこむことによって、それらを忘れようとしていたのだ。  鏡の表面の曇りが消え始めた。自分の顔がはっきりとしてくる。丸みを帯びた輪郭が際立ってきた。大きな瞳は細められ、唇は何かを問いかけるように半ば開いている。  私の顔は、こんなに寂しげだっただろうか。本来なら、結婚を前にして浮き浮きしているはずではないのか。  玲は指先で、鏡の上の自分の顔をなぞった。どうしてこんなに気分がふさぐのか、自分でもよくわからなかった。  ふと、一成の顔が頭に閃いた。  猫の手も借りたい、といっていたっけ。彼の陽気なお喋《しやべ》りを聞きながら発掘を手伝うのは、いい気分転換になるかもしれない。  玲は布を畳の上に置いた。  鏡に映った顔の唇が動き、静かに微笑むのが見えた。  カメラレンズの中に一人の女が入ってきた。ぴたりとしたジーンズを穿いて、Tシャツの胸が眩しく盛り上がっている。  田辺一成は、乾いた土を踏んで近づいてくる玲の姿をレンズ越しに眺めていた。  大きな茶色の瞳、笑みを含んだ口許。八年前の過去から、時を超えてやってくる、かつて彼が恋した女……。  レンズの中で、彼女の口が動いた。 「こんにちは」  一成はカメラから目を離した。  すぐ前に玲が立っていた。頬にへばりついた髪が一本、唇にかかっているのが妙に色っぽい。  ──この十月に結婚するの。  昨日の彼女の言葉が蘇《よみがえ》った。あの時、彼は内心、落胆したものだった。大切にしていたものが失われた気がした。  考えれば、おかしな心理だった。恋を打ち明けたわけでも、交際していたわけでもない。なのに長い年月のうちに、玲の記憶を宝物のようにしまいこんでいたのだ。 「やあ」  一成は、彼女はあと数か月もすれば結婚してしまうのだ、と自分にいい聞かせながら、カメラの三脚の後ろで軽く頭を下げた。 「家にいても暇だから、勤労奉仕に来たの」  玲は腰に手をあてて遺跡で働く人々を眺め渡した。 「そりゃあ、ありがたいけど、大変だぜ」  一成は空を指さした。灰色のどんよりした雲が垂れこめている。神社の森から鳴きさかる蝉の声が響いていた。 「今日は太陽は出てないからいいけど、蒸し暑いから辛いと思うよ」  玲は膨れっ面になった。 「あら、猫の手も借りたいんじゃなかったの?」 「もちろんさ。だけど、うんざりする作業なのに、バイト料を払う余裕もないときてる。あとで文句いわれたくないからさ」  苦笑しながら説明すると、玲は鼻の頭に皺《しわ》を寄せた。 「ほんと、とんでもない仕事みたいね。やっぱり、よそうかしら」 「冗談、冗談。手伝ってくれたら嬉しいよ。飯くらいなら奢《おご》るからさ」  一成は思わず彼女の肩を叩いて、慌てて手をひっこめた。  このお調子者。婚約者がいるってのに、なれなれしくしたらいけないぞ。  彼は心の中で自分を諫めると、ことさらに仕事の時の口調を使って告げた。 「とにかく、やることは、ひたすら土を掘ることだけなんだ。だけど丁寧にだよ。どんな小さなかけらでも何かの発見に繋がるかもしれないから慎重に……」  その時、背後で大きな声がした。 「先生っ、田辺先生っ」  一成は声のしたほうに顔を向けた。  水濠の中央に五メートル四方の穴が掘られている。そこで作業をしていた三、四人の者がひとつところに集まっていた。一成は玲と一緒にそちらに歩いていった。  作業員の中には、斗根から来ている高田もいた。彼は玲に気がつくと軽く会釈して、一成に自分の足許を指さした。 「こんなもんが出てきたんですわ」  土の中から褐色のものがいくつも覗いている。土器の肌のようにも見える。完璧な形の弥生式土器は、この遺跡ではまだ見つかっていない。穴に足を踏みいれると、一成は掌でそっと周囲の土を払った。  滑らかな曲線を描く、三十センチほどの細長いものだ。片方の縁に丸い突起が列をなして並んでいる。 「動物の骨だ」  一成は呟いた。猪《いのしし》だろうか。歯のついた下顎の骨だった。さらに近くの土を除くと、上顎が出てきた。高田は自分の近くを指さした。 「こっちにあるんは、鹿の頭みたいなんやけど……」  確かに鹿の頭だ。尖った角の先が地面から突き出ている。植木ゴテで近くの土を掘ってみると、頭蓋骨だけが転がっているのがわかった。四肢の部分がその下の土に埋まっているらしい。地中から細長い骨の一部が覗いている。 「頭部の切られた獣か……」  一成は立ち上がってあたりを見回した。出土した場所は、蛇の環を描く水濠の中央にあたる。これらの獣は首を切断されて、わざわざここに埋葬されたのだ。  ということは、やはりこれは環濠集落の遺構ではない。  沸き立つほどの興奮を覚えて、一成は大きな声をあげた。 「皆、この付近を重点的に掘り出してくれ。掘った土も篩《ふるい》にかけて、中に骨のかけらが混じってないか確かめるんだ。それと、誰か事務所に行って、そこにいる学生も呼んできてくれ」  周囲に散らばっていた作業員や学生たちが集まってくる。その中の一人がプレハブ小屋に走っていく。一成は玲を振り返った。 「いい時に来てくれたよ。忙しくなりそうだ」  玲はにこりとした。それが妙に気弱な笑みに見えて、一成は意外な感じを覚えた。そのおずおずとした笑みは、玲に似合わなかった。今の微笑だけ、どこか他の人間の仕種《しぐさ》をとってつけたように思えた。 「骨が出たんですかっ」 「どこです」  プレハブ小屋から走ってきた学生の声がした。一成は彼らに手を振った。 「ここだっ、ここっ」  そして彼の頭から玲の表情のことは滑り落ちていった。  西方の雲が切れて、錆びた色の夕焼けが覗いていた。新聞紙の上に置かれた骨が、それを受けて赤く染まっている。  玲はしゃがんで、黙々と軍手を嵌《は》めた手で土を掻いていた。  せっかくの休みだというのに、こんなことをしている自分がおかしかった。東京にいれば、コンピュータの前に座ってソフトの組立てを考えているはずの時間に、土まみれになって地面に這いつくばっている。  いつもの帰省なら、友人に電話したり、京都や大阪に買物に行ったり、他のことが頭に浮かんだはずだ。なのに今では自分でも驚くほどこれが楽しめた。  土を丁寧に掘っていくのは、鏡を磨く作業に似ていた。糞を転がすスカラベのように、目の前のことしか考えない。こんな作業が好きなのは、姉のほうだった。編物や掃除を苦もなく楽しげにやっていた。細面の顔に気弱そうな笑みを浮かべて……。  あまりに鮮明に姉の表情を思い出して、苦しい気持ちになった。玲は手を止めた。  すぐ向こうでは、一成が骨の埋まっている場所を四角い枠に方眼状に糸を張ったもので細かく測量していた。隣にいる学生が、彼の口にする数値を書きつけていく。一成の目からいつものおどけた色は消え、真剣な光が宿っていた。頬に土がこびりついているのにも気がつかないらしい。  一成を眺めるのは楽しかった。八年前もそうだった。彼の生き生きした表情に、玲は見惚れていたものだった。  突然、一成は勝利したボクサーのように両手を上げて怒鳴った。 「よーし。今日はこれで終わります。ごくろうさまでしたーっ」  気がつくと、あたりは薄暗くなりつつあった。背中を丸めて地面にかがみこんでいた作業員たちが、ほっとした顔で立ち上がった。 「おつかれさま」 「お先に、失礼します」  皆、プレハブ小屋のほうに鋤簾《じよれん》や鍬《くわ》を持って引き揚げていく。正方形に掘られた穴に青いビニールシートを被せ、学生たちは骨を持ってぞろぞろ事務所に向かう。  その背中に一成は叫んだ。 「学生の皆は続行だよ。今日中に発掘した骨の計測図を作るんだ」  不満とも何ともつかない声があがった。  一成は玲のほうに振り向いた。 「玲ちゃんも、今日はどうもありがとう。助かったよ」 「いいえ。私こそ、おもしろかったわ。お役に立てたのならよかったけど」  一成は汗だらけの顔を手の甲で拭いて、おどけたようにいった。 「猫の手でもありがたい、っていっただろ」  玲は軍手をはずして、一成の手に渡した。 「それって、あんまり役に立たなかったというんじゃないでしょうね」 「いやいや。夕食、いつ奢ろうか。来週になったら、時間もとれると思うけど」  玲は微笑んだ。寂しさが風となって心に吹きこんできた。 「いいのよ。どうせ私、来週の月曜日には東京に帰ってしまうから」  一成は、あ、という顔をした。彼は拗《す》ねた幼児のように靴の先で土を蹴った。 「残念だな。せめて家まで送っていくよ。昨日みたいに遠回りはできないけど」 「責任者がふらふらしていたら、学生さんに怒られるわよね」 「まったくだ」  一成は怯えたふりをして肩をすくめた。彼は軍手と測量道具を小屋に片づけると、玲を促して入口とは反対側に歩きだした。二人は薄暗くなった遺跡を横切っていく。正面に横たわる神社の森の向こうはもう斗根だ。入口から迂回するより、ずっと近い。 「こっちから出られるの?」 「関係者はね」  水濠址の横を通り過ぎようとして、一成は立ち止まった。 「いけないな。まだ水気が抜けないや。この近くに水脈でもあるのかな」  見ると、水濠の底には相変わらず泥が溜まっている。泥のてらてらした輝きは、むしろ昨日より強くなった感じがする。 「もとは、この蛇の形をした濠に水がたたえられていたのね」  玲は、水濠に水が満ちている光景を想像した。表面の水が揺れると、環を描く蛇が動くように見えたにちがいない。 「だけど何のためにわざわざ蛇の形に作ったのかしら」  一成がきっぱりと応えた。 「ここはきっと祭祀遺跡だったんだ。骨は神に捧げた生贄《いけにえ》のものだよ。あんなに多くの獣が一様に首を切られているのは、食用にしていたとは考えにくい」 「生贄?」 「そうだよ。蛇神に対するものだと思う」  奈良盆地の西に赤々と夕焼けが燃えている。彼は掘り返された地面を眺めて、ひとり頷いた。 「蛇が神である三輪山伝説、奈良盆地一帯に見られる野神祭り。きっとこの一帯は、縄文時代からの蛇神信仰が強く残っている場所だったんだ。だから弥生時代になっても、蛇神を祀るこの遺跡が作られた。蛇の形をした水濠は蛇神の象徴だ。そこに人々が生贄の動物を捧げた」  水濠の中央で、屠《ほふ》られる獣。水でできた蛇の環が、生贄の血で赤く輝く。その赤い蛇に向かって、蛇神への祈りを捧げる人々……。玲の脳裏に、古代人の儀式の様子が鮮やかに浮かんだ。 「その人たちは、蛇神に何を祈ったのかしら」  一成は暗い溝を見下ろした。 「蛇神は、死と再生の神……。永遠なるものへの祈りだろうな」  そして彼は腕組みをすると、前に広がる水濠の環を見渡した。 「昨日、家に帰ってから、もう一度蛇神について調べてみたんだ。そしたら三輪山の蛇神の話のような、蛇と人間の異種結婚譚は世界中にごろごろ分布しているんだな。蛇と人間の子が、現在その土地に住む民族の子孫である、というような話が多い。僕はね、蛇神との結婚によって現在の人間が生まれたというその説は、あながち馬鹿にできないんじゃないかと思うんだ。だいたいダーウィンの進化論なんてのも信憑性《しんぴようせい》は薄いわけだし、人間がどのようにしてこの地上に現れたのか、まだはっきりと解明されてないんだ。猿かなんかと蛇神が交わって、人間が生まれた、といっても、真実からそう離れているわけじゃないかもしれないよ」  玲は微笑んだ。 「おかしなこと考えるのね」  一成は自分の頭を叩いて笑った。 「どうも僕は想像力旺盛でね。黙ってりゃいいのに、またぺらぺら喋るもんだから、それでいつも教授には馬鹿にされている。僕も蛇みたいに脱皮して、落ち着いた男になりたいよ」 「そんな必要ないわ。今のままの一成さんがいいんだから」  思わず口から滑り出た言葉に、玲はどきっとした。まるで恋の告白みたいだ、と思った。  一成は照れ臭そうに首を横に振った。 「話を奈良盆地に戻すと、蛇神信仰が根強く残っていたこの地に大和政権を築いた人々がやってきた。彼らは、大陸からやってきたともいわれる別種の民族で、信奉する神も違っている」 「|天照 大神《あまてらすおおみかみ》ね」  出来のいい生徒を褒める教師のように顔をほころばすと、彼は続けた。 「ああ。伊勢神宮に祀られている天照大神がその代表格といえるだろう。彼らにとって蛇神は邪教の神だ。当然、弾圧がはじまる。そして縄文時代からの歴史を持つ蛇神信仰は、大和政権によって潰された」  口調に熱がこもってきた。瞳を輝かせ、一成は自分の話に夢中になって続けた。 「だが、蛇神信仰は完全に消されたわけではない。あの鏡がその証拠だ。鏡作氏があの鏡を作ったとしたら、古墳時代においても蛇神を崇《あが》める心は残っていたということだ。野神祭りも然《しか》り。つまり蛇神信仰は、一見消滅したように見えても、実は綿々と受け継がれてきた。どうしてかわかるかい、玲ちゃん」  玲はかぶりを振った。 「蛇神が永遠性を表すからだよ。人は誰でも永遠性に憧れる。そして人々にとって、それをもたらしてくれる存在が蛇神だった。古代人なら、なおさら純粋にそれを信じただろう。実際、僕はその信仰は威力があったと思う。縄文時代がどれくらい長く続いたか、知ってるかい。一万年近いんだよ。大和政権がこの国を支配してから今まで、まだ二千年もたたないというのに、蛇神を信仰した縄文時代はその五倍以上続いたんだ。すごいことだよ、これは」  玲は一成の勢いに呑まれて、ただ相槌を打っていた。しかし急に彼は彼女の表情に気がついたらしい。下唇を前歯で噛んで、苦笑いをした。 「ごめん。また独演会をしちゃったよ」 「いいのよ。おもしろいわ」  一成は肩をすくめて、歩きだした。  赤い太陽が、盆地の彼方に沈もうとしていた。二人は長い影を引いて、荒涼とした大地を渡っていく。夕焼けの柔らかな光を浴びて、一成の横顔が浮かんでいる。玲の胸に切なさが湧き上がってきた。それは、ずっと昔、彼に抱いていたものと同じ感情だった。  恋心。  人気のなくなった遺跡を横切るに従って、自分が時までも超えているような気がした。時も音もすべて消え、この世に一成と二人きり……。  心地よい沈黙を味わいながら遺跡の縁まで行くと、低い柵を乗り越えて野道に出た。雑草の生い繁る小道が鏡作羽葉神社の敷地へ延びている。神社の境内を通り抜ければ、斗根の集落に着く。  玲と一成は神社の木立の中に入っていった。玉砂利に足をのめりこませて仄暗《ほのぐら》い道を十メートルほど歩くと、拝殿が見えた。その手前にあった丸い池の辺《ほとり》で、一成は立ち止まった。  玲が、鏡池だと教えると、彼は興味を抱いたようだった。 「へえっ、これも鏡に関係あるのか」  鈍い銀色に輝く池を眩しそうに見つめていた一成が、おやっ、と身を乗り出した。 「変な波が立っているな」  玲も鏡池に目を遣った。滑らかな水面に、一筋の波が動いていた。中央から、ぷくんと盛り上がった波が、同心円を描いて広がっている。さざ波ともちがう。まるで誰かが次々に見えない小石を池の中央に投げているようだ。その波紋は、池の表面を規則正しく舐《な》めていく。  静かな池の水面には、周囲の木々の影がくっきりと落ちている。波が達すると、それらの影が、ぐらりと揺らぐ。岸辺に並んで立つ玲と一成の影も、波に乗って水面に浮き、また鎮まる。  しばし水に映る影の動きを眺めていた玲は、おや、と思った。  自分の影が別人に見えた。全身がやけにほっそりとしている。背中に、海草に似たもやもやと黒いものが漂っている。髪の毛だった。長い髪が水の中にいるように広がっていた。一重の細い目、薄い唇。その唇の両端が上がり、微笑みが浮かんだ。  玲の喉がからからになった。  銀色の水面に映っているのは、死んだはずの姉だった。  次の瞬間、波が覆いかぶさってきて、綾の姿が揺れて消えた。再び水面が静かになった時、そこには耳の下までしかない短い髪の小柄な玲の姿が映っているだけだった。  玲はしばらく鏡池を凝視していた。  目の錯覚にちがいない。それにしても、どうして、こんなに執拗に姉の姿を見るのだろう。昨夜は、鏡の中に映った気がした。そして今は鏡池に映った……。池とは、水鏡。  玲の肌の産毛が逆立った。  二度ともに、鏡に映ったことになる。 「この池の水、どこからきているんだ?」  一成の声に、玲は目を逸《そ》らせた。 「さあ……」  混乱した気分であたりを見回して、池の背後を包む森で視線が止まった。 「そういえば、あの裏の森に湿地があって、水が湧いていると聞いたことがあるわ。湧き水じゃないかしら」 「あの森に?」  一成は残光に照らされた森に顔を向けると、考えながらいった。 「森は、遺跡と神社のちょうど中間にあるんだな。あの遺跡の水濠も同じように湧き水で潤っていたのかもしれない。どの程度の湿地なんだろう」 「見てみる?」  一成は、池の背後の高い石の柵を見て、眉をひそめた。 「入れるの?」  玲は手招きして歩きだした。  一旦、拝殿の前に出て、その横の道をさらに奥に入っていく。本殿を過ぎたところで、三方を石の柵に囲まれた行き止まりになった。正面に高さ一メートルほどの低い鉄格子の戸がついている。そこが森への入口だが、戸には太い鎖が巻かれて、大きな錠が下りていた。  玲は鉄格子に両手をかけて地面を蹴ると、戸を跨《また》いだ。 「おい、玲ちゃん。いいのかい?」 「いいわよ。小さい頃、よくこうして中に入って、かくれんぼしたものだわ」  玲は向こう側に飛び降りた。 「とんでもない、お嬢さんだ」  ぶつぶついいながら、一成もひょいと戸を跨いだ。  林の中を小さな道が続いている。玲は、そこに足を踏み出した。二、三歩、進んだだけで、急に深い山中の森に入った気がした。暗い頭上で、烏の鳴き声が響く。樹齢何百年もありそうな粗樫《あらかし》や黒鉄《くろがね》もち、青桐《あおぎり》といった大木が空を黒々と覆っていた。  奥に入るにつれて、湿気のこもった空気が押し寄せてきた。だんだん地面が滑りやすくなってくる。先のほうに少し開けた場所があった。玲は後ろの一成を振り返った。 「あそこが湿地よ」  小道は、その湿地の前で終わっていた。  二人は立ち止まった。小学校の教室ほどの広さの湿地には、高さ一メートルもない姫蒲《ひめがま》がびっしり生い繁っている。細長い蒲鉾《かまぼこ》形の黄色の花が、一面に咲いていた。  一成は、泥でぬるぬるする湿地の縁に立った。 「灌漑用水が発達するまでは、この付近も、こんな湿地があちこちにあったんだろうな。湿地には蛇が住むから、蛇の住処《すみか》といってもいい」  玲は顔をしかめて、一成に寄り添った。 「蛇だなんて、いわないでよ」 「あれ。あんな鏡、持ってるくせに、蛇はきらいなの?」  からかうようにいった一成は、すぐそばの巨大な榎《えのき》に目を遣り、驚いて聞いた。 「あれ、何だい」  灰色の幹に、藁《わら》を箒の先のように飛び出させて作った太い綱が幾重にも巻きついている。 「ああ、去年のみぃさんの蛇綱よ。お祭りの終わりにここに運んできて、皆でそこに掛けるの」 「なるほど、これかぁ」  一成は興味をそそられたらしく、榎の老木を見上げた。  蛇綱は幹を這い上がり、地面に近い一本の太い枝に絡みつき、さらに先のほうは湿地の中に垂れている。姫蒲の間に、大きな草鞋《わらじ》を二つ重ねたような藁の塊が転がっていた。それが頭部だった。綱は湿気に侵されて、黒ずんでいる。薄暗くなった森の中で、それは、頭から湿地にもぐりこもうとしたまま死んでしまった巨大な蛇を連想させる。  蛇縄の巻きついた榎の幹を手で押して、一成がいった。 「なんだか鬼気迫るものがあるな」 「毎年、毎年、新しい蛇綱を掛けるまで、そこにあるのよ」 「東さんのいう通り、みぃさんの祭りの日が、人間まで脱皮する�剥《む》けの朔日《ついたち》�というなら、当然、蛇も脱皮するわけだ。ということは、これは脱皮した蛇の脱け殻だな」 「あさってのみぃさんで、また脱皮するのよ」  玲の言葉に、一成は、あっと声をあげた。 「そうか。みぃさんはあさってだったな。ぜひ見てみたいな。玲ちゃんは来るの?」 「ううん、法事だから」  玲は、彼の顔をちらりと見ていい足した。 「自殺した姉の七回忌なのよ」  彼は言葉に詰まって、「お姉さんが?」と聞いた。玲は姫蒲の花の穂を指先で撫ぜながら頷いた。 「結婚まで決まっていたのに自殺しちゃった。昨日、見せたあの鏡はね、その姉の形見だったの」  柔らかな姫蒲の花が指先をくすぐる。玲は黄色の花を睨みつけて続けた。 「結婚が決まっていたのに、姉は死を選んだのよ。その人と結婚しても、幸せにはなれないと思ったみたい。それよりも死の世界が魅力的だったのかしら……」  一成は指で耳たぶに触れ、軽く揉んだ。 「七年前のあさってが命日ということは、僕が『雅《みやび》』で玲ちゃんと会った半年後に亡くなったの?」 「そうよ」  玲は当時を思い出して微笑んだ。 「田辺さんと会った頃は、まだ姉は生きていたわ。あの冬休み、家に帰ると、よく田辺さんのことを姉に話したの。喫茶店のお客さんで、好きな人がいるって。姉ったら、にこにこして聞いていたわ。私、好きだっていえないといったら、姉は、わかるわ、といったっけ……」  玲はぷつっと言葉を切った。  あの時の姉の顔が浮かんだ。  寂しそうな表情で、こういったのだ。  ──わかるわ、玲ちゃん。好きな人に、好きや、いえたら、ほんまええやろなぁ。  姉は、誰か密かに愛している人がいたのではないだろうか? 「僕も、好きだとはいえなかった」  一成の声に玲は振り向いた。彼は両手をズボンのポケットに突っこみ、身体を弓なりにして空を見上げていた。 「やっといえたと思ったら、相手はもう結婚が決まっているし、ついてないよ」  玲は彼を軽く睨んだ。 「勝手なこといって。昔の恋を打ち明けたってしかたないでしょ」  一成は反らせていた背筋を元に戻すと、玲に向き直った。陽に焼けた喉仏や柔らかな癖毛、両端が笑うように上がっている大きめの口。かつて限りない憧憬をこめて見つめていた彼の顔の造作が、心臓に達するほど強く、目に食いこんできた。 「昔のことよ」  玲は自分にいい聞かせるようにいった。 「そうだな」  一成が呟いて、目を逸らせた。その視線が地面に釘づけになった。 「何だろう」  姫蒲の間に円盤形の丸い石があった。石の周りには、鑿《のみ》で削ったような傷がついていた。一成はその前にしゃがむと、傷のためにでこぼこした縁を絆創膏《ばんそうこう》を貼った右手の指で触った。 「わざとつけたみたいだ。それも、かなり古い傷から、ごく最近のものまである。何かの印みたいだが……」 「どれ、見せて」  玲も一成の横にかがみこもうとした。その時、姫蒲の根本の茎が足にひっかかった。玲が、自分を支えてくれようとした一成の腕に強くしがみついたために、彼の身体も均衡を崩した。 「きゃっ」  玲と一成はもつれ合って、姫蒲の繁みに倒れこんだ。  びしゃん。泥が周囲に飛び散って、服を通して冷たさが滲みてきた。 「あーあぁ」  一成が声をあげて、身体を起こした。押し潰された姫蒲の間から湧き出てきた泥で、二人とも全身、べとべとだ。 「ごめんなさい」  玲は謝りながら立ち上がろうとしたが、靴が姫蒲の葉で滑ってまた尻餅をついた。 「まって、今、僕が……」  一成も半身を起こして、泥の中から自分の手を引き抜いた。ずぼりっ、と鈍い音がして再び黒い泥の飛沫《しぶき》が散った。 「絆創膏が抜けちゃったよ」  苦笑して、一成が右手を掲げた。 「大丈夫?」  玲は心配して彼の手を取ったが、指は泥で汚れている。彼の掌から泥を拭いながらいった。 「傷なんか見えないわ」 「ほら、中の三本の指先だよ」  玲は関節の盛り上がった指に触れた。彼の指がくすぐったそうに動いたと思うと掌がすぼめられ、玲の指が温かな手に包まれた。太い親指が手触りを確かめるようにゆっくりと彼女の指を撫ぜる。  玲の手は、大きな掌にくるまれていた。いつか彼女の指も優しく愛情をこめて、頑丈な男の手を愛撫していた。泥にまみれてぬるぬるする二人の指が、絡み合った。  髪の毛に温かい息を感じて、玲は顔を上げた。一成の顔がすぐそばにあった。そして何かを考える暇もなく、気がつくと玲は一成と唇を合わせていた。  土埃と汗の臭い。一成の匂いだ、と思った。二人の唇が開かれ、お互いの息が混じり合う。彼の腕が玲の身体を包む。玲の手が一成の首へと伸びて、強く抱きしめた。  ぴちゃっ。突然、二人の身体の下で、泥の撥ねる音が響いた。何かが太腿《ふともも》の横をずるずると這《は》っていくのを感じた。  玲は弾かれたように、顔を離した。  姫蒲の繁みの奥に消えていく、黒っぽい蛇の尻尾が見えた。  玲は急に寒気を感じて、一成の掌から自分の手を引き抜くと両腕をさすった。  一成も呆然として、姫蒲の中に座りこんでいる。頭上に広がる空はもう暗い。榎の巨木が闇を受けとめようと、蜘蛛《くも》の巣《す》状に枝を張り巡らしている。その枝の先から、腐りかけた蛇綱がだらりと下がる。  ぴちゃ、ぴちゃっ。  蛇綱の頭の転がったあたりから、微かな音が聞こえてきた。それに長いものを引きずるような音が混じる。  玲は脅えた顔で、黒々とした影に沈む姫蒲の繁みを見つめた。  ずるるっ、ずずっ。ぴちゃんっ……。  周囲から不気味な音が湧きあがる。蛇が泥を這っているのだ。一匹ではない。湿地の底を無数の蛇が蠢《うごめ》いている。生臭い空気が足許から押しあがってくる。玲の唇が震えた。悲鳴をあげようとしたが、喉から洩れたのは啜《すす》り泣きのような声でしかなかった。  墨色の空に淡黄色の朧月《おぼろづき》が滲んでいた。もう真夜中を過ぎているのに、蒸し暑い空気がまだ神社の境内にたちこめている。  東高遠は額に汗を光らせて、鏡池の前に立っていた。足許には死んだ犬が横たわっている。首を切り離された胴体から滴り落ちる血が、池の水を染めていた。  しかし、池の波紋は消えることなく、次から次へと湧き上がり、広がっていく。  どうして、おさまってくれないのだ。血は、もう充分ではないのか。  彼は陰鬱な顔で、どす黒い池を睨んだ。  なんとしても今度だけは止めなくてはならない。あと一回しかないのだ。  先祖から伝わってきた、あの話。  鏡池の水が百回、血の色に染まれば、蛇神がこの世に蘇る。  なぜ百回なのか、どういう理由で池が赤く染まるのか。そんなことはわからない。  ただ、池の水が変化する前兆はこの波だといわれている。池の中央から泡のような波が盛り上がり、止まらなくなったら、冥界の蛇神が動きだした印……。  高遠がその印を見たのは、これまで二度あった。そのたびに必ず池は血の色に染まり、彼は胸を掻きむしられる思いで、榎の下の石に筋を刻んだ。過去、代々の神官がそうしてきたように。  しかし、どうしてよりによって、自分の代になって、こんなにたびたび池が赤くなるのか。  しかも、これが最後なのだ。あと一度、池が血の色に染まれば、蛇神が出てくる。  高遠は拳を握りしめて、森を仰いだ。  木々の頭上に湧く入道雲のように葉先を覗かせているのは、榎の老木だ。風もないのに、榎の枝がゆっくりと揺れていた。それはまるで、暗黒の虚空に向かって腕を振っているようだった。  私は、ここにいるぞ、と。     6  天からこぼれ落ちる小言のように、陰鬱な雨が降り続いている。農機具店の中は暗く沈んでいた。鈍い金属の光を放つ鍬《くわ》も一輪車も、鎌も、土間の仄かな明かりの下で蝋《ろう》づけになっている。  玲は、父に頼まれて店の帳場に座っていた。さっきから座り机に頬杖をついて、開け放した店の入口越しに道路を眺めていた。  灰色の路面で雨粒が飛び跳ねる。  ぴちゃん、ぴちゃん。  それは昨夕の出来事を思い出させた。湿地に倒れた自分と一成の周囲で聞こえていた、泥の撥ねる音……。  彼女は頬杖をついた両手を滑らせ、顔を覆った。  昨日の出来事を考えるのを頭が拒否している。昨夜も今朝も、あのことに意識が向くたびに、玲は慌ててそこから顔を背けた。だが考えまいとしても、すぐに昨夕の森の中での光景が蘇《よみがえ》ってくる。  二人は互いに魅入られたように唇を重ねてしまった。そして周囲で這い回る蛇の気配に驚いて湿地を飛び出すと、泥だらけのまま黙って別れた。  家に帰ると、両親には川岸で転んだと言い訳して、玲はすぐに風呂を浴びた。しかし夕食の間も心は騒いでいた。  私はどうしてしまったのだろう。あの一瞬、広樹の存在も忘れていた。  昨夜も広樹からの電話はなかった。やはり彼にとって、私との約束などたいしたものではないのだ。そう思うと、再び心が抉《えぐ》られるように痛む。ただ、その痛みは微妙に以前のものとは違っていた。  これまで玲は、広樹を愛することに満足していた。彼に甘えて、彼の面倒を見て、軽口を叩くことで、満ち足りていた。彼が約束を破っても、自分の心の位置に揺るぎはなかった。彼からの愛に不満はあっても、自分の愛には確信があったから。誰が何といっても、私は広樹を愛しているのだ、と信じていた。  しかし、その確信が揺らいでいる。田辺一成と思ってもみなかったことが起きたのだ。  東京にいたなら想像もできなかったことだ。あれほど待ち焦がれている広樹との結婚を三か月後に控えて、昔の恋心を現在に蘇らせてしまうとは。  奈良に帰ってきてから、どこか心の歯車が狂っていた。突然、広樹に対する不満が膨れ上がっていった。彼のすべてが信じられなくなった。  私らしくないことだ、と玲は思った。彼女はずっと周囲の世界を信じて生きてきた。まっすぐに続く人生の道を踏みしめて、それが幸福へと導いてくれると確信していた。しかし突然、しっかりしていたはずの足許の大地が音をたてて崩れはじめた。自分の歩いている道が、果たして道なのか、もうわからない。本当は砂漠の砂の中で幻影を見ているだけではないか。  広樹との結婚。幸せな家庭。そんなものは、蜃気楼《しんきろう》かもしれない。  私の中の何かが変わってしまった。自分の立脚地点が消滅して、身体の均衡が失われていく。まるで霧の中を歩いているようだ。  玲は、顔を覆っていた両手をゆっくりと離した。目を閉じていたせいで、周囲がやけに白っぽく見えた。机の上に置いたコップに、麦茶が入っている。表面にはびっしりと水滴がついていた。水滴一粒一粒の丸い膨らみが、蛇の鱗《うろこ》のように見えた。  玲は指を伸ばして、水の鱗に触れた。鱗は潰れて、たらたらとコップの表面を滴り落ちていった。 「ごめんや」  野太い声が聞こえて、戸口にずんぐりした影が射した。玲は顔を上げた。  傘を閉じながら、太った老人がのそりと敷居を跨《また》いで店に入ってきた。 「かなわんなぁ、うっとおしゅうて……」  傘を入口脇に立てて帳場を見た老人は、玲に気がついて、ぼってりした頬を緩めた。 「なんや。史郎さんかと思うとったら、玲ちゃんやったか」  近所に住む隠居老人の唐沢敬三だった。父の史郎と気が合うらしく、店にしょっちゅう顔を出しては、世間話をしていく。 「お父さん、今、法事のことでお寺まで行ってますねん。もうちょっとしたら、戻ってくると思いますけど……」  唐沢は顔をしかめて、雨の降り続く外を見遣《みや》った。 「せっかく来たんやさかい、史郎さんの顔を見てくわ。待たせてもろうてええかな」 「どうぞ、どうぞ。ここで休んでください」  玲は座布団を帳場の上がり口に置いた。唐沢はそこに腰を下ろして太腿に肘《ひじ》をつき、前かがみになると、玲のほうに顔を向けた。 「寺ゆうたら、龍生寺やろか」 「ええ。法事のことで、住職さんに会わなあかんゆうて」  唐沢は張り子の虎のように太い猪首《いくび》を頷かせた。 「ああ、この前の多黄子さんの三十三回忌のことやろ」 「いえ、姉の七回忌……」  そういってから、玲は、あれっ、と思った。 「多黄子さんの三十三回忌って何やの? そんなもん、やったんですか」  唐沢は口を半ば開けて、しまった、というように玲を見た。そして禿げた後頭部を手で撫ぜた。 「いや、わしの思い違いや。気にせんといてや」  玲は、彼の顔を窺《うかが》いながらいった。 「唐沢さん、もう惚《ぼ》けはったわけでもないやろに」  唐沢は、むっとしたらしく、ぴしゃんと額を叩いた。 「まだ頭はしっかりしてるわ」 「ほな、さっきのこともほんまやないですか」  玲に突っこまれて、唐沢は困ったように周囲を見回した。母も買物に出かけていた。家の中から物音ひとつしないことに安心したのか、唐沢は、ほっと息を吐いた。 「清代さんには内緒やで、玲ちゃん」  玲は頷いた。唐沢は玲のほうに体を捩《ね》じって、声を低くした。 「多黄子さんの三十三回忌も今年やってん。先月末の命日にな、史郎さん、龍生寺でひっそり法要をあげてもらわはった。出たんは、わしと多黄子さんのお兄さんの三人だけやったけどな」  今年は、姉の七回忌だけでなく、多黄子の三十三回忌でもあったのか。玲は、その偶然に驚きながら、座り机に身を乗り出した。 「けど、なんで、お母さんに内緒にしたんやろ」 「そら、史郎さんは清代さんに遠慮しはってんや。なんちゅうても前の奥さんのことやし……」  確かに、家で夫の前妻の三十三回忌を行うとしたら、母は苦しんだかもしれない。結局、父は朴念仁《ぼくねんじん》ではなかったのだ。母が前妻への嫉妬を胸の底に抱えて生きてきたことを、わかっていたのだろう。 「お父さんは多黄子さんのこと、まだ忘れられへんのやろか」  玲は思わず訊ねた。唐沢は、ぶ厚い掌で顔を撫ぜて、唸《うな》り声を洩らした。 「そら、まあ、せやろなぁ……。それに、なにしろあんな死に方しはったんやし」 「多黄子さんも、蔵で自殺しはったって聞いたけど」  唐沢の目に、昔話を語る時の老人特有の興奮が過《よぎ》った。 「わしが発見したんだっせ。あれは、ちょうど、みぃさんの日でな」 「みぃさんの?」  玲の声が大きくなった。姉が死んだのもみぃさんの日だった。  唐沢は身体を動かして火鉢に背中をもたせかけると、玲に向き直った。 「あの時の祭りの世話役が、亡くなったあんたのお祖父さんの健太郎さんやってんみぃ。ほいで祭りの後の宴会もここでやったんやけど、途中で多黄子さんがおらんようになってしもうて、史郎さんはぷんぷん怒ってはったわ。ほんでみぃ、わしゃ史郎さんに頼まれて、蔵にある酒を運びに来たわけや」  唐沢は蛭《ひる》のような唇を舌で湿した。 「蔵の戸は半分開いとった。わしは誰かおるんやろか、と思いながら、中に入ったんや。天窓から午後のお日様が射しこんどった。ところが、その光が切れかかった電灯みたいに、ちらちらと明るうなったり暗うなったりする。あれぇ、と思うて顔を上げたら、そこに二本の脚が揺れとってん。蔵の中二階の手すりに縄をくくりつけて、多黄子さんは首を吊ってはった」  唐沢は首を横に振りながら呟いた。 「あの時の様子はよう忘れへん。きしきし鳴る縄の音。多黄子さんの体が揺れて、光が入ってくるたびに、床でぎいらぎいら輝いてやった鏡……」 「鏡?」  玲は、ぎょっとして聞き返した。  唐沢は両手で西瓜《すいか》ほどの環を作った。 「せや、こんな大きい鏡や。普通の硝子《ガラス》の鏡やあらへんかった」 「その鏡、裏に蛇の模様がついたらへんかったですか?」  玲は再び、座り机の上に身を乗り出した。 「さあなあ。そんなもん、よう見る暇たら、あらへんわ。わしゃ腰抜かしそうになって、蔵から飛び出してもた」  きっと、あの鏡だ。多黄子もあの蛇の鏡を持っていたのだ。玲がそうだったように、姉も多黄子の遺品の中から、鏡を見つけたのかもしれない。 「多黄子さんの自殺……」  玲はしばし言葉を呑みこんでから、思いきって訊ねた。 「お父さんの浮気が原因やったんですやろ?」  唐沢の背がびくっと揺れた。そして玲の真剣な表情を見て、肩の力を抜いた。 「多黄子さんちゅう人は気性の激しい人やったよって、史郎さんの浮気がわかった時は、そら、大騒ぎしはったと聞いたけど。それから、なんやら様子が妙にならはってなぁ。道で会うても、挨拶もしはらへん。思い詰めた顔で、まっすぐ前だけ向いて歩いとった。わしゃ、こら多黄子さん、よっぽど頭にきてはるで、ちゅうて思いよってんみぃ」  写真の中で綾を抱いて幸せそうに微笑んでいた多黄子。だが数年後、幸福な家庭は、父の出来心のために、脆《もろ》くも崩壊してしまったのだ。 「ただいまぁ」  土間に父の大きな声が響いた。玲と唐沢は同時に、戸口を振り向いた。  史郎が傘の雨粒を払いながら、敷居を跨いで店に入ってきた。寺の住職に会うので気を遣って、珍しく背広姿だ。史郎は唐沢を認めて、片手を上げた。 「ああ、敬三さん、きてはってたんか」  唐沢は、先の話は秘密だ、というふうに、素早く玲に目配せしてから、背広についた雨粒を払っている史郎に返事した。 「せや。今日は、ごうしんさんゆうのん、忘れとったらあかん思うて、いいに来たんだっせ」 「ごうしんさんやて?」  史郎は帳場の奥の壁にかかったカレンダーを振り返った。 「ほんまや。今日は十六日か。すっかり頭から抜けとったわ」  ごうしんさんとは、町のあちこちに置かれている石灯籠に火を灯す行事だ。毎年、七月十六日に行われていた。唐沢と父が今日のごうしんさんの手順について相談しはじめたのを機に、玲は帳場から腰を浮かせた。 「ほな、私は釈放やな」  史郎は、靴を履いている玲にいった。 「ああ、どこへでも行ったらええわ。けど、ゆうべみたいに、川でこけるんやないで。ええ歳した娘がみっともない」  せっかく忘れかけていた昨日のことを思い出して、玲の顔が引きつりそうになった。 「なんや川にこけたんか、玲ちゃん」  からかう唐沢に、まあ、ちょっと……、と曖昧に返事して、玲は土間に出た。 「玲、ついでに、入口の戸、閉めといてや。雨が吹きこんだぁるわ」  史郎にいわれて、玲は戸口に歩いていった。格子戸を閉めようとして、玲はふと動きを止めた。  雨に煙る町は寂しげだ。小さな雨粒を撥ね返す瓦屋根。足許の細い溝を勢いよく走る濁流。軒下で体を丸める雉鳩《きじばと》。向かいの岩濠《いわごう》の連子窓《れんじまど》の奥に黒い影が落ちていた。  誰かが窓辺にへばりついて、こっちを見ている。まただ。玲は不快な気分になって、道路越しに連子窓を睨み返した。  と、連子窓の隙間から白い蛇の頭がするすると滑り出た。  手だった。ほっそりとした白い手が、小豆色の連子窓の木の間から突き出ている。その手が優雅に振られた。伸びた指がゆっくりと掌に包みこまれ、再び開かれる。内側に巻かれながら浜辺に砕けたと思うと、また押し寄せてくる波のように、白い手は繰り返し動き続ける。  玲は戸口に釘づけになった。  かぼそい手は、雨の向こうから執拗に玲を招いていた。  ざざざざあっ。藁《わら》のこすれる音がして、黒く腐った蛇綱が榎《えのき》から落ちていき、姫蒲《ひめがま》の繁みで跳ね返った。  東高遠は、枝の先に絡みついた最後の綱を竿で突いている息子の高志に声をかけた。 「丁寧に落とすんやで。神様なんやさかい、粗相のないようにせなあかん」  頭からすっぽりと雨合羽を着た高志は、うんざりした顔でいった。 「一年も雨ざらしになっとったら、神様かてどっか行って、おらへんで」  高志は、どん、と強く藁の束を突いた。蛇綱は枝の突起からはずれて湿地に落下すると、その下にあった藁の蛇の頭部にぶつかって鈍い音をたてた。 「ほら、蛇綱は下ろしたで」  高志は姫蒲の間に横たわった腐った綱を見下ろした。高遠は湿地に一歩、近づいた。 「次は、それを境内に運んで燃やすんや」 「この雨やで」  高志は空を指さした。 「明日まで待ったらええやろ。火かて、つかへんやろし」 「石油をかけりゃええ。蛇綱の始末は、みぃさんの前日と決まったある」  高志はおおげさにため息をついて、蛇の胴体を抱え上げた。腐った藁綱は簡単に、ぶちりと切れた。彼はちぎれた蛇綱を両手いっぱいに持つと、森の外へと歩きだした。  ふてくされたような息子の後ろ姿を見送って、高遠は憂鬱になった。自分が死んだら、高志はとうてい祭りの差配なぞしないだろう。今ですら、家に置いてやっているということを口実に、やっと神事の手伝いに引きずり出しているのに。  高遠は傘を揺すって水滴を落とし、自分も蛇綱を運ぼうと、湿地にかがみこんだ。そして、誰かが転げ回ったらしく姫蒲が折れていることに気がついた。泥の中に、運動靴の足跡も残っている。  怒りのあまり、傘を持つ高遠の手が震えた。  ここに誰か入ったのだ。そして、よりによって蛇神の宿る榎の下を踏み荒らした。  昔は皆が神域を崇拝したものだ。危険な場所と知っていたからだ。ここは、蛇神の毒気の吐かれる場所なのだ。いったい何のために、みぃさんの蛇綱をここに奉納するかわかっていない。この榎の下こそ、蛇神の力が現れる場所だというのに。  彼の前には、代々の神主が印をつけてきた石があった。九十九本の印。あと一回。あと一度あれが起きれば、蛇神が蘇る。この場所から蘇る。  蛇神の再生が何を意味するのか、彼にはわからなかった。ただ、代々そのことは、畏れの混じった声で密やかに伝えられてきた。  蛇神が蘇れば、恐ろしいことになる……、と。  ふと、高遠は足の甲に冷たい感触を覚えた。  うつむくと、下駄をつっかけた裸足の上を通り過ぎたばかりの蛇の尾が目に入った。はっとして周囲をよく見ると、姫蒲の間に幾匹もの蛇がいた。そこだけではない。榎の根本に、草の中に、腐った蛇綱の間に、さまざまな種類の蛇が絡みついている。雨に濡れた森の淡い影の底で、何かを待っているようにじっと息をひそめている。  蛇が集まってきている。蛇神が呼び寄せているのだ。  高遠は薄い唇を一文字に結ぶと、湿地から後ずさった。  なんとかしなくては。しかし、今、いったい何をすればいいのだ。今朝起きて、すぐに鏡池に行ったが、波は鎮まっていなかった。蛇神は、犬の血でも満足しない。  祭りは明日だ。過去二回、池が赤く染まったのは、いつもみぃさんの日だった。ぐずぐずしてはいられない。  放っておけば、明日、再び鏡池は赤く染まる。そして……蛇神が現れる。  蛇神を封じる手立てはないものだろうか。先祖の誰かが書き残してないだろうか。社伝には、そんな記述はない。他に神社に伝わっているものといえば、御神体の鏡だけだ。  そうだ、|大物主 大 神《おおものぬしのおおみかみ》の御神体だ。  高遠は慌てて湿地を後にした。ばさばさと音をたてて木の葉や草の上に落ちてくる雨の中を、森の出口へと急ぐ。鉄の戸から本殿の横に出た時、蛇綱を置いて戻ってくる高志の姿が見えた。 「わしはちょっと用があるから、おまえ、ちゃんと蛇綱、燃やしとけ」  高遠は早口でいいつけると、高志の不満気な声に背を向けて、本殿に歩いていった。  色褪せた小さな本殿は、拝殿の後ろに隠れるようにして佇《たたず》んでいる。たたんだ傘を柱に立てかけて、頭上に注連縄《しめなわ》を張った階段を上がり、高遠は観音開きの扉の前に立った。扉には金色の錠前が下りていた。彼はズボンのポケットをまさぐって鍵束を取り出すと、本殿の鍵を選び出して、錠にさしこんだ。  かちっ。小さな音がして、錠がはずれた。高遠は両手で観音扉を開いた。  木のきしむ音とともに、微かな黴《かび》の臭いが流れだして暗い堂内が現れた。そこは三畳ほどの部屋になっていた。両脇に神社のさまざまな祭事の道具が山と積まれている。正面には台があり、四角い箱が置かれていた。高遠はその前に座ると、心の中で神に許しを請いながら、古ぼけた木の箱を両手で抱えて、足許の床に置いた。  箱は、赤い縒《よ》り紐でしっかりと結ばれている。亡父は、神職を継ごうと勉強をしていた彼に、何度もこういっていた。  ──ええか、高遠。御神体は何があっても見たらあかん。本殿に置いてはあるが、あれは触ってはならんのや。わしも一遍も見たことはない。見たら目が潰れる、悪いことが起きる、ゆうからな。  父がいった、悪いことが、今、池で起きようとしている……。  高遠は骨ばった指を紐にかけた。固くなった紐がようやく緩み、箱の両側に滑り落ちた。彼は緊張しながら木の箱に両手をかけた。  見たら、目が潰れる。  父の言葉が頭に響いた。  このままよそうか、と思った。  高遠は、救いをもとめるように視線を宙に向けた。ぴちゃぴちゃぴちゃ。小雨が地面に落ちる音が、本殿の壁を通して聞こえてくる。埃と湿気ではちきれそうな狭い部屋の空気に、たまらないほどの息苦しさを覚える。  御神体を見たからといって、今以上の悪いことが起きるはずはないではないか。それに、ここに、蛇神の蘇生に対する救いの手立てが示されているかもしれないのだ。  彼はそろそろと箱の蓋を持ち上げた。  がたっ。小さな音をたてて箱の蓋が取られた。次の瞬間、高遠の全身が強張った。  箱には、灰色の石が一個、置かれているだけだった。  連子窓を背に、一人の娘が座っていた。  おかっぱ頭に尖った顎。熟れた林檎のような赤い唇。長い睫毛《まつげ》の下の大きな棗《なつめ》形の目。その冥《くら》い瞳は玲を突き抜け、遥か彼方の暗黒世界を見つめている。 「私を覚えてはりますか、玲さん」  娘は水飴を思わせる、ねとりとした声で聞いた。  玲は黙って頷いた。彼女の意識は娘の下半身に吸いつけられていた。娘は、連子窓の前に置かれた車椅子に座っていた。膝に大きな桜色のスカーフをかけているので、脚は見えなかった。  玲は、ゆっくりと蘇ってくる記憶を探りながら答えた。 「霧菜《きりな》ちゃん……やね」  娘は微かな笑みを浮かべた。  岩濠霧菜。玲が東京暮らしをはじめたのと入れ違いのように、離婚して戻ってきた岩濠の娘絵里子の上の子だった。大学時代、帰省するたびに、家の前で弟と一緒に遊んでいた霧菜の姿を覚えている。当時まだ十歳そこそこだったはずだ。名前は知っていたが、歳が離れていたので、ほとんど言葉も交わしたことがなかった。三、四年前になるだろうか、母が、霧菜が交通事故に遇《あ》ったといっていた。病院でリハビリをしているという噂を聞いただけで、その後全快したと思いこんでいた。  玲が自分の下半身に注意していることに気がついたらしい霧菜は、赤い糸を何重にも絡ませた右手で膝を叩いた。 「この脚は、もう治らへんの」  視線を落とした玲に、霧菜は傲然と尖った顎を上げた。 「同情はいらんわ。そんなもん、もろうたかて、脚が動くようになるわけでもないし」  玲は戸惑いながら、霧菜は何のために自分を手招きしたのだろう、と思った。  誘われるように岩濠家の玄関を開けると、中は静まり返っていた。「あがってや」という声を頼りに靴を脱いで連子窓のある部屋に入ると、霧菜が座っていたのだった。 「お母さんや弟さんは?」  会話の糸口を探して、玲は訊ねた。 「買い物に行った。私は留守番や。いつものことやけど」  霧菜はぶっきらぼうに答えた。  家はきれいに片づいていたが、新しいものは何ひとつなかった。使い古された机、笠の壊れた電灯、茶色い染みのついた襖《ふすま》。畳の上にも車椅子が通りやすいように板が敷かれているために、どこか工事中のように落ち着かない。しかし清潔さだけは保たれていて、それが貧乏臭くなりがちな家の中に一種の清々しさを与えていた。 「それで……私に何か用やの?」  玲はしびれをきらせて霧菜に聞いた。  霧菜はまるで我慢比べに勝ったかのように、突然にっこりした。 「私、玲さんに頼みたいことがあるん」  笑うと、開いた牡丹の花を思わせる艶やかな顔になった。まだ十七、八歳のはずだ。この先、もっときれいになるだろうに、脚が不自由だとは気の毒に。  玲は、精一杯の優しい口調で応えた。 「ええよ。私にできることやったら、何でもゆうて」  霧菜は身を乗り出して、黒い瞳をきらめかせた。 「ほんまやね」  玲は、彼女の真剣な眼差しにたじろぎながら頷いた。  霧菜は車椅子の背に体を預けた。 「あの鏡、貸してもらいたいんよ」  玲は眉をひそめた。 「鏡って?」  霧菜の目が細められて、鷹《たか》のように鋭くなった。 「わかってはるやろ。あの蛇のついた鏡や」 「なんで、あれのことを知ってんの」  玲は叫んだ。  霧菜は微笑んだだけだった。  ひょっとして霧菜は、姉があの鏡を持っていたのを見たのかもしれない。だが、どうして、今は玲の手許にあることを知ったのだろう……。  考えながらふと連子窓の外を見ると、雨の向こうに自分の部屋の連子窓があった。そうだ。ここから見たのだ。私が、あの鏡に見入っているところを。窓からはずした玲の視線が霧菜とぶつかった。しかし霧菜は何も言い訳せずに、頼みを繰り返した。 「明日、一日だけでええ。お願い、貸してぇな」  できることは何でもするといった手前、断るわけにはいかなかった。しかし、あの鏡を一時でも手放すのは抵抗があった。 「あの鏡、借りてどうするの?」 「ただ見てみたいだけや」 「明日、一日だけやね……」  玲は念を押して、不承不承頷いた。霧菜の顔がほころびかけて、思案する表情に変わった。そして玲を上目遣いで窺いながら口を開いた。 「もしも今日から貸してくれるんやったら、綾さんのつきおうてた人のこと、教えたげるよ」  玲は苦笑いした。 「姉が結婚するはずやった人やろ」 「ううん。別の男の人」 「なんやて?」  玲は霧菜の前にしゃがみこんだ。  霧菜は、右手に巻いた赤い糸をほどきながら楽しげにいった。 「私な、綾さんが店番しはる時によう遊んでもろたんや。せやから綾さんと一緒におる時は多かった。綾さんが首吊らはる前、いっぱいため息をついてな、こんなこといわはった」  霧菜は、玲が自分の言葉を一言も聞き洩らすまいと息を詰めているのを確かめてから、囁いた。 「男のゆうことなんか、信じたらあかん、て」  玲はごくりと唾を呑んだ。 「なんで? なんでそんなこと、ゆうたんやろ」  霧菜は口許に笑みを浮かべ、綾取りをはじめた。 「今日からあの鏡を貸してくれるんやったら、教えたる」  玲は眉根を寄せた。明日貸すのも、今から貸すのも大差はない。何より姉の秘密を知りたかった。いや、知らねばならない、と思った。 「ええわ、その代わり、あの鏡、傷つけんように気ぃつけてや」  霧菜は、ぱっと顔を輝かせると、子供のように叫んだ。 「約束する。私、絶対、約束する」 「ええわ、ほな、姉のこと教えて」  霧菜は息を吸いこむと、一気にいった。 「昔、神社で遊んどった時、私、見てん。綾さん、神主の息子さんの部屋で同《おんな》じ布団に入っとってんで」  玲は口をぽかんと開いた。 「高志さん?」  霧菜は頷いた。 「それ、いつ見たの」 「綾さんが亡《の》うなる二週間くらい前や」  高志は、姉よりも一、二歳年上のはずだ。恋愛関係があっても不思議ではない。それにしても二人の間でいったい何があったのだろう。姉の自殺は、彼に関係があるのだろうか……。  がたがたっ。木戸が敷居を滑る音がした。 「ただいま」  玄関から女の声がしたと思うと、男の子の元気な声が続いた。 「アイスクリーム、買うてもろうたで、お姉ちゃん」  家族が帰ってきたようだった。霧菜は、玲の腕をつかんで囁いた。 「鏡のこと、お母ちゃんには黙っといてや」  玲は顎を小さく縦に振った。霧菜の母の口から、うっかり鏡のことが両親にばれたら、彼女としてもまずかった。 「あれ、誰かきてはんのか、霧菜」  玲と霧菜のいる部屋に、骨ばった女が現れた。霧菜の母、絵里子だった。地味な市松模様のワンピースを着て、手にスーパーのビニール袋を持っている。玲を見て、驚いたような顔をした。 「あら、玲ちゃんやないの」  玲が慌てて立ち上がり、お邪魔しています、とお辞儀をすると、絵里子は他人行儀に頭を下げた。  近所とはいえ、玲より十五歳ほど年上の絵里子のことはあまり知らない。玲が子供の時、おめかしをして勤めに出ていたのを覚えているくらいだ。もともと愛想のいい女ではなかったが、離婚して実家に戻ってからは、さらに無愛想になった。そして絵里子の両親が相次いで病死してしまうと、自分の周囲に城壁を築くように近所づきあいを止めてしまった。斗根《とね》の者が皆、自分の離婚について陰口を叩いていると勘繰っているらしい、と玲の母はいっていた。  絵里子は警戒の表情を浮かべ、もの問いたげに娘を見た。霧菜は赤い紐を両手にかけて、涼しい顔で糸を取り続けている。 「玲さんに一緒に遊んでもろうとったんや。けど、もう帰らはるて」  絵里子は頬を少し歪めて、玲に、すんませんなぁ、といった。しかし、さほど感謝しているようではなく、玲に早く消えてもらいたがっている様子がありありと窺えた。 「ほんなら、私、これで」  玲は軽くお辞儀をすると、部屋を出ていった。絵里子は見送りにも来なかった。  玄関に戻ると、小学生くらいの男の子が上がり框《がまち》に腰を下ろしてアイスキャンデーを舐《な》めていた。霧菜によく似た棗形の目をしていた。  玲はサンダルを履きながら聞いた。 「霧菜ちゃんの弟さん?」  男の子はアイスキャンデーの緑色に染まった舌をぺろりと出したまま、頷いた。 「名前は?」 「義和《よしかず》」  男の子は、大きな黒い瞳をくるりと回して答えると、にこっと笑った。岩濠家の中では、この子が一番、愛想がよさそうだった。 「さいなら、義和君」  玲は手を振ると、玄関を出た。  雨は小降りになっていた。玲は玄関前に立てかけていた傘を開くと、家に向かって駆けだした。  連子の間から、玲が家の門に飛びこむのを見届けて、岩濠霧菜はまた綾取りをはじめた。  こんなにうまくいくとは思わなかった。玲が、あれほどすんなり鏡を渡してくれようとは。  玲が自分に同情したせいだ。馬鹿なひと。  霧菜は独り笑いを洩らした。  彼女は玲を軽蔑していた。何も知らない女だからだ。正月や盆に帰ってくると、家の前で近所の者たちと楽しげに東京の生活を話している。周囲の視線が自分に集まるのが当然のような顔をして、明るい声で屈託なく笑いころげる。彼女は愛嬌をふりまくことで、欲しいものを手に入れてきた人間だ。それが通用する世界に住んでいる。  しかし霧菜は、世の中の人間誰もが玲のように恵まれているわけではないことを知っていた。人には持って生まれた定めがある。この綾取りの糸のようなものだ。赤い糸、黄色の糸、青い糸、黒い糸。指を手繰って形を変えることはできるけれど、操る糸の色を変えることはできない。その色を選んでしまったのは、その人間の運命。個人の力ではどうしようもないものだ。  玲の糸の色は明るく輝いている。大きな実家があり、両親がいて恋人がいる。そして今度はあの鏡まで転がりこんだ。  あの鏡がどういうものか知りもしないくせに、当然のように手に入れた。それが許せない。  霧菜は両手の親指でぴんと糸を引っ張ると、人差し指で赤い糸を一本取った。  霧菜はあの鏡のことを知っていた。玲よりずっとよく知っていた。永尾健太郎がすべて話してくれたから。  あの鏡は鏡作羽葉神社のものだと……。  霧菜は糸の絡まった両手をくるりとひっくり返した。魚ができた。  永尾健太郎は、いくら教えてもこの魚ができなかった。指が震えて、肝心の糸をつまめないのだ。  あの話を聞いたのも、ここで詰まって糸がもつれてしまった時だった。家の前の日溜まりに座った健太郎の動きが止まった。彼は、糸が絡まって動かなくなった自分の手を不思議そうに眺めると顔を上げた。冬の太陽が永尾農具店の硝子窓にあたって、冷たく光っていた。健太郎は目をしばたかせた。 「終戦の一年前に大きい地震がきよって、神社の拝殿が倒れてしもうたことがあってん」  壊れていた機械が再び作動したように、突然、彼は話しはじめた。 「世の中、太平洋戦争に勝つか負けるかで大騒ぎしよってんみぃ。村の若い男は皆、戦争に出ておらへんかった。神官の東さんまで徴兵されとったし、東さんの家族は皆して、奥さんの実家にもんとった。しょうもない、わしゃ、ひとりで倒れた拝殿を片づけはじめたわ。ほんでみぃ、拝殿の柱の下から、あの鏡が出てきおった。そらもう珍しい鏡やった。裏に花びらの形をした蛇の模様がついとった。わしゃ、それを家に持って帰ってんや」  健太郎は言葉を切って、赤紫色の舌で口内を舐めて、入れ歯の具合を探った。霧菜は黙って老人の手に絡まった糸を取り上げた。健太郎は糸がなくなっても、まだ両手をぴんと広げて膝の上に置いたままだった。 「戦争が終わっても、東さんは帰らはらへんかった。フィリピンで戦死しはって、神官の職は息子の高遠さんに譲られたんや。ほんでも、わしゃ、あの鏡を持っとった。長いこと部屋の中に隠しとってん。せやけど、ある日、嫁の多黄子に見つかってもうた。多黄子はあれがえろう気にいってな。貸してくれゆうて頼むもんやよって、つい渡してもうたが……」  健太郎は顔を歪めた。そのまま長いこと言葉はなかった。霧菜が気になって隣の老人の顔を見上げた時、その皺《しわ》だらけの頬を涙が伝っているのに気がついた。 「多黄子は死んでもうた。わしにはわかる。鏡のせいや。あれは普通の鏡やない。その証拠に、わしゃ見たんや。裏面の蛇の模様はなぁ、もともと一枚の鱗だけ色がついてへんかってん。それが多黄子が死んだ後に見たら、色のついてへんかった鱗が血みたいな色に染まったあった。あの鱗が血ぃ吸うたんや。多黄子の血ぃ吸うて、蛇は真っ赤になってもた。あの鏡は神社の土の中に戻すのがいちばんや。そら、わかったぁる。せやけどでけへん。鏡を神社に持っていこう、思うたんびに、鏡がゆうんや。帰りとうない、外におりたい。そう、わしにゆうんや……」  その時には不可解に思えた老人の言葉だったが、後で霧菜にもわかった。その鏡がどんなものか。どんな力を持つのかも。たぶん今では、健太郎よりも、もっとよく理解しているだろう。  もちろん健太郎も、朧気《おぼろげ》ながらもあの鏡の力に勘づいていた。だから、鏡を神社に返納したいと思っていたのだ。しかし、どうすることもできなかった。鏡の力に抗するには、老人の脳髄はあまりに萎えていた。  歳を取るとはそういうことだ。水気がなくなり、皺の浮き出た肌が全身を覆うとともに、意思の力が消えていく。絶え間なく拡散しようとする意識を必死で繋《つな》ぎとめないといけない。そうしていても、やがては理性が失われてくる。  老人になんか、なりとうない。  霧菜は唇を丸く突き出すと、両手をぱんと引っ張った。  ぷつん。赤い糸が切れた。 「霧菜ちゃん」  小さな声がした。振り向くと、玲が連子窓の外に立っていた。彼女の腕に抱えられている平たい包みを見て、霧菜の顔から苛立《いらだ》ちが消えた。 「玲さん、持ってきてくれはったん」  玲は頷いて、窓の隙間からビニールの包みを差しこんだ。 「大事にしてね」  霧菜は切れた赤い糸を膝の上に置いて、包みを両手で受け取った。 「おおきに」  玲は手を振ると、傘をさして歩きだした。どこかに出かけるようだった。  霧菜は鏡の包みを胸に抱いて、その小柄な姿を見送った。  雨に煙る淋しい通りを青い傘をさした玲が遠ざかっていく。その足取りは妙に緩慢で、いつものきびきびした玲の動作とは違っていた。  綾さんみたい。  霧菜はふと思った。  綾も、あんなふうにゆっくりと歩いた。自分の足許を確かめるように、うつむいて歩いていた。  霧菜は玲の後ろ姿をじっと見つめた。青い傘の下から長い髪が揺れている気がしたが、目を凝らすと、ただの傘の影だった。玲はとぼとぼと石灯籠の角を曲がり、雨の中に溶けていった。 「綾さんと俺が?」  東高志の声が大きくなった。  玲は青い傘の下で頷いた。 「姉が自殺する前、つきあってはったんやないですか」  雨合羽に半ば隠れた高志の顔が白くなった。  鏡作羽葉神社の境内だった。玲は、燃える炎の前で高志と向かい合っていた。  姉と高志の関係に思い惑いながらいつか神社に来てしまい、拝殿の横で去年の蛇綱を燃やしていた彼に出会ったのだ。  不意に綾との関係を聞かれて、高志は見るからにうろたえていた。玲はそれで確信を持った。 「その時のこと、聞かせてください。私、姉がなんで自殺したか、知りたいんです」  高志は、炎から飛び出した綱を鉄ばさみでもどしながら、むっつりといった。 「たいして話すことはないで、玲ちゃん。つきおうたゆうたかって、ほんのちょっとの間よって。二週間もなかったんちゃうか」 「けど、行くところまでいかはったんやろ」  玲が単刀直入にいうと、高志は動転したようだった。そして玲の視線を避けながら応えた。 「誘うたんは、綾さんのほうやで。こっちはびっくりしたくらいや。自殺する一か月くらい前、突然、僕んとこに訪ねてきて、ずっと前から好きやった、いわれたんやさかいな。結婚する前に、それだけゆうときたかったんやて。それまで僕、何とも思うてなかったけど、そら悪い気ぃせえへんわな。なんやかや話しているうちに、そのまま……」  高志は玲に、後のことはわかるだろう、といわんばかりに片手を振ってみせた。 「ほんで、どうなったんですか」  玲は、がらがらした声で訊ねた。  足許からは、蛇綱の燃える音が聞こえている。白い玉砂利を焦がして、雨の中でも消えずに輝き続ける赤い炎は、侵しがたい神聖なものに見えた。  高志は、燃えさかる炎を眩しそうに眺めた。 「それから、二、三回、逢うたかな。けど、綾さんは結婚が決まってたし、まあ、それまでのことやと思うとった。そしたら綾さんが、結婚してくれ、いいだしてな。そんなこといわれたかて、僕も全然、心の準備もなかったし……」 「断ったんやね」  玲は呟いた。  炎の中で蛇綱がのたうち、苦悶していた。 「まさか自殺するまで思いつめてたんやとは、想像もせえへんかった。ただの出来心みたいなもん、と思うてた」  出来心。  綾は、出来心なんかで何かできる人間ではない。高志の腕に抱かれたのなら、それだけの覚悟をしていたのだ。なのに彼は、姉の真剣な気持ちに気がつかなかった。  蛇綱が黒い灰となって崩れていく。それを見ている玲の目に涙が滲みそうになった。  高志は、くすぶる火の中に、足許の小石を蹴りこんだ。 「女の人の気持ちはわからへん。僕かて、綾さんがそれほど思いつめてたと知っとったら……」 「知っとったら、結婚してはった?」  玲は鋭く聞いた。高志はたじろいだ顔をした。 「まあ……したやろな」 「嘘や」  玲は、自分でも驚くほど断定的にいい放った。 「姉が死んだから、そんなこといえるんや。高志さんは、姉を愛してはらへんかった。最初から遊びのつもりやったんや」  彼は雨合羽のフードの中に隠れるように顎を引いた。 「そんなんやない。その時は綾さんが好きや、と思うた。けど、綾さんかて別の男と結婚を決めてやったんやし、僕らのことは一時の熱情みたいなもんやったんや。最初から、続くようなもんやなかった」  ぱちっ。火のはぜる音が響いて、高志が飛び上がった。 「おお、いたあっ」  手の甲に火の粉が散ったのか、しきりに撫ぜている。高志は不機嫌にいった。 「ほな、玲ちゃん。僕、これからせなあかんこともあるし。もうええやろ」  少年時代は眉目秀麗な秀才で通っていた高志は、若い女の子たちの憧れの的でもあった。しかし今では、意地悪な目つきをした、狭量な人間としか思えなかった。  玲は冷やかに頭を下げた。 「お手間とらせました。おかげさまで、姉の自殺の原因がわかった気がします」  高志の顔がひきつった。 「僕のせいと思われたら困るで」  玲は唇の端に笑みを浮かべた。自分が姉に似た表情を浮かべていると、心の隅で意識した。  高志は、ぎょっとして玲から顔を背けると、家のほうに引き返していった。その痩せた体を見送りながら、姉の自殺の原因をつくったのは高志であるのは確かだ、と思った。彼の遊び心が、姉をつまずかせたのだ。  もう蛇綱は黒い灰になっていた。あれほど燃えさかっていた炎は消えていた。  姉はこの炎を見誤ったのだ。高志との間の炎を、永遠に続く愛と見間違えた。本当は、やがては消えてしまうはかないものだったのに……。  糸のような雨の中を、玲はゆっくりした足取りで歩きだした。  高志に裏切られ、自ら死を選んだ姉のことを思うと、辛くなった。  どれだけ悩み苦しんだことだろう。だが、そのことを誰にも打ち明けることができなかった。孤独の中でひとりあがいていたのだ。鏡に向かって、男なんか信じられないと……。  玲は傘の柄を握りしめた。鼻の奥がつんとした。ぱしゃっ。サンダルの先が水溜まりにつっこんで、冷たさが足に伝わってきた。  机の上にずらりと獣骨が並んでいた。水で丁寧に洗われて、滑らかな曲線を描く褐色の骨は、どれもすでに計測が終わり、注記が付けられている。形質人類学の専門家に正式に鑑定を依頼するまでははっきりしたことはいえないが、出土した猪や鹿や犬の骨は、どれも首の骨が切断されている。どう考えても、貝塚に埋まっているような食用にされた獣骨ではない。  蛇神への生贄《いけにえ》だったのだ。  田辺一成はそう心の中で呟くと、剥き出しの腕をさすった。全身、寒気がしていた。プレハブの事務所内には彼以外の人影もなく、トタン屋根を打つ雨音だけが空虚に響く。青白い蛍光灯の光の下で、彼は獣骨の間にラップトップ式のパソコンを置いて調査日誌を打ちこんでいた。  昨夕、泥だらけのまま事務所に戻ると、田圃《たんぼ》で転んだと言い訳して体を洗った。そして学生のTシャツとトレパンを借りて徹夜で作業をした。朝になって雨が降りだして今日の作業が中止とわかると、学生たちは帰っていったが、彼だけは残って作業を続けていた。  冷たい水道の水を浴びたのが悪かったのか、今朝方から悪寒がしている。風邪をひいたにちがいない。  パソコンの入力画面では、さっきから三行しか進んでいない。だが、仕事に身が入らないのは、風邪のせいだけではないとわかっていた。  昨日のことが脳裏に刺さった釣針となってひっかかっているからだ。玲との接吻の感触がまだ唇に残っている。彼女の体の柔らかみが掌にこびりついている。一瞬のことだったのに、あの抱擁は強烈な熱情の刻印を彼の心に焼きつけてしまった。  玲は、もうすぐ結婚するのだ。恋愛感情を抱いてはいけないとはわかっているのに、心が引きずられる。そこからくる罪悪感が、この悪寒に変わったようだった。  一成は頭を振ると、パソコンのキーを打った。右手の指先がずきんと痛んだ。見ると、中の三本の指にできた裂傷の傷口がどれも少し開いている。昨夜、神社の湿地で絆創膏が剥がれてから、そのままになっていた。  彼は椅子から立ち上がり、灰色のスチール製の棚に置かれている救急箱を開けた。絆創膏を取って指に巻いていると、背後で硝子戸の開く音がした。  振り向くと、そこに玲が立っていた。  麻の薄褐色のワンピースを着て、素足にサンダルを履いている。雨で脚が濡れていた。一成の心臓が大きく打った。血液が怒濤となって指先まで押し寄せてきた。 「玲ちゃん……」  そのまま何といっていいかわからなくなった。彼は救急箱の蓋を閉めると、玲と向き合った。  玲もまた言葉を失い、途方に暮れた顔をしていた。気弱そうに目を細めて、小屋の中を眺めている。雨でしっとりした髪が肩にかかり、パーマが伸びて昨日より長く見えた。 「今日は誰もいないのね」  ようやく呟くと、彼女は後ろ手で硝子戸を閉めた。一成が、徹夜明けで学生も帰ったところだと答えると、玲は微かに頷いた。  一成は目の前の椅子の背に両手を置いて、気まずさを追い払うように明るい声を出した。 「どうしたんだい」  玲は部屋に入ると、作業机ごしに彼の正面に立った。 「ただなんとなく話したくなったの」  弱々しい声だった。いつもの彼女の声とはどこか違って、遠いところから聞こえてくるようだ。熱のせいだろうか。一成は、体が寒気で震えそうなのを奥歯を噛んでこらえた。 「何を話したくなったんだい」  玲は机に両手をつくと、頭を垂れた。そして肩を揺らせて大きなため息をついた。 「たいしたことじゃないの……ただ姉の自殺の原因がわかったの。それで私……」  彼女の姿が滲んで見えた。いけないな、と思いながら、一成はふらつく足を踏んばった。 「自殺したって……?」  自分の声がどこか間延びしているのがわかった。玲が、はっと顔を上げた。そしてはじめて彼の様子に気がついた。 「どうしたの、田辺さん。具合が悪いんじゃないの」 「少し風邪、ひいたみたいなんだ」  玲が机を回りこんで近づいてきた。そして彼の額に手をあてると、驚いていった。 「すごい熱だわ。休んだほうがいいわよ」  その言葉が、一成の中に残っていた最後の気力を奪い取った。彼は突然、体中の力が抜けていく感覚に襲われた。 「そうだな」  喉が燃え、口の中が渇いている。一成は机の前から離れると、部屋の隅の引き戸を開けた。そこは三畳ほどの仮眠室になっていた。壁際に段ボール箱が積み重ねられ、寝袋がくしゃくしゃになって置かれている。その上に一成は靴を脱いで転がった。  身体を横にするといくぶん楽になった。それでも、全身が重い砂袋と化したみたいだ。  玲もサンダルを脱ぐと仮眠室に上がり、横たわった一成の枕元にかがみこんだ。 「お医者さんに行ったほうがいいわよ」 「わかっている」  彼女の顔が滲んでいる。一成はなんとか微笑もうとした。玲が心配そうに、また彼の額に手をあてた。その冷たい掌の感触が心地よい。彼は、額に置かれた彼女の手に自分の右手を重ね合わせた。  玲が微笑んだ。まるで遥か彼方から送られてくる笑みのようだった。  周囲から雨音の波が押し寄せてくる。重ね合わせた右手の指先が、心臓の鼓動とともにどくんどくんと打っている。その鼓動は全身に広がり、彼の肉体を燃えたたせた。身体の芯から、熱い感情が突きあげる。  彼は右手で玲の頭を抱えると、自分のほうに引き寄せた。玲は一瞬、抗《あらが》ったが、すぐに体の力を抜いて、彼の顔に覆いかぶさってきた。  二人は唇を合わせた。昨夜よりも長く激しい接吻だった。一成の手が彼女の脇腹を撫ぜ、乳房を強く握った。彼の掌の中で、乳房が柔らかく押し返してくる。玲の両手が彼の首に絡まり、彼女の体が倒れてきた。二人は畳の上に折り重なった。  一成は玲の首筋に唇を這わせた。玲の吐息が彼の耳に吹きかかる。一成の性器が固くなる。風邪の発熱が情欲の炎に溶けだしていく。玲の太腿が彼の脚に絡みつく。そして二人は固く抱き合ったまま、雨音の底に沈みこんでいった。  びしゃっ。サンダルの先が道路の水を撥ね飛ばした。硝子玉のように光る水滴が泥の中に落ち、潰れた。  玲は唇を噛みしめて、斗根に続く道を歩いていた。  もう雨は上がり、空からうっすらと陽が射している。水田も家々の灰色の屋根も、すべてがみずみずしい色に濡れていた。玲は、その美しい光景を眺めながら、大声で泣きたい気持ちを抑えつけていた。  広樹という婚約者がいるのに、なんてことをしてしまったのだろう。  しかも抱き合っている間中、広樹のことなぞ頭から消えていた。口から、悦びの声が洩れるのがわかった。興奮が、体の奥深いところから迸《ほとばし》り出てきた。自分の中に、こんなに激しい欲情が潜んでいるとは知らなかった。体が情熱の溶鉱炉に投げこまれて燃えていた。玲は、その激しさの中に自ら飛びこんでいったのだ。眩しいまでの真紅に輝く炎が、瞼《まぶた》の裏に見える気がした。それは、あの鏡の蛇の鱗の色だった。  だがその炎が鎮まると、突然、広樹の存在を思い出して、後悔の念が湧き上がった。玲は、まだ熱に浮かされて息を切らせている一成の腕の中から抜け出すと、慌てて服を着て外に飛び出したのだった。  田圃道を歩くうちに、後悔の念はますます強くなっていった。取り返しのつかないことをしてしまったのだと思った。だが一方で、先の交わりにまだ体が火照っている。まるで二つの人格に分裂したようだ。罪の意識に苛《さいな》まれている自分と、興奮の名残を満足気に味わっている自分とに……。  そうなのだ。彼女が最も驚いたのは、罪の意識の希薄さだった。自分は一成と寝たかったのだ。そのことが彼女を愕然とさせていた。  私の広樹に対する愛は、その程度のものだったのだろうか。たかだか、昔、好意を抱いた男が現れただけで、こうも簡単に溶けてしまうほどに軽いものだったのだろうか。  向こうに、鏡作羽葉神社の鳥居が見える。色褪せた赤が、雨に濡れたせいか鮮やかに輝いている。濃緑に引き立つ赤を眺めているうちに姉のことを思い出して、心臓がひやりと冷たくなった。  私は姉と同じことをしてしまったのだ。結婚を控え、別の男性と肉体関係をもってしまった。姉も、私と同じように愕然としたのだろうか。足許をすくわれた気分になったのだろうか。  結婚が決まっていながら、その相手と一緒にこれから生きていこうと決心しておきながら、高志とのっぴきならないところまでいってしまった。その時、姉もまた私と同じことを思ったにちがいない。  自分の愛とは、こんなにあてにならないものだったのか、と。最初、姉は婚約者と結婚することに納得していたはずだ。愛してもいたかもしれない。だからこそ、結婚前に自分の秘めた思いを告白して踏ん切りをつけておこうと思ったのだろう。しかし、高志の遊び心を姉は本心からのものと受け取ってしまった。それが間違いだったとわかった時、姉は何を心のよりどころとしていいか、わからなくなったのだ。そして悩み……死を選んだ。  鳥居の向こうで、鎮守の森の木々が揺れている。雨に濡れた葉が翻り、ざわざわと音をたてる。  ──こっちの水は甘いよ。  葉音の中に、綾の声が響いた。  玲は、はっとして息を止めた。  膝が震えそうになった。  その声は、あまりにも甘美だった。  彼女は神社の鳥居から目を背けると、足早に斗根の家並の中に入っていった。歩調を緩めると、また危険な思考が頭に忍びこんできそうで、いつか小走りになっていた。  私は姉とは違うのだ。たかだか一回、男と寝ただけで自殺を考えるなんて馬鹿げている。何事もなかった顔をして、広樹と結婚すればいいだけじゃないか。女なら皆、似たようなことをしている。結婚直前まで複数の男とつきあっていた女は、玲の友人の中でも数多くいた。  たいしたことではない。忘れるのだ。  玲は家の門に飛びこんだ。玄関の重い格子戸を開けたとたん、電話の音が耳を打った。靴箱の上に置かれた灰色の電話機が、けたたましい音をたてて鳴っている。  玲は受話器を取って、もしもし、といった。 「ひどいな、玲ちゃん」  広樹の声が聞こえてきて、玲は息が止まりそうになった。一瞬、一成とのことを知られてしまったのかと思った。もちろん、そんなはずはなかった。それでも気持ちが乱れたまま玲が黙っていると、広樹が訊ねた。 「玲ちゃんだろ、その声」 「そうよ」  玲はなんとかかすれ声で応えた。広樹は彼女の様子がおかしいことに気がつかないらしく、なじるような口調で続けた。 「鏡のことだよ。今日見てみたら、別の鏡じゃないか」  ひどいな、とは、あの鏡のことだったのか。玲の体から張り詰めていたものが抜けていった。 「やっぱり私、手放したくなくて」 「困ったなぁ。お父さんに、どう言い訳すればいいんだい。未来の婿としての立場を弱くするつもりか」  未来の婿という表現に、背中をどやしつけられた気がした。  広樹と自分は結婚するのだ。ここに至るために、私は努力を重ねてきたのだ。愛していると何度も彼に告げて、喧嘩もした。別れそうになったこともある。それでも今まで続けてきた。広樹と結婚したかったためだ。それをたった一時のことで失おうとしている。  姉と同じことを繰り返したくはない。情熱のままに突っ走り、自分の心の泥沼に溺れたくはない。広樹に会いたい。今、会わないと、とんでもないところに流されていってしまう気がした。 「広樹さん、今、どこにいるの?」  玲は、受話器にしがみついた。 「どこって、伊勢だよ」 「私、今から、そっちに行く」 「来るって……?」  広樹は当惑した声をあげた。 「会いたいのよ」  玲は叫んだ。広樹は沈黙した。やっと彼女の様子が普通ではないことに気がついたらしかった。玲は、玄関の壁に貼ってある近鉄の時刻表を見た。 「大和八木を一時発の特急で行くわ。そっちには二時半に着くから、駅で待ってて」 「そんな急にいわれても、玲ちゃん……」 「お願い、待ってて」  玲は歯を食いしばるようにして告げると、がちゃん、と受話器を置いた。     7  すり硝子《ガラス》の窓から、外の白々とした光が洩れてくる。田辺一成は、荒い息を吐きながら仮眠室の畳に横たわっていた。  少し熱は下がった気がする。悪寒もおさまりつつあった。玲との激しい交わりに、彼の熱も昇華されたのかもしれない。  とうとうこんなことになってしまった。彼は自虐的な満足感と自己嫌悪に苛《さいな》まれていた。一線を越えてはいけないとわかっているのに、越えないではいられなかった。彼が心の底で望んでいたことだった。そして熱に浮かされた体内で、自制心が溶けてしまった。 「ごめんください」  小屋の入口から、男の声が聞こえた。  一成は首だけを動かして、引き戸の向こうを眺めた。みしり、と床の鳴る音がして、誰かが小屋に入ってきた。 「田辺さん、おられますか」  一成はしゃがれ声で、はい、と返事すると、上半身を起こした。玲が開け放って出ていった引き戸越しに、茶色の紙包みを持って立っている東高遠が見えた。まだ熱があるせいだろうか、黒っぽいシャツとズボン姿の彼の姿が、影のように揺れている。 「何か……」  一成は靴を履くと、柱に手をついて立ち上がった。頭がくらりとして周囲の景色が水となって流れてきそうになったが、すぐにそれも消えた。立ったことで、少し体がしゃんとした気がした。 「お休みしてはったんですか。お邪魔して、すみません」  先日とはうって変わって、腰の低い態度で高遠がいった。 「いや、いいですよ。どうぞ、お座りください」  いったい何の用だろう、と訝《いぶか》りながら、一成は作業机の前の席を彼に勧めると、自分も椅子に崩れ落ちた。  高遠はためらいながら椅子に腰をかけた。先日以来の額の皺《しわ》はますます深まっている。  一成は腕組みして、まだぼんやりした頭で高遠を眺めた。高遠はようやく決心したらしく、手にしていた封筒から細長い筒を引き出すと、机の上に置いた。 「実は、これを見ていただきたいんです」  一成は腕を伸ばして、その筒を引き寄せた。古ぼけて膠色《にかわいろ》をした和紙の巻物だった。彼はそのざらざらした表面を撫ぜていった。 「黄蘗《きはだ》染めの紙を使っているのを見ると、ずいぶん古代のものみたいですね。この種の紙は防虫効果があるから、奈良時代の写経用紙によく使われているんですが」  高遠の顔が少し明るくなった。 「さすがに学者さんですなぁ。そうですわ。えらい古いもののはずですわ」 「中を見てもいいですか」 「どうぞ、どうぞ。そのためにお持ちしたんですよって」  一成は巻物を縛っている紐をほどくと、ごわごわした紙を開いた。 『鏡作羽葉神社御神体縁起』という題名の後に難しい漢文が続いている。一見しただけではよくわからない。  困惑した顔の一成に、高遠がもどかしそうにいった。 「そこに書かれてることを読んでくれはらへんですやろか。わしには難しすぎて、手も足も出まへん。田辺さん、この前、漢文かてすらすら読めるゆうてましたやろ」 「確かに、読めないことはないですが……」  一成はうっかりしたことをいってしまった自分の軽率さを罵りながら、国文学の専門家ではないのですらすらと読み下すまでの能力はないと告げた。  高遠はあからさまに不満気な表情になった。 「でけへんのですか」 「無理ではないですけど、時間がかかるということです。発掘の仕事もありますし、一、二週間は必要かと……」 「そんなに待てしまへん。明日までに、そこに書かれてあることを知りたいんです。せやないと、たいへんなことになるんですわ」 「たいへんなことって?」  高遠は言葉をとぎらせた。そして遅ればせながら自分の感情を隠そうとして、顎を引くと視線を伏せた。その様子の不自然さに、一成の朦朧《もうろう》としていた頭が少しずつ動きだした。  彼は注意深く巻物を眺めた。「蛇鏡」という文字が、目に飛びこんできた。 「蛇鏡とは何ですか」  高遠は痛みを覚えたように顔をしかめた。 「神社の御神体ですわ。蛇の模様のついた鏡だそうです」 「蛇の模様のついた鏡?」  玲の持っていた鏡が頭に浮かび、思わず声が大きくなった。一成は机の上にかがみこんだ。 「その御神体は、神社にあるんですか」  高遠は忌ま忌まし気に首を横に振った。 「それを今日確かめてみたら、ないんですわ。いつからのうなったんか、わからへんけど。あったんは、しょうもない石が一個と、その巻物だけやったんです」 「そうですか……」  ひょっとして玲の持っていた鏡こそ、神社の御神体ではないだろうか。一成はそう考えながら、さらに訊ねた。 「だけど、どうしてこの巻物を明日までに解読しないといけないんですか」  高遠は猿のように口許を膨らませた。答えたくはないらしい。一成は巻物を眺めながらいった。 「東さん。これを解読するにしても、あなたのご存知のことはすべていっていただかないと、とうてい明日までにはできませんよ」  高遠は思案顔でしばらく黙っていたが、やがて上目遣いに一成を見ると、頭を垂れた。 「つまりですな」  彼は重い口を開いた。 「うちの神社には、昔からの言い伝えがありますねん。鏡池が百回赤う染まったら、蛇神がこの世に蘇《よみがえ》るゆう」 「蛇神ですって? やっぱり、あの神社は蛇神の……」  高遠はむっつりと頷いた。 「今までに九十九回、赤うなったんですわ。残りは、あと一回しかあらへん。せやのに、もうすぐ赤う染まりそうなんですわ。明日はみぃさんの日ですやろ。わし、悪い予感がするんです。今まで二回、池が赤うなったんですけど、それがやっぱりみぃさんの日やったよってに。けど、ひょっとしたら、その巻物に蛇神が蘇るんを止める方法が出てるかもしれへんと思うて、お願いに上がったんですわ」  一成は巻物を見下ろした。余白のないほどびっしりと記された美しい墨書のあちこちで「蛇鏡」の二文字が躍っていた。  ここに書かれていることは、今、発掘中の水濠とも関係がある気がした。高遠がせっかく持ちこんでくれたこの資料を、明日までに読めないからとすぐに返すのは、あまりにもったいなかった。 「わかりました。なんとかこれを読んでみます」  高遠は、ほっとして肩の力を抜くと、骨ばった両手を机の上に置いて深々と頭を下げた。 「よろしゅう頼みますわ」  そして腰を浮かしながら念を押した。 「とにかく明日まで……祭りのはじまる昼までに、なんとかお願いします。みぃさんの日ゆうたら、気色悪いことばっかし起こるもんやさかい、心配なんですわ」 「池が赤く染まること以外にも、何かあったんですか」  高遠はため息をついた。 「ああ、どう関係あるかわからへんけど、池が赤うなった二回とも、斗根の永尾さんとこで首吊りがありましてん」 「それ、玲ちゃんの家のことですか」  一成は驚いて聞いた。 「せや。あそこの最初の嫁さんと、玲ちゃんのお姉さん。二人とも、池が赤うなったみぃさんの日に自殺しはったんですわ」  高遠は沈痛な面持ちでいうと、出口のほうに歩いていった。一成は彼の言葉を反復しながら硝子戸のところまで見送った。  高遠は小屋の外に出ると、一成に向き直った。 「明日の午前中はずっと、みぃさんのお祭りで神社におります。それの内容がわかり次第、教えてください」  一成が頷くと、高遠も頷いた。初老の男の顔は、途方に暮れた子供のように見えた。彼は一成に一礼すると、長靴でぬかるんだ大地を慎重に踏みしめて歩きだした。その後ろ姿を眺めながら、一成は漠とした不安を覚えていた。  永尾家に、玲の姉の他にもう一人、首を吊った女性がいたとは知らなかったが、その二人が自殺した日と、鏡池が赤くなった日が一致するのは奇妙に思えた。しかもあの家には、神社の御神体らしい鏡がある。  もし高遠がいうように、明日のみぃさんの日に池が再び赤く染まるなら、永尾家の自殺者がもう一人出ることになるのか……。いや、まさかそんなことはありえない。  一成は顔を歪めて笑った。  突然、あたりが明るくなった。一成は、はっとして外を見回した。空の雲が切れて、一条の光が遺跡の上にふり注いでいる。その光を浴びて、蛇行しながら環を描く水濠の形が鮮やかに浮かび上がっていた。それは、まさに雨に濡れた大地に横たわる巨大な蛇そのもの……。  一成の全身に再び悪寒が走った。また熱が出てきたようだった。彼はふらつきながらプレハブ小屋に入っていった。 「伊勢市、伊勢市。終点です」  柿色の近鉄特急から降りた玲は、アナウンスの響くホームの中央で立ち止まった。大勢の観光客が同じ電車から降りてきている。考えてみれば、土曜日だった。週末を伊勢参りに過ごすのか、小さな旅行バッグを持った婦人たちや家族連れ、団体客などがぞろぞろと改札口のほうに流れていく。人の渦にもまれながら、玲は広樹と待ち合わせ場所を決めてなかったことに気がついた。  あの時は、そんなことなど頭に浮かびもしなかった。これから伊勢に行くという殴り書きのメモを両親に残すと、ハンドバッグに財布を放りこんで玄関から飛び出した。逃げ出したかったのだ。田原本《たわらもと》から、自分の感情から。そうしないと、自分が姉と同じ道を辿ってしまう気がした。  しかし特急に乗っているうちに恐怖心も薄らいでいった。そして今、この伊勢市駅の雑踏の中にいると、後悔の念すら湧いてくる。  一成と交わったその足で、ここまで来たことが、逆に広樹に対するとてつもない背徳行為に思えた。性急に来すぎたかもしれない。もっと気持ちが落ち着いてから、会うべきだったのだ。自分の中でも、一成との記憶が薄れた頃に。  広樹に、どんな顔をして会えばいいというのだろう。このまま奈良に戻りたくなって、玲は頭上の時刻表を見上げた。視線は奈良へ帰る列車の時刻を探していた。  不意に、肩に大きな手が置かれた。玲の心臓がどくんと音をたてた。背後から吹きかかる煙草臭い息を感じた。玲は、ゆっくりと振り向いた。  広樹が、いつもの鷹揚《おうよう》な笑みを浮かべてそこに立っていた。 「広樹さん……」  玲は声を震わせると、彼を見つめた。 「どうしたんだい、急に来るなんて。びっくりしたぞ」  目頭が熱くなる。言葉が出てこない。玲は広樹の胸に飛びこむと、そのまま彼の胸に顔を埋めた。慣れ親しんだ彼の匂いが鼻を衝く。この胸の中で泣いたり笑ったりした記憶が頭を過《よぎ》る。私は、彼の腕に抱かれて幸せだったのではなかったのか。どうして、あんなことをしてしまったのだろう。  顔を上げる勇気はなかった。その時、自分の顔に浮かぶ表情が怖かった。玲は、広樹の大きな体を強く抱きしめた。溺れそうな者が最後の力をふり絞って浮輪にしがみつくように……。  雨に濡れた舗道に陽があたり、光の織りなす帯となって通りに延びる。雨樋から滴る水滴。永尾家の板塀の向こうの松の木が刺々《とげとげ》しい葉を宙に突き出している。  霧菜は、薄暗い部屋の中から外を眺めていた。連子窓の縦の線に区切られた光に満ちた世界を、陣取り遊びみたいにひとつずつ自分のものにできたらいいのに、と彼女は思う。  しかし、それはできないことだ。私の世界は、連子窓の内側なのだから。  霧菜は、膝の上にのせた鏡に視線を戻した。そこには、自分の顔が普通の硝子鏡と変わらないほどはっきりと映っていた。  形の整った目許、抜けるように白い頬。赤い唇。小さい頃から、霧菜ちゃんは別嬪《べつぴん》さんやね、といわれてきた。大きくなったらさぞかし美しくなるだろうと皆が思い、霧菜もそう信じていた。  しかし今では、そんなことはもう何の価値もない。あの事故に遇ってしまって以来、美醜なんか関係なくなってしまった。  霧菜が交通事故に遇ったのは、中学三年の時だった。バレーボール部の練習が終わって自転車で家に帰る途中でトラックに撥ねられ、半身不随となった。それでも最初の一、二年は、霧菜も積極的に外に出ていった。母の助けを借りながら、車椅子で買物したり遠出をしたりした。  しかし、だんだん人の視線がうっとうしくなってきた。彼らはまず霧菜の顔から下半身に視線を滑らせる。次に彼女の顔に目を戻し、同情を露《あらわ》にする。こんなきれいな子なのに、かわいそうに。そう憐れんでいる声が聞こえる。まるで霧菜が美しいがゆえに、彼らの感じる不幸も倍増するかのように。  霧菜にはわかっている。彼らは心の中で「美しい子の不幸」という名の甘美な菓子を味わっているのだ。シンデレラ物語と同じだ。美しい主人公の味わう不幸が大きければ大きいほど、人は喜ぶ。しかし霧菜の物語には、舞踏会で王子と踊る場面はない。硝子の靴をきらめかせ、美しく軽やかに踊り続ける場面がない。人はそれがわかっているからこそ、ことさらに彼女の不幸を嘆いてくれるのだ。  霧菜は次第に外に出ていかなくなった。今ではこうして、一日中、家にいる。  襖《ふすま》を通して、弟の見ているテレビの音が聞こえてくる。母が昼食の食器を洗う音がそれに混じる。家の中の瑣末《さまつ》な音を聞いていると、霧菜は安心する。この家の中にいる限り、誰も私を傷つけることはない。母はいつも優しいし、やんちゃな弟は家に閉じこもりきりの姉に目もくれない。あの子は、外で奔放に遊び暮らす別世界の生き物だ。  霧菜は、この家の中で守られていた。しかし、ここに一生隠れ続けられるわけはないことも知っていた。母が働けなくなれば、そのうち外にぽんと放り出される時がくる。彼女はそれが怖かった。  だからこそ逃げ出さなくては。この鏡の向こうに。綾がそうしたように……。  霧菜は、膝の上の丸い鏡の縁を撫ぜた。  健太郎の死後、時折、綾に遊んでもらっていた霧菜は、彼女が店番をしながら、この蛇の鏡をそっと覗いては話しかけるのを聞いていた。  ──ほんまやね。そっちに行ったら、幸せになれるんやね。  まるで鏡の中に誰かがいるかのように、綾は幾度となく呟いていた。  その鏡こそ、健太郎のいっていた神社の鏡だった。だが霧菜は、そのことを綾には告げなかった。当時、彼女は十一歳だったが、健太郎から聞いたことは黙っていたほうがいいと思う分別はあった。  そして七年前のみぃさんの祭りの日がやってきた。母はまだ幼い弟を連れて、神社の境内での蛇綱作りを見に行った。どうせみぃさんは男の子の祭りだと、少しふてくされて家に残った霧菜は、一緒に遊んでもらおうと、綾を探していた。  永尾清代が、綾ならさっき裏庭で見かけたというので、霧菜は土間を通って庭に回ったが、物干し竿にかかる洗濯物の向こうにも、金木犀《きんもくせい》の木立の間にも、綾の姿はなかった。あきらめかけて庭を出ようとした時、白壁の蔵が目に入った。  厚い木の扉が半ば開いていた。  霧菜はふと好奇心をそそられて、蔵に近づくと、中を覗いた。  綾の身体が宙にぶら下がっていた。白いブラウスに芥子色の長いスカートを穿いて、綾はゆっくりと揺れている。霧菜は一瞬、綾がサーカスの曲芸でもしているのかと思った。しかし、よく見ると違っていた。綾の口から赤い舌が飛び出して、彼女の脚はもがくように震えていた。  綾は死にそうなのだ、と霧菜は思った。だが、まだ死んではいなかった。縄の巻き方が悪かったのだ。縄がずれて顎の先と後頭部にひっかかり、首を完全に締めるまでになっていなかった。彼女はどす黒い顔をして、やかんの水が沸騰するような音をたてて息をしていた。  助けを呼ばなくてはと思うのに、脚が動かない。すると綾の黒い瞳がするりと動いて、蔵の戸にしがみついている霧菜の上で止まった。唇が何かいいたそうに痙攣《けいれん》した。目には懇願の色がたたえられていた。  霧菜には綾の気持ちがわかった。彼女は脅えながらも蔵に入った。  綾の体の下の床面で、蛇の鏡が光っている。霧菜は鏡の横に立ち、両手で綾の脚をひっぱった。最初はおずおずと、そのうちに全身の力をこめて、綾の脚にしがみついた。  ごきっ。奇妙な音がした。  怖くて綾を見上げることもできず、うつむいた霧菜の目に床に転がった鏡が飛びこんできた。  鏡の表面に、折れた花のように首を曲げた綾の顔が映っていた。慌てて目を逸《そ》らそうとして、霧菜は不思議なことに気がついた。  銀鼠の輝きの中で、綾の顔が笑っていたのだ。まるで生きているような楽しげな笑みが、綾の顔に広がっていた。  こんなふうに心から屈託なく笑う綾を、霧菜はこれまで見たことがなかった。目許の暗い陰も、唇の端の悲しげな表情も消えている。綾は生まれたばかりの赤ん坊のように無邪気に笑っていた。  霧菜はおずおずと頭上を見上げた。首を吊った綾が揺れていた。だが、その顔は決して笑ってはいなかった。歯を剥き出し、苦悶の表情を浮かべている。  霧菜は狐につままれた面持ちで、もう一度、鏡に目を遣《や》った。綾は鏡の中でまだ笑っていた。声をあげて笑っているように思えた。しかし、綾の声はここまでは聞こえない。  その時、霧菜は理解したのだ。  綾はもう、ここにはいないのだ。鏡の向こうに行ったのだと。そして、そこでは人はあれほどまでに幸福な表情をうかべることができるのだ。きっと、この世では得られないものが待っているにちがいない。  霧菜は床にかがみこんだ。鏡に手が触れたとたん、綾の笑顔は死者の苦悶の表情に溶けていった。  霧菜は鏡を両手で拾い上げた。ずしりとした重みが、普通の鏡ではないことの証拠に思えた。冷たい金属の表面を掌で撫ぜて、鏡をひっくり返した。  そこには花びらの形の赤い蛇の浮き彫りがあった。霧菜の視線が、蛇の目に釘づけになった。鈍い灰色を放つ蛇の左の眼が、見ているうちに火が灯ったようにぼうっと赤く染まり、他の鱗《うろこ》の色と同じになっていく。  確か健太郎は、多黄子の死んだ後にも、鏡の蛇の鱗が一枚、赤く変わったといっていた。そして今、綾が死んで、今度は蛇の眼が赤くなった。  きっと、誰かが鏡の向こうに行くたびに、鱗は一枚ずつ赤くなるのだ。だが、蛇の体で赤くない部分というと、もう蛇の右目しか残ってない。ということは、あと一回。あと一人しか向こうに行けないのではないか。  そこまで考えた時、突然、永尾清代の悲鳴が聞こえた。宙にぶら下がる綾を指さして、大声をあげている。霧菜は驚いて、鏡を放り出すと蔵から逃げ出した。  それから永尾家は大騒ぎになった。首を吊った娘を見て動転していた清代は、幸い霧菜が蔵の中にいたことなぞ覚えてないようだった。早々にあの場を逃げ出してよかったと思う反面、せめてもう少し冷静でいれば、鏡を持ち出す知恵くらいあっただろうにと霧菜は悔やんだ。もっともそれは、ずっと後になって思ったことだったけれど。  三年前、半身不随になってから、霧菜は、あの鏡のことを頻繁に思い出すようになった。鏡の中で屈託なく笑っていた綾の顔が忘れられない。綾は、悩みも苦しみもない楽しい世界へと旅立ったのだ。そして今度は自分の番だ。  玲さんなんか向こうに行く必要たら、あらへん。あっちに行ける最後の一人は、私や。  霧菜は、鏡の表に映る自分の顔に微笑んでみせた。  いよいよ明日。みぃさんの日。綾さんが向こうに行った日、私もこの鏡を抜けて、向こうに行くんや。  銀鼠の鏡の中には、白い顔が映っていた。彼女の微笑みは顔中に広がっていく。目が細くなり、唇は薄く、額が広がった。  霧菜はぎくりとした。  微笑みは、鏡に映る顔を変貌させていた。今、そこに浮かび上がっているのは綾の顔だ。  綾は、銀鼠の鏡ごしに、じっとこっちを見つめている。霧菜の腋の下に汗が滲んだ。だが、鏡に繋がれたように目を離せない。綾の細い目が何かを探して、ぎろぎろと左右に動く。薄い唇が横に裂けた。  ──玲はどこや。  綾の低い声が、霧菜の頭にこだました。  紺碧の空を切り取って、山の稜線を彩る杉の緑。前に広がる整備された芝生の庭園。玲と広樹は白木も清々しい宇治橋を渡って、伊勢神宮に入っていった。  こうして観光客が行き来している内宮神苑を歩いていると、今朝、奈良で起こったことが夢のように思えた。  駅のホームで泣いていた玲が落ち着くと、広樹は、午後は時間を空けたからと、市内観光に連れ出してくれた。玲の突然の行動のわけを問い質《ただ》しもしない彼の態度は、ありがたかった。  白い玉砂利が太陽の光を照り返す。清浄な空気に満ちた場所にいるだけで、心の痛みが癒されていく。  玲は無意識に頭を横に振った。もう何も考えたくなかった。思考を散り散りに破り、風に飛ばしてしまいたかった。  火除橋を過ぎ、鳥居をくぐって少し歩くと、右手に川が見えた。「御手洗場」と書かれている。二人はなだらかな石畳の階段を降りて川辺に立った。川の上流は、深い緑に包まれていた。静かな川面で水鳥が魚を漁《あさ》っている。山から吹いてくる風に立ったさざ波が、川底に斑模様の影を落としている。 「風が気持ちいいわ」  玲は呟いた。 「気分、落ち着いたかい?」  広樹が窺《うかが》うように聞いた。玲は弱々しく笑った。彼が優しければ優しいほど、玲の心は絶望に沈んでいく。彼女は、その場で再び泣きだしたい気持ちを覚えた。 「ここは五十鈴《いすず》川と申しまして、参詣の方々の心の汚れを流し去っていただく、お祓《はらい》川でございます。こちらで手を洗い口を濯いでから、|天照 大神《あまてらすおおみかみ》をお祀りしております正殿へと参ります」  突然、よく通る声が聞こえた。振り向くと、団体客を前にして、ガイドの女性が説明していた。胸にお揃いの黄色いバッジをつけた中年の男女が早速、五十鈴川の岸に膝をついて手を洗いはじめた。その背中に向かって、三十代半ばのガイドの女性が話し続ける。 「伊勢神宮には、三種の神器のひとつである八咫鏡《やたのかがみ》が祀られています。八咫鏡は、神鏡ともいわれ、古くより斎王《いつきのみこ》という巫女《みこ》的存在の女性によって守られてきました。斎王は、代々天皇の未婚の皇女から選ばれるしきたりとなっています。その昔、斎王が祭典に向かわれる前には、この五十鈴川で禊《みそぎ》をされたものでした。では、ここで少しお時間をいただいて、日本書紀に出てまいります、五十鈴川と斎王にまつわる不思議なお話をご紹介いたしましょう」  ガイドはひと呼吸、おいた。手を洗い口を濯ぎ終わった観光客たちが集まっている。  広樹が玲の肩に手をかけて、顔を覗きこんだ。 「おもしろそうな話だよ、玲ちゃん」  彼の手の温もりを感じて、玲はまた辛くなった。どうして、こんな時にだけ優しいのだろう。  ガイドは慣れた口調で話をはじめた。 「雄略天皇三年の夏のことでございます。時の斎王、桍幡皇女《たくはたのひめみこ》が盧城部連武彦《いおきべのむらじたけひこ》という男と密通をしたという噂が流れました。先に申しました通り、斎王は未婚でなくてはなりませんので、事実ならもってのほかです。雄略天皇は気性の荒い、血を流すことを何とも思わないかたでしたから、武彦の父は災いが我が身に及ぶのを恐れて息子を打ち殺してしまいました。これをお聞きになった天皇は、伊勢神宮に使者を遣わして、桍幡皇女をお調べになりました。皇女は、私は知らぬ、と申しまして、急に神鏡を持ち去り、この五十鈴川のほとりに来られて、人のいない時を窺って鏡を埋め、頸をくくってしまいました」  周囲でため息が洩れた。  玲は青ざめた。ここにも鏡を前にして、首を吊って死んだ女がいたのか。多黄子や綾の話と、あまりにも似ている。  ガイドの女性は、皆の顔を見回してから続けた。 「桍幡皇女のお姿が見えないので、人々は、夏の闇夜に皇女の姿を求めて伊勢の森を探しました。すると、五十鈴川の川上に突如として光るものが現れました。夜の虹でした。四、五丈といいますから、十三、四メートルほどの大きさで、蛇のように見えたと伝えられております。驚いた人々が虹の立った場所を掘ってみると、神鏡が出てきました。その近くで皇女の屍《しかばね》も発見したそうです」  観光客のあちこちから、ほう、という声が洩れた。 「蛇と鏡か。あの鏡を思い出すな」  広樹も符合を感じたのか、呟いた。  玲は、静かに流れる五十鈴川の川上を見遣った。古代の夜といえば、暗闇だろう。その川の上に、蛇のような虹が立ったとは不思議だった。  観光客の中から声があがった。 「ほんで、その皇女さんは、ほんまのところ密通していたのやろかね」  誰もが興味深気に、どうだろうといい合っている。ガイドが答えた。 「桍幡皇女の腹を裂いたところ、水のようなものが流れ出して、その中に石があった。それで、密通の疑いは晴れたということです」 「石があったがかね」 「おかしな話やな。結石でもできとったんやろか」  団体客たちは、故郷の訛《なまり》丸だしで言葉を交わしている。ガイドは旗を持って石段を昇りはじめた。 「お清めも終わりましたようですから、これから正殿に参ります」  団体客がぞろぞろと移動をはじめた。玲と広樹も彼らに混じって歩きだした。  玲は、さっき聞いた話を反芻《はんすう》していた。  男と密通した女。蛇と鏡。まるで古代から綿々と同じことが行われているみたいだ。もっとも、それで不思議はないのかもしれない。しょせんこの世には、男と女しかいないのだから。  杉の香のする空気を吸いこむと、哀しいような気持ちが胸に湧き上がってきた。  杉木立の中に砂利の敷かれた道が続いている。直立する杉の幹の間に、萱葺《かやぶき》屋根の宮社が見え隠れする。砂利道の縁まで、おおぶりの羊歯《しだ》が地面を覆い尽くしていた。前を行く観光客の話し声も、玉砂利を踏む音も、その森閑とした森の奥に吸いこまれていく。  社務所の前を通る時、巻き上げた簾《すだれ》の後ろに巫女が座り、神札やお守りを買う人の応対をしているのが見えた。白い着物、赤い袴。皆まだ若く、赤く塗った口紅が白い顔の中で浮き上がっている。桍幡皇女もこれくらいの年齢だったのだろうか。男のことも気になる年頃だったろうに。  玲は首を吊って死んでしまった皇女のことを考えながら視線を落とした。足下の玉砂利が目に入った。ふと、石は卵に似ている、と思った。  桍幡皇女の腹から水とともに出てきた石とは、卵だったのではないか。水は羊水。石は卵、蛇の卵……。だとしたら、桍幡皇女の密通相手は蛇ということになる。  蛇神か。  このことを一成に伝えてあげたら、喜ぶだろう。  そう思ってから、玲は愕然とした。  どうして彼のことを考えたりするのだろう。私は今、広樹と歩いているというのに。 「いったい、どうしたの?」  広樹の声に、玲は顔を上げた。気がつくと、玲の足は止まっていた。 「なんでもないわ……」  彼は、優しい目で気がかりそうに彼女を見た。 「いったい、今日はどうしたんだ。突然、ここまで出てきたりしてさ」  玲は息を止めた。いつか聞かれるはずの質問だった。しかし、何といえばいいのだろう。心の中で回答を探していると、広樹は重ねて聞いた。 「怒っているのかい? 俺が電話しなかったから」 「そうじゃないわ」  怒りはしたけど、と玲はつけ加えた。  広樹は言い訳もせずに笑った。いつもなら、ここで玲の不満がぶちまけられるところだ。しかし彼女はハンドバッグの紐を持つ手を握りしめただけだった。 「だったら、どうしたっていうんだよ」  広樹は玲の態度が理解できず、困った顔をしている。  ただ、広樹さんに会いたくなっただけなの。  そんなふうに応える自分が頭に浮かんだ。私と彼との関係は変わってはいない。彼は、私の変化が何によるものか、わかってはいない。この先ずっと知ることはないだろう。黙っていればいいのだ。そして、これまでの場所にすっぽりと戻ればいい。そうすれば私は今までの人生を歩いていける。今朝のことは、ちょっとレールからはずれただけ。また元のところに戻れば、それですむ話だ。  戻るのだ。  玲は怒鳴るように自分にいい聞かせた。  広樹の腕を取って、一緒に歩くのだ。以前のように、しっかりと彼の腕にすがりつくのだ。  以前?  玲は、自分の中から出てきた言葉にどきりとした。  いつより以前だろう。そんな言葉が出てくるのは、自分と広樹の関係が変わってしまったのを認めた証拠ではないのか。そうだ。どんなに自分をごまかしても、玲と広樹の間は変わってしまった。今朝の出来事を境に。それを、なかったこととみなすことはできはしない。  彼との関係は、元に戻ることはできないのだ。新しくはじめるしかない。  玲は、広樹に向き直った。 「私、広樹さんにいわなくちゃいけないことがあるの」  広樹は怪訝な顔をした。  玲は息を大きく吸った。自分が馬鹿げたことをしようとしているのはわかった。世の中には黙っているほうがいいことがある。そんなことは知っている。ただ、玲はそんなものの上に自分の幸せを築きたくなかった。 「私、別の男の人と寝たの」  広樹は一瞬、玲が冗談をいっていると思ったらしい。長い顎を伸ばして笑った。 「昔の話は今さら蒸し返さなくていいよ」  玲は首を横に振った。 「昔のことじゃないわ。今朝のことよ」  広樹の顔から笑みが消えていった。その後には何の表情も浮かばなかった。完璧な無表情が彼の顔を覆った。そして広樹は、狭いエレベーターの中で乗り合わせた見知らぬ人間であるかのように、玲を眺めた。 「嘘だろ」  ようやく広樹の低い声が聞こえた。 「ほんとうよ」  広樹は何もいわなかった。顔色が青ざめ、目を細めて玲を見つめている。彼の顔がどこか平たく伸ばされた感じになった。  二人は玉砂利の上でしばらく向き合っていた。やがて広樹の顔に血の気が戻ってきた。 「どうしてなんだ」  彼は怒りのこもった声で問うた。  それが自分でわかっているようなら、こんなことにはならなかっただろう。玲は呟いた。 「わからない……」  広樹の顔がぐわっと赤くなり、彼は玲の肩をゆすぶった。 「わからないって何だ。どういうわけだ。俺たちの間をめちゃくちゃにするつもりなのかっ」 「そんなつもりやなかった。せやから、ここに飛んできたんやないの」 「事が終わった後だろっ」  広樹の手が振り上げられた。殴られる、と思った。玲は唇を噛んで、その拳を見上げた。殴られて当然だ、と思った。  拳はしばらく宙で震えていた。そして、ゆっくりと下ろされた。 「俺たちのことは……どうなるんだ」  虚ろな広樹の声が心を苛む。 「どうもならないわ。私は今も広樹さんと結婚したいと思ってる。ただ、嘘をついて結婚したくなかったから、いっておきたかったの」 「そんなこといわれて、俺が平気な顔で結婚できると思っているのか」  広樹は苦しみを絞り出すようにいった。玲の胸が締めつけられた。やはり告白しないほうがよかったのだ。 「広樹さんの好きなようにして。結婚したくない、といわれてもしかたないわ」  玲は震え声で告げた。せっかく築いてきた将来が、土煙をあげて崩れていく。 「いったい何をいっているんだ。あんなに結婚したいといっていたくせに、今度はそんなこと、どうでもいいというのか。俺の気持ちはどうなるんだ。勝手だよ。俺は、きみを信じていたのに」 「私を信じていた?」  ぼんやりと聞き返す玲に、広樹は怒鳴った。 「ああ、そうだよ。きみが俺を好きだということを信じていたんだ。他の男には目もくれないで、ただ俺だけを見つめてくれていると思っていた。だから俺も結婚する決心をつけたんじゃないか」  玲はまじまじと彼を見つめた。広樹の言葉には、どこかおかしなところがあった。 「つまり……広樹さんは、私の心を秤《はかり》にかけたのね。どれくらい自分を好きかって。それで、私には広樹さんだけしか目に入らないって確信したから、結婚する気になったのね。もしそんな確信が持てなかったら、結婚する気はなかったというの?」  広樹はもどかしそうな顔をした。 「あたりまえじゃないか。相手が自分に惚れていると確信を持てないで、誰が結婚を約束できる?」 「そんなこといってるんじゃないわ」  玲はたまらなくなって叫んだ。 「そんなことを考える前に、私を愛してくれたらよかったのに。もっと私を愛してくれたら……」 「愛してたよ。きみを好きだから、結婚したかったんだ」  玲の喉に熱いものがこみあげてきた。 「だったら、どうして、そういってくれないのよ。いつも私がせっついたから結婚する気になったみたいなこといって」 「愛してるなんて、しゃあしゃあと口にできるもんじゃないだろ」 「口でいわなきゃ、わかんないわ。私はいつも、広樹さんへの気持ちを口に出していっていたじゃない」 「女だから簡単に口に出せるんだよ」 「でも、いって欲しかったのよ。その言葉が聞きたかったのよ」  玲の目から涙がこぼれた。それを見て、広樹は少し口調を和らげた。 「だったら玲ちゃんは、俺がちゃんと愛情を口にしなかったから、その男と寝たというのか」  一成と寝たのは、広樹の愛情表現が足らなかったせいだといえば、二人の関係は元に戻るかもしれない。玲の頭にそんな思考が過《よぎ》った。確かに、それはきっかけだったかもしれない。だが、一成と寝たのは、広樹への腹いせではなかった。  玲は言葉が見つからずに、濡れた瞳をしばたかせた。雨上がりの空は、きれいに澄みきっていた。次々と涙が溢れてくる。嘘をついて何になるだろう。その上に結婚生活を重ねても、いつか後悔するにちがいない。  彼女は広樹に顔を向けると、静かに答えた。 「あの人とのことは……広樹さんとのこととは無関係よ。彼は昔、好きだった人なのよ。それで、そのことが蘇ってきて……」 「そんなこと、もう聞きたくないっ」  ばしんっ。いきなり頬を殴られた。玲はよろめいて砂利の上に転んだ。肘が砂利にあたって、小石が飛んだ。  彼が彼女に手を上げたことは、これまで一度もなかった。頬がひりひりと痛んでいる。玲は驚いて広樹を見上げた。広樹の顔はつかみどころがなかった。能面のように凍りついていた。  何かいいたげに広樹の唇が動いた。しかし、それが言葉に変わる前に、彼は顔を背けた。  そのまま広樹は玲に大きな背中を向けて歩きだした。ざく、ざく、ざく。玉砂利を踏む足音が遠ざかっていく。玲は痺《しび》れたように、それを眺めていた。彼は決して自分を許してはくれないだろう。結婚は無に帰してしまった。すべて自分から招いたことだ。  だが、どうすればよかったというのだろう。何事もなかったふりをして、結婚生活に入りたくはなかった。  私は、広樹が自分を許してくれることを望んでいたのだ。甘えだったかもしれない。  玲はゆっくりと立ち上がった。人々が遠まきにこっちを見ている。あの女はふられたのだ、と思っていることだろう。どうとでもとるがいい。これ以上、何を失っても怖くはない。二年間、大切に育んできた将来をたった今、失ったばかりなのだから。  玲は地面に落ちていたハンドバッグを拾って肩にかけると、涙を指で拭いた。  自業自得だ。私が選んだことだ。玲は大きな声で笑いたくなった。広樹との結婚を望んだのも私なら、ぶち壊したのも私。誰も恨むことはできやしない。  自分が何をしたのか、まだ明確にはわからなかった。わかりたくもなかった。少なくとも今は……。  玲は、あたりを見回した。二人の喧嘩を眺めていた人たちも、すでに興味を失って歩きはじめている。結局、そんなものだ。他人には、男女の出会いも別れも通りすがりの出来事。当事者にとっても、似たようなものかもしれない。出会って、別れての繰り返し。そんなものに執着して、何になる。  杉並木の果てに灰色の大きな鳥居が見えた。大勢の観光客が出入りしている。玲はそちらのほうに歩きだした。  鳥居の前の階段を上がっていくと、塀に着いた。鳥居をくぐって塀を回りこんだところに、木の神殿があった。  玲は観光客で混み合う聖域に足を踏みいれた。素木《しらき》の肌も清々しい玉垣の向こうに、金色に輝く千木《ちぎ》が見える。参詣の許される場所から神殿までの間は、幾重もの垣に囲まれている。目の前にそそり立つ木の門に垂らされた純白の絹の帳《とばり》の隙間から、白い玉石を敷きつめた空間が覗けるだけだ。 「こちらが正殿です。先ほど、お話しした八咫鏡が安置されております」  聞き覚えのある声だと思ったら、五十鈴川の辺《ほとり》で桍幡皇女の話をしていたガイドだった。また観光客たちに説明している。  玲は絹の帳の向こうに目を遣った。あの萱葺屋根の正殿の中に、その神鏡があるのだ。桍幡皇女が死の道連れにした鏡が……。  彼女は、なぜ首を吊ったのだろうか。なぜ死を選んだのだろうか。腹に入っていた石は、ほんとうに蛇神との交わりを示す卵だったのだろうか……。そうだとすれば、彼女は蛇神のいる場所へと行ったのかもしれない。それは冥界──。  ふわりと風が吹いてきて、門に掛かった純白の帳を舞い上がらせた。帳の奥に、玉石の敷かれた白の世界が現れた。素木の玉垣に挟まれたその前庭の中央に鳥居がぽつんと立っている。鳥居の左右では、緑の榊《さかき》が揺れていた。  雨に洗われた白い地面と白木の鳥居、鮮やかな緑の榊。玲はその簡素な美しさに打たれた。そこには生き物の気配は何ひとつない。唯一、動いているものといえば、風にそよぐ榊の葉だけ。死を思わせる静寂に支配されている世界。  冥界とは、こんな場所なのかもしれない。  門に下がった純白の帳の裾が翻る。まるで誰かを手招きするように、くるりくるりと舞い続ける。玲はその動きに魅せられて、門の前に立ち尽くしていた。  肩から滑り落ちた掛け布団を引き上げて、田辺一成は息を吐いた。吐息が砂漠の熱風となり、部屋に広がっていった。  彼は額に手を遣った。まだ熱は高い。  奈良から帰って、すぐに病院に行けばよかったのだ。一成は枕元に置いたオレンジジュースの大きな瓶をつかむと、口をつけて飲んだ。それで少し体が楽になった気がした。  発掘作業の間中は、六畳二間に台所のついたアパートを掃除する暇もない。台所の床にはスーパーのビニール袋が散らばり、居間代わりの六畳の間には雑誌や新聞が積み上げられている。そしてこの寝室ときたら、コインランドリーの乾燥機から取り出したままの皺だらけの洗濯物や読みさしの本が布団の周囲に散乱する。万年床にもぐりこんでいると、洞窟で生活していた古代人に逆戻りした気分になる。  だが、古代人なら、水道の水で体を洗っただけで風邪なんかひきはしないだろう。軟弱になった現代人の罰かな、これは。  一成は自分の冗談に笑う気力もなく、また両肘を枕に立てて目の前の漢文と向かい合った。発掘現場から帰った彼は、病院にも行かず、枕元に古語辞典から日本書紀、古事記の注釈まで積み上げて、東高遠から預かった巻物の解読を試みていた。夜までかかって、なんとか前半部分は読み解いていた。思った通り、内容は興味深いものだった。  彼は現代語訳したメモにもう一度、目を通した。 鏡作羽葉神社御神体縁起  天津神《あまつかみ》、天照大神の御孫にあたる日子番能邇邇藝命《ひこほのににぎのみこと》が倭国に降臨された折、三種の神器を携えていた。これは実は倭国の国津神を退散させる力を持つ、天津神の器である。中でも八咫鏡は、天照大神自ら『これの鏡は、専ら我が御魂として、吾が前を拜《いつ》くが如|拜《いつ》き奉れ』と申された通り、三種の神器の中でも最も力のある物であった。  日子番能邇邇藝命やその子孫たちは、この三種の神器を使って倭国の国津神を打ち破ると、天皇としてこの国を支配するようになった。  ところが崇神天皇の時代、おおいなる災いに見舞われた。崇神五年、国内に疫病がはやり、国民の半ば以上の者が死に絶えた。翌六年には百姓の反乱が勃発する事態となった。  事態を嘆き悲しむ天皇の夢に、国津神である|大物主 大 神《おおものぬしのおおみかみ》が現れて、次のようにいった。 「これは我が御心である。我子、意富多多泥古《おほたたねこ》に我を祭らせば、国津神の祟りはおさまるだろう」  天皇がいわれた通りにしたので、祟りは一旦はおさまった。しかし、またいつ国津神が力を盛り返してくるかわからないと考えた天皇は、一計を案じて、八咫鏡を磯城《しき》の瑞籬宮《みずかきのみや》よりお出しになり、笠縫邑《かさぬいのむら》に安置された。  笠縫一帯には、鏡の鋳造を専門に行う鏡作氏が住んでいた。八咫鏡をお作りになった天抜戸《あまのぬかと》と石疑戸辺命《いしこりとべのみこと》を先祖とする工人たちである。  ここで天皇は密かに鏡作氏にもう一枚の八咫鏡の鋳造を依頼した。八咫鏡が二枚になれば、国津神の祟りもおさえられるだろうというお考えであった。そのため新たに作られる鏡は、元の八咫鏡と形といい大きさといい、まったく同じものでなくてはならなかった。鏡作氏は蜜蝋と松脂を使った特殊な作り方により、どちらが天照大神から賜った物か見分けもつかないほどそっくりの鏡を仕上げることができた。こうして二枚となった八咫鏡のうち、一枚は伊勢神宮に、もう一枚は宮中にお納めしたのである。  鏡作氏が神鏡を鋳造した地が鏡作羽葉神社の建立されている場所であり、拝殿脇にある鏡池は、その折、神鏡の熱を冷ました池といわれている。  一成はそのメモを畳の上に置くと、布団の中でごろりと仰向けになった。  ここに出ている天孫降臨の時の話や崇神五年の疫病流行、大物主大神の祟りによって笠縫に八咫鏡を移したという経過は、古事記と日本書紀に記載されている。八咫鏡が一旦、宮中から出された場所、笠縫は田原本町の一地域の名だという説がある。崇神天皇の瑞籬宮のあった場所は田原本町の隣の桜井市だといわれているし、近鉄田原本町の次の駅名は、笠縫とつけられている。また、八咫鏡の複製を鋳造したという伝承は、田原本町にある別の神社、|鏡 作 坐 《かがみつくりにいます》天照御魂《あまてるみたま》神社の社伝にも残っている。  それらを考えると、この巻物に書かれていることは、まったくの絵空事ではなさそうだ。  彼は天井を見つめながら、もう一度じっくりと頭の中を整理しようとした。  大和政権を築いた者たちは、天照大神に代表される天津神を信奉していた。三種の神器とは、きっと日本古来の神、国津神を退散させる呪術道具のようなものであったのだろう。  しかし、その呪力が足らないと感じた崇神天皇が八咫鏡の複製を作らせた。現在も複製と原型、合わせて二枚の八咫鏡が存在している。天皇の即位時に三種の神器のひとつとして継承される賢所《かしこどころ》にある鏡と、伊勢神宮にある鏡だ。  だが、古代の鏡の製法で、完璧な複製ができるものだろうか。巻物には、蝋と銅と錫《すず》を使ったと書いてある。当時、一般的だったと考えられる、型土に原型を踏みこんで鋳型を作る踏み返し法ではなかったのだ。  では、どんな作り方をしたのか。  一成は布団から手を出すと耳をひっぱった。閉めたカーテンの向こうで、通りを歩く人の足音が過ぎていく。その規則的な響きを聞きながらしばらく薄暗い天井を睨んでいたが、突然、ああ、と呟いた。 「蝋で原型の型を取ったのか」  熱すると溶ける蝋の性質を利用したのだ。まず八咫鏡の紋様の施された面に、蜜蝋と松脂を混ぜた粘土状の素材を注ぐ。彫り模様の隅々にまで蝋を入りこませて固めた後、原型からはずし、鏡の厚さに整えて型土で覆って熱する。あらかじめ土には穴を開けておき、熱されて溶けだした蝋を型土から流し出すようにする。すると、そこにひとつの土の鋳型ができる。その鋳型に青銅を流しこんで鏡を作るのだ。加熱されても、蝋は土のように収斂《しゆうれん》しないから、原型の八咫鏡とまったく同じ大きさの複製が出来上がる。  ここまで考えて、一成は舌打ちした。 「だめだ、それだと模様は陰刻されたものになる」  鋳型のほうの模様が鏡に刻みこまれているのだから、原型の模様で浮き出ている部分は、その複製だとへこんでいることになる。  彼は鼻の頭に皺を寄せて独り言をいった。 「ということは、もう一回同じ方法をとったんだな。その陰刻された鏡から再び蝋で鋳型を取り、複製の複製をつくった。それではじめて、原型と同じ陽鋳の模様になるわけだ」  一成はまたうつぶせになると、巻物の続きに目を走らせた。後半部分では「蛇鏡」の黒い墨文字がくねっている。視界がぼやけているのか、びっしりと書きつけられた文字が黒い染みに見えた。忘れていた熱と悪寒がまた襲ってきた。彼は掛け布団を首の上までかぶった。  枕元に置いた腕時計の針は、もう夜の十時を回っている。玲は今頃どうしているのだろう。今日のことで、悩んでいるのではないか。そう思って、一成は胸が痛んだ。  明日、彼女に会いに行こう。その時、自分がどんな態度をとるのかわからなかったが、とにかく会って、話をする必要がある。彼女は月曜日に東京に戻るといっていた。今のままの状態で別れてしまうのは辛かった。  だが、明日までにこっちが仕上がるかどうか、問題だ。  一成は疲れた気分で巻物に視線を戻した。淡い芥子色の紙の上で、流暢な筆が躍り、入り組んだ線が交差している。黒い漢字の連なりは、チベットの曼陀羅のように不可解で複雑だ。明日までになんて、できやしない。頭の隅で聞こえるぼやきに耳をふさいで、彼は遠ざかりそうになる意識と闘いながら、滲む文字を再び一語一語、目で追いはじめた。  石灯籠の灯が揺れていた。  玲は深夜の田原本の町を歩いていた。伊勢市から特急に乗って帰ってきたところだ。通りに人影はなく、車の音も聞こえない。  また夕立でもあったのか、町は濡れていた。路上も家の屋根も、辻に置かれた小さな祠《ほこら》も、灯籠に照らされてぬらぬらと輝いている。家の低い軒下に設けられた連子窓の奥から、ぼうっと赤い光が滲み出る。  湿った夜気が、玲の体を押し包んだ。このまま闇に消えてしまいたかった。  自分自身がもうわからない。私は広樹を愛していたのだろうか。一成が好きになったのだろうか。自分の心をつかもうとするはしから、するりと気持ちが滑り落ちる。  自分が誰をどれほど愛しているのかすらわからないのに、どうして他の人間の愛を信頼できるだろう。人の心は幻のようなものだ。そんなあてにならない世界で、何を道しるべに歩いていけばいいのか。どこに向かえばいいのだろうか。  サンダルを濡らして、ひっそりとした町を歩くうちに、彼女は四日前、広樹の車の中で見た夢を思い出した。  姉と手を繋いで、こうして辻から辻を渡っていった。  ──ええとこ、連れてったる。  あの時、綾はそういったのだ。  ええとこて、どこやの、お姉ちゃん。  玲は心の中で呟いた。  ごぼごぼごぼ。足許で水の湧く音がした。玲は側溝の前で立ち止まった。  ゆらりゆらりと踊る石灯籠の灯に、路上の玲の影も揺れている。  長い髪が舞い乱れ、すらりとした体が水中の海蛇のように捩《ねじ》れる。私の影じゃない。姉の影だ。そう思った時、影の片手がするすると上がり手招きした。  玲は叫んだ。 「お姉ちゃんっ」  ひゅううううっ。風が吹いてきた。夕立の名残の雨粒がぱらぱらと降りかかった。  影は一旦、動きを止め、再び揺れはじめた。玲は覚束ない足取りで歩きだした。今にも暗闇に溶けだしそうな淡い影が、おいでおいでと手を振り続ける。自分のものとも姉のものともつかない影を追いかけて、辻から辻へ、冥《くら》い夜半の町を玲はさまよい続けた。     8  連子窓《れんじまど》から洩れる朝日を浴びて、岩濠霧菜は目を開いた。首をもたげると、夏用の薄い掛け布団の上に窓の影が落ちている。まるで檻《おり》の鉄格子のようだ。  朝、起きるたびに思う。  私は、この格子の中に閉じこめられたんや、と。  家の中では、洗濯機の回る規則的な音が聞こえている。テレビ番組の笑い声がそれに加わる。だけど母と弟の声は聞こえない。  窓に射しこむ太陽は、もうずいぶん高いところに昇っている。寝坊してしまったらしい。  日曜日なので、母がゆっくり寝させてくれたのだ。平日なら、会社に出かけなくてはならない母にとうに叩き起こされていただろう。  霧菜は布団に横たわったまま、静かに息をしていた。母を呼べばすぐに来てくれるとはわかっていたが、そうしたくはなかった。  隣には屋内用の車椅子が置かれている。一旦、車椅子に座れば、霧菜も自由に家の中を動き回れた。便所にも一人で行けるし、台所に行って、母の準備した食事をとることもできる。家の中で不自由はなかった。だが、こうして布団に横になった状態から、一人で車椅子に座ることはできない。  毎朝、母が来るのを待っている時間、霧菜は掛け布団に落ちる窓の格子の影を見つめている。そして自分が肉体の牢獄に閉じこめられていることを確認する。  霧菜は布団の縁《へり》を握りしめた。  こんなのは、いやだ。私は逃げ出したいんや。  両手で畳を叩き、体を捩《よじ》って怒鳴りたい。だけどそんなことをしても、何の解決にもならない。母親を泣かすだけだ。  でも、まだ希望はある。彼女に残された唯一の希望。鏡の向こうの世界に行くこと。その夢が今日、叶うのだ。  霧菜の顔に微笑みが広がった。彼女は仰向けになったまま、枕許を手でまさぐった。そこに、昨夜、鏡を置いて寝たはずだった。この状況から、自分を救ってくれるはずの大事な宝。  だが、今、いくら探っても、指先は畳の目をざらざらと触るだけだ。彼女は片肘をついて上半身を起こすと、周囲を見た。畳に置いたはずの鏡がない。  慌てて布団をめくり、車椅子の下を覗きこんだ。部屋の隅々まで視線を巡らせた。  だが、あの鏡は消えていた。  霧菜の唇が痙攣《けいれん》するように震え、 「お母ちゃん、お母ちゃんっ」  甲高い声がテレビの音を切り裂いた。  固く絞った雑巾で部屋の敷居を拭いていると、あの鏡のことを思い出した。  玲は手を止めると、表通りに面した連子窓の向こうを眺めた。霧菜に鏡を貸したことが悔やまれた。今、最も望んでいることは、こんな拭き掃除ではなく、あの鏡を磨くことだ。  何も考えずに、ただ磨くこと。鏡をひたすらこするうちに、悩みも迷いも消えていくはずだ。すべて忘れてしまいたい。昨日、私がしたことすべて……。  今朝になると、一成と寝たことも、広樹にそれを告白して二人の関係をめちゃくちゃにしてしまったことも、夢の中の出来事に思えた。そこから受けた衝撃すらも薄らいでいた。  心が混沌という名の大海に投げ出されて、波とともに遠ざかっていく。広樹を愛していると思っていたのに、その確信は一成の出現であっけなく揺らいでしまった。人の感情とはなんと不確かなものだろう。玲はもはやその不確かな心にしがみつく気持ちも失っていた。 「ごめんや、玲」  顔を上げると、襖《ふすま》を抱えた父が仏間から出てきたところだった。敷居を退いた玲の前を通って、父は玄関の控えの間に入ると、その壁に襖を立てかけようとした。後ろから、やはり襖を持って出てきた母の声が飛んだ。 「あかん、あかん。お父さん。あっちに置かんと、法事に来たお客さんの目に入るわ」 「あっちて、どこや」 「廊下の先ですわ。ほら、こっち」  母が先に立って廊下を歩いていく。その後を父が続く。襖を持った両親は二匹並んで横歩きする蟹のように見えた。  仲の良さそうな両親の姿に自分と広樹のかつての姿を重ね合わせて、玲の心が痛んだ。彼女は雑巾をバケツに放りこむと、声を張りあげた。 「拭き掃除、終わったよ、お母さん。次は何したらええの」 「ほな、蔵に行って、お客さん用のお膳を出してきてや。蔵の戸は開けとるし、段ボールの箱の横に、お膳、て書きつけたるよってすぐわかるわ」  玲は、わかった、と返事して、サンダルを履いて玄関から庭に出た。  朝から家は法事の準備におおわらわだった。そのため両親も、昨日、玲がどうして伊勢まで行ったのか、真面目に問い質《ただ》すことも忘れている。彼女にはそれがありがたかった。  外は、からりと晴れていい天気になっていた。澄んだ青い天空に白い入道雲が湧き上がっている。すでに太陽は燃えさかり、気温は上昇していた。暑い一日になりそうだった。  玲は庭木の間を通り抜けて、蔵に向かった。母のいった通り、蔵の入口の鍵ははずれていた。厚い木の扉についた鉄の金具を握りしめて、手前に引く。きしんだ音をたてて蔵の戸が開くと、その奥の引き戸を押して、玲は埃っぽい蔵に上がった。  壁際に積まれた段ボール箱を見ていくうちに、ついこの前、ここで広樹と一緒に古道具を引っ繰り返していたことを思い出した。あれがたった五日前のことだったとは、信じられなかった。  あの時、私は広樹と結婚するという未来に夢中になっていた。なんと子供っぽい心理だったことだろう。  つかみきれない彼の心を、結婚というもので縛りつけることができると信じていた。しかし最も縛りきれないものは、自分の心だったのだ。 『膳十脚』と書かれた段ボール箱があった。玲は、その上に載っていた別の段ボール箱を近くの茶箱の横に置いた。姉の遺品を入れた茶箱だった。  再び五日前のことが頭に蘇った。  広樹と屈託のない会話の応酬をしながら、この茶箱を開き、あの鏡を見つけた。  考えてみると、あの鏡を手にしてから、自分の気持ちが変化しはじめたように思う。広樹の心を探りはじめ、結局、自らの心の泥沼にはまってしまった。  姉もそうだったのかもしれない。いや、姉だけでなく、姉の母、多黄子も。あの鏡と向き合ううちに、見なくていい心まで見るようになってしまったのではないか。  まるで、あの鏡に不思議な魔力が備わっているようだ。見る人の心を炙《あぶ》り出す力が……。  玲は眉をひそめて、埃の溜まった茶箱の蓋に指を走らせた。 「玲ちゃん、おるぅ?」  突然、大きな声が響いて、玲の心臓がぎゅっと収縮した。  振り向くと、蔵の戸口に大村徳子が立っていた。今日のみぃさんのための晴れ着らしく、フリルの襟のついた派手なブラウスに、タイトスカートを穿いている。 「あ、やっぱり、ここやったんやな。おじさんに聞いたら、蔵におるいわはってん」  徳子は玲を認めると、ほっとしたようにハイヒールを脱いで、蔵に足を踏みいれた。手には大きな紙袋を抱えている。  徳子と話したい気分ではなかったが、玲は、膳の入った段ボール箱を抱え上げて足許に置くと、なんとか愛想よく応えた。 「法事の準備しとったとこ。今日は朝から、家中ばたばたして、かなわんわ」  徳子は少し神経質そうに笑った。 「玲ちゃんとこだけやないで。うちも今日は大騒ぎや。ほら、今度生まれた私の子、男の子やったさかい、お祝いにみぃさんの蛇綱が家に寄ってくれはるよってな」  そんな忙しいなか、徳子はなぜ自分を訪ねてきたのだろう。玲は不思議に思って、彼女の顔を眺めた。  徳子は玲の不審がわかっているらしく、落ち着かな気に視線を蔵の中にさまよわせた。 「ここで、綾さんが首を吊らはったんやな」  玲は眉をひそめて頷いた。突然、何をいいだすのだろう、と思った。  徳子はさらに数歩、蔵の中に入ってくると、玲の顔を横目で見ながら聞いた。 「お産の時、人が首をくくった縄を腰に巻きつけたら、陣痛が軽うてすむゆう話、知ってはる?」  玲は当惑して、首を横に振った。 「うちのお母さんの実家、吉野の奥なんやけどな。あのへんの人は、そんなことゆうんやって」  玲が徳子の言葉の真意を計りかねていると、彼女は手にした紙袋を玲に突きつけた。 「私、これ、返しにきたん」  玲は紙袋を受け取ると、中を覗いた。そこには黒ずんだ荒縄が輪になって入っていた。 「何やの、これ」  徳子は小さな目を見開いて、思いきったようにいった。 「綾さんが首を吊らはった縄や」  玲は驚いて彼女を見返した。徳子は唇を舌で湿して、いいにくそうに口を開いた。 「私、その縄を腰に巻いて、二人の子を産んでん。御利益かなんかわからへんけど、確かにお産は軽うてすんだわ」  あっけにとられている玲に、徳子は、その縄を手にいれた経過を説明した。七年前の綾の葬儀の時、徳子の母はその縄を焼き棄てるように、史郎から頼まれたという。だが、徳子の母は、長男の出産の時、難産で危うく死にかけた娘のことを思い出した。しかも徳子は、二人目の子供を妊娠していたところだった。安産の呪《まじな》いのために、徳子の母は縄をこっそり持ち帰ったのだった。 「けど私、三人も子を産んだし。もう子供はつくらへん。この縄もいらんようになってしもうた。かといって、ほかしたら罰があたりそうででけへんし、どうしょうか思うてたら、ちょうど綾さんの七回忌があるゆうて聞いたさかい返しにきたんや。これ、今日、玲ちゃんの手で焼いてくれへんやろか」  勝手に姉が首を吊った縄を持ち出して、今度は焼いてくれという。玲は、徳子とその母に憤りを覚えた。一瞬、面と向かって怒るべきかもしれないと思ったが、それもおとなげない気がした。 「わかったわ」  徳子は、ほっとした顔をした。 「このこと、おじさんやおばさんには、内緒にしといてぇな」  玲が頷くと、徳子は、ありがと、と小さくいってそそくさと蔵から出ていった。  蔵の中にひとりきりになると、玲は紙袋に手を突っこんで縄を取り出した。徳子の家の物置の奥にでもしまわれていたのだろう、親指くらいの太さの縄は、しっとりと湿っている。玲は縄を右手でそっと握った。ごわごわした藁《わら》の感触が掌をくすぐる。奇妙な感じがした。これが姉の首に絡みついていたのだ。湿り気を帯びた縄には、まだ姉の体臭がこびりついている気がして、玲は縄を頬にあてた。微かな藁の匂いが鼻を衝いた。  玲の目に涙が滲んだ。  姉はこの縄を手にして、死を選んだのだ。  私はどうすればいいのだろう。  玲の左手から紙袋が滑り落ちた。紙袋の中から輪になった縄がこぼれ出て、藁の蛇が床にのたうった。  鏡作羽葉神社の境内に、藁の蛇が生まれつつあった。蛇の顎を模して巨大な草鞋を二枚重ね合わせたような頭部に、ひと抱えほどの藁束の胴体が続く。螺旋《らせん》状に切り揃えられた藁の先が蛇腹の雰囲気をよく出している。長さ十メートル以上ある蛇綱はもうほとんど完成して、三脚に組んだ竹竿の台に置かれていた。周囲では、斗根《とね》の男たちが藁の緩みがないかどうか確認している。  とうとう、今日になってしまった。  東高遠は、花びら形の環を描いて境内に横たわる黄金色の蛇綱を睨みつけた。  もうすぐ昼になるというのに、田辺一成からは何の連絡もない。さっき遺跡発掘事務所まで行ってみたが、まだ彼は来ていないということだった。  あいつは何をしているのだ。ぐずぐずしているうちに、祭りがはじまってしまうではないか。  刻一刻と祭りの開始は近づいていた。彼もすでに神官の正装に着替えている。頭には黒の烏帽子。水色の袴に赤い裏地のついた白絹の神服。だが胸の内には不安が渦巻き、神事を司る心構えができてない。  拝殿の前では、蛇綱の担ぎ手となる少年たちが筵《むしろ》の上に座り、蛇綱と一緒に奉納する鋤《すき》や鎌などの形をした小さな農具を樫《かし》の木で作っていた。祭りには参加できない小さな男の子たちが、興奮した面持ちでそれを眺めている。東の家では、女たちが祭りの後の会食の準備をしている。神社は、いつもとは違うざわめきと華やぎに満ちている。しかし今の高遠には、その騒ぎも忌ま忌ましいものでしかない。  誰もわかっていないのだ。みぃさんの祭りの意味を。  この祭りは、蛇神を鎮めるためのものだった。この世に出てきたいと渇望する蛇神の心をなだめるために、年に一度、藁で作られた仮の姿で出現させる。そして再びあの世に戻す祭りなのだ。しかし、今日、出てこようとしている蛇神は、あの世に戻りはしない。ここに居座り続けるのだ。  だが、蛇神が出てくるとは、何を意味するのだろう。  この世の終わりだろうか。怪獣のような蛇が現れるのだろうか。まさか、そんな非現実的な現象が起こるはずはない。  高遠には、蛇神が現れるということが、何を意味するか、さっぱりわからなかった。しかし代々伝えられたその言葉は、彼に理性を超えた恐怖を植えつけている。  何かが起こるのは確かだ。それが何なのか、あの巻物に書かれているかもしれないのに。あいつは、どうしているのだ。  再び一成に対する怒りが湧いてきて、高遠の顔が歪んだ。  あの男も事の重大さがわかっていない。ここにいる誰も何もわかっていない。  神の畏ろしさがわかっていないのだ。  高遠とてわかっているとはいいがたいが、少なくとも感じることはできる。神に対する戒めは軽んじてはならないのだ。鏡池が百回赤く染まれば、蛇神が蘇《よみがえ》る。それが現実に何を意味するにしろ、蛇神が再生することは真実なのだ。 「神主さん。お願いします」  高遠は、はっとした。  境内にいる男や子供たちが、高遠を眺めていた。少年たちは奉納する農具を作り終わっている。蛇綱もすでに完成している。拝殿の入口では、お供えの膳を持った彼の妻がこっちを見ていた。蛇綱の出発前には、祭りに関わる者が揃って拝殿に集まり、神様に祈りを捧げるのがしきたりになっていた。 「あ、ああ」  高遠は呟くと、重い足取りで拝殿へと歩きだした。  腹に滲みわたる太い読経の声が続いていた。龍生寺の住職の青々と剃り上げた頭が、息を継ぐたびに小さく揺れる。果物や花の供えられた仏壇の奥では、黒枠の額に入った綾の顔が笑っていた。広い額、細い目。唇を微かに曲げて少し緊張して首を傾げている。  玲は、姉の遺影から、横に座る両親へと視線を移した。父は放心した顔でじっと前を見つめている。日頃の騒々しさを消すと、父の顔はずいぶん老けて見えた。母は数珠を握りしめて頭を垂れている。また、姉を死なせてしまったことへの罪の意識に苛《さいな》まれているのかもしれない。  できるなら、両親にいってあげたかった。姉が死んだのは、父や母のせいではないことを。姉の悩みは、両親では解決できないものだった。私が、自分のぶつかった壁について、両親に話すことができないのと同じだ。  両親の後ろには、唐沢敬三と、父の妹の西条美佳と正憲の夫婦が控えている。かつて『雅《みやび》』を経営していた美佳叔母は、今は夫と一緒に天理でレストランを営んでいる。大学生の二人の子供は来ていなかった。  わずか六人だけの七回忌。ここには、婚約者だった男も、姉を棄てた高志もいない。まるで姉の人生には、恋愛というものは存在しなかったかのようだ。  私が死んだら、広樹は来てくれるだろうか。一成はどうするだろうか。一周忌は来てくれるかもしれない。しかし、三回忌、七回忌と続けば、もう私と関係した男性の影はなくなる。  結局、その程度のものなのだ。広樹は私との関係がだめになっても、やがてまた別の女が現れれば恋に落ちるだろう。その時こそ、結婚するかもしれない。私も、しばらくは広樹のことを考えて落ちこむだろうが、また別の男を愛するようになる。そして再び一成のような男性と出会い、その人を裏切り、破局となる……。  玲は唇を噛みしめた。  人間の心なぞあてになりはしない。恋愛に、永遠性を求めるのが無理なのだ。  気がつくと読経は終わっていた。父が仏壇の前に進み出て、お焼香をしている。襖を取り払って広々とした畳の間に、線香の煙が白い筋となって流れていく。次に母、そして玲の順番がきた。  玲は仏壇の前に座ると、線香の煙の向こうの姉の顔を見た。迷いあぐねている玲に向かって、姉は哀れむように微笑んでいる。  美佳夫婦と唐沢が焼香を終えると、龍生寺の住職は最後に綾の遺影に合掌してから、墨染めの衣をふわりと広げて向き直った。 「綾さんのええ御供養にならはりましたな」 「ありがとうございました」  両親が頭を下げた。住職は細かな皺《しわ》の寄った顔に柔和な笑みを浮かべて、集まってきた者を眺めた。玲に目を向けたとたん、住職の顔から表情が消えた。彼は瞼《まぶた》の垂れた目をぱちぱちとさせて、そっと首を捩《ね》じって仏壇を振り向いた。  唐沢が猪首《いくび》を住職のほうに突き出した。 「どないしはったんですか」  住職は一同に顔を戻すと、もう一度、玲の顔を見て苦笑した。 「いや、ちょっとな。さっき玲ちゃんが、あんまし綾さんそっくりに思えたもんで。けど、よう見たら、全然、違いましたわ」  史郎が膝に両手を置いて頷いた。 「わしも最近、玲が綾に似てきた、思いますねん。やっぱり姉妹なんですわ」  玲は二人の言葉を聞きながら、不思議な気がした。子供の時から似ていない姉妹だといわれ続けてきた。どうして今頃になって似てきたのだろう。  美佳が手にした白檀《びやくだん》の扇子を煽りながら、鳥のような顔で玲を眺めた。 「私も今日、ひさしぶりに玲ちゃんを見て、びっくりしたわ。えらいしおらしゅうなって。女は結婚が決まると変わるんやな」  結婚という言葉の鉤爪《かぎづめ》が、玲の心臓をわしづかみにした。まだ誰も広樹との仲が終わったことを知らないのだ。玲がどう返答しようかと迷っていると、正憲がにやにやして口を挟んだ。 「そら、おまえ、女の人皆がそうとは限らへんで。結婚が決まっても、がちゃがちゃうるさいんは、ちっとも変わらへんかった女もおったしな」 「なんやそれ、あてこすりかいな」  美佳が大きな目を剥いたので、その座の者は笑いだした。  玲は自分の結婚話から、皆の意識が逸《そ》れたのでほっとした。  笑い声がおさまったのを見計らって、史郎が列席者を促して腰を浮かせた。 「ほな、そろそろ墓参りに行くとしますか」  一同はまだ顔に笑みを浮かべながら、ぞろぞろと玄関のほうに向かった。玲は母と一緒に台所から姉の墓に供える菓子と花を取ってきて、靴を履いた。  門の外に出ると、住職がバイクに乗って挨拶をしているところだった。 「ほな、私はお先に失礼させてもらいます」 「どうも、ありがとうございました」  住職は頭を下げると、墨染めの衣を翻して去っていった。住職のバイクが道の角を曲がって消えてしまうと、史郎がいった。 「そんなら、わしらは歩いて行きますか」 「そうですな。龍生寺までやったら、十分もかからしまへんしな」  唐沢が、父と二人で並んで歩きだした。美佳も扇子を煽りながら夫と一緒に史郎に続き、玲と母はしんがりについた。  頭上では太陽が燃えていた。蝉の声が、うるさいほどに響いている。美佳が誰にともなく呟いた。 「こんな暑いなか、歩くのん、かなわへんなぁ」  母が気がかりそうにいった。 「なんやったら、車で行かはりますか」  美佳は慌てて首を横に振った。 「ええわ、ええわ。車、置いたるとこまで戻るくらいやったら、このままお寺まで行ったほうがましや」 「まったく文句の多い奴やさかい、許したってくださいや」  正憲が妻のことを清代に謝り、清代はまたそれを気にして、こんなに暑い中を歩かせてすんまへん、と申し訳ながっている。玲はそんなやりとりを聞きながら、墓に捧げる花を手の中でいじっていた。  斗根の集落は、みぃさんのせいかざわついていた。いつもはぴたりと閉ざされている家々の入口の格子戸が開け放たれている。孫と一緒に蛇綱の巡行を待っているらしい老婆。巡行の後の会食の準備か、一升瓶の箱を持って道を急ぐエプロン姿の主婦。女の子たちが騒ぎながら鏡作羽葉神社のほうに走っていく。  その向こうから、うおーっ、という声が湧き上がった。唐沢が神社の方角を眺めた。 「蛇綱が外に出てきはったんやな」  史郎が嬉しそうに頷いた。 「あの声を聞くと、今でも体がうずうずするわ。重たい蛇綱を担いで騒ぎ回っとった子供の時が、つい昨日のことみたいや」  唐沢は太った顎の肉を揺らせて笑った。 「せやなぁ。何ちゅうても蛇の頭は重かったわ。藁束をぎゅうぎゅうに詰めて作っとったさかいな。けど、頭持ちになったら一人前やよって、あれ担いだ後は、村の皆がわしのことを大人として扱うてくれるような気がして、鼻高々やってんみぃ」  玲の足が急に止まった。彼女は先を行く母に囁いた。 「私、ちょっと忘れ物したよって、取りに帰ってくるわ」 「あれ、そう?」  怪訝な顔をしている母の手に持っていたお供えの花を押しつけると、玲は踵《きびす》を返した。そのまま早足で、両親たちの一行から離れていった。  連子窓の続く家並の中を引き返しながら、彼女は、気がついてよかったと思った。  姉の首を吊った縄のことを。  両親が姉の墓の前で掌を合わせている間に、あの縄を焼くのがいちばんだ。今なら家には誰もいない。首吊り縄の存在は知られずにすむ。  駄菓子屋の前に来た時、道端で何かが、ぎらりと光った。玲は眩しさに一瞬、立ち止まった。  目をこすって、光ったもののほうに顔を向けた。岩濠霧菜の弟の義和と、その友達らしい男の子が駄菓子屋の道端にしゃがみこみ、丸い鏡に反射させた光を向かいの板塀にあてて遊んでいた。  玲は二人に近づいていった。義和の手に握られているものが、あの蛇の模様のついた鏡だとはすぐにわかった。玲は、義和の前に立った。 「その鏡、どうしたん」  義和はぎょっとして顔を上げた。玲は穏やかに話しかけた。 「それ、私が霧菜ちゃんに貸した鏡よ」  義和は唇を尖らせた。 「ちょっと使わせてもろただけや」  隣の男の子は、不安な表情で義和と玲を見比べている。玲は、義和から鏡を取り上げた。 「黙って取ってきたんやろ。そんなことしたらあかんよ」  義和はうつむいて地面を見つめた。玲は、もう一人の男の子にいった。 「それより、みぃさんがはじまったみたいやよ。蛇綱を見るほうが、ずっとおもしろいと思うけど」  男の子は、ぱっと顔を輝かせると、義和の膝を揺すった。 「行こうや、な」 「蛇綱ゆうたかて、自分で担げへんもん。おもしろうもない」  義和のふてくされた返事に、玲は微笑んだ。 「十三歳になったら、子供組に入って担げるわ。もうすぐやないの?」  義和は首を横に振った。 「あと二年もある」  向こうから、わあわあ、という歓声が聞こえてきた。蛇綱の巡行がはじまったのだ。男の子がうずうずしたように、義和の手を引っ張った。おもしろくもない、といっていた義和だったが、祭りの騒ぎを耳にすると、心が動かされたらしい。友達に頷くと、道端から腰を上げて、そのまま賑やかなほうに走っていった。  二人の男の子の姿が道の角に消えると、玲は鏡を胸に抱えて歩きだした。  あと二年もある、と呟いた義和のふてくされた顔が印象的だった。義和にとって二年間とは、永遠とも思えるほど長い時間にちがいない。子供時代とはそういうものだ。時間は無限に広がっている。それと同時に未来もまだ茫洋としている。  だが大人になると、時間も未来も不動のものとなる。一日は二十四時間だし、一年は三百六十五日。時間の流れは、秤《はかり》で計ったように一定だ。二年先が想像もつかないほど遠い先に思えた時代が懐かしい。今の私には何年先だろうと想像がつく。もちろん生活は変わっているかもしれない。しかし心の状態は同じだ。あてにならない自分と他人の心の狭間で、たゆたい続けるだけだ。  石灯籠の角を曲がって家の前に来た時、霧菜のいるはずの連子窓をちらりと見遣った。  あれほど鏡を貸してもらいたがっていた霧菜だった。鏡がなくなって、心配しているだろう。鏡を返しに行こうかと思ったが、先に縄を燃やすことにした。両親が帰るまでに、あの縄を灰にしておきたかった。  玲は店の格子戸を開けて、家に入った。暗い土間をつっきって裏の庭に出ると、蔵の戸を開けて靴を脱いだ。  きしっ。足を置くと、床が小さく鳴った。埃の積もった箱や梁の上に、天窓から入る白っぽい光が宿っている。時までも停止したような静かな蔵の中に、すうっと黒いものが過《よぎ》った。  一瞬、それが首を吊った人の影に見えた。玲は身体を硬直させ、すぐに天窓の外を鳥が横切ったのだと気がついた。  彼女は息を吐いて、姉の遺品の入った茶箱の上に鏡を置いた。そして茶箱の後ろに隠していた紙袋の中から縄を引きずり出すと、中二階の手すりの梁を見上げた。  姉はあそこに縄をかけて首を吊ったのだ。ひょっとして、この茶箱を踏み台にしたのかもしれない。細い手を伸ばして、準備してあった縄をつかんで、首にかけた。それから思いきって宙に飛んだのだ……。  蔵の中で姉の最後の時を想像すればするほど、その存在を生々しく感じた。埃っぽい空気の底から、姉の気配が漂ってくる。  天井からぶら下がった姉の体は、首を吊った時の衝撃で、振り子のように揺れていたことだろう。そしてこの縄が次第に姉の首に食いこんでいったのだ。  玲は両手を広げて、縄をぴんと張った。そして自分の首の前に持っていった。縄のちくちくする感触が喉にあたり、我に返った。  私は何をしようとしたのだろう。姉の真似か?  玲は慌てて縄を丸めて片手に持ち直した。  七回忌のせいかもしれない。法要の読経を聞いたり、お焼香をしたりしたために、いつもより強く姉のことを思い出しているのだろう。  玲は自分の頬を軽く叩くと、蔵の出口に歩きかけた。  ──玲。  囁き声を聞いた気がして、玲は振り返った。  誰もいない。  蔵の中には、雑然と箱や家具が積み重ねられているだけだ。もちろん、誰もいるはずはないではないか。でも、あれは姉の声に似ていた。  そう思いながら顔を巡らせた時、鏡を置いた茶箱の上に白いものが見えた。  玲の動きが止まった。  手だった。ほっそりした白い腕が、鏡の中からすうっと伸びてきて、滑らかな動きで手招きしていた。水中の藻のように五本の指を揺らせて、その手は玲を呼んでいた。軽やかに楽しげに、指が踊っている。銀鼠の鏡の底から彼女を誘っている。恐怖は感じなかった。玲は縄を手にしたまま、ゆっくりと鏡に近づいていった。  国道二十四号線は渋滞していた。田辺一成は、運転席に座って前に続く車の列を苛々《いらいら》と睨みつけていた。  昨夜は、巻物に突っ伏して眠ってしまった。不思議と朝になると、熱はひいていたが、巻物の訳は当然、完成していなかった。そのため午前中は、京都のアパートで後半部分の解読にかかりっきりだったのだ。  やっと終わらせて、すぐさま東高遠に電話をしたのだが、祭事の最中ということで取り次いでもらえなかった。直接、赴いたほうが早いと判断して車に乗ったのだが、今日が日曜日だということを忘れていた。  京都から奈良まで、車はびっしりと詰まっていた。奈良市を過ぎると少しはましになったが、西名阪自動車道との合流地点でまた渋滞してしまった。  日曜日だといっても、こっちは遊びに行くわけじゃないのだ。仕事用道路と、行楽用道路を分けてもらいたいものだ。一成は、クーラーのあまり効かない車の中で、腹立ち紛れに思った。  空いている反対車線を走る車までが憎らしい。アクション映画の主人公なら反対車線をがんがんぶっ飛ばすところだが、現実にそんなことをしでかしたら、十分もしないうちに警察に捕まるか、事故を起こすか、どっちかだ。こんなことなら、電車にすればよかった。電車なら、もうとっくに田原本《たわらもと》に着いている時間だ。  くそっ。早く向こうに着かないと、悪い予感がする。  一成は眉間に皺を寄せて、助手席に置いた大学ノートに目を遣《や》った。そこには巻物の後半部分の現代語訳が殴り書きされていた。苦労して解読しただけに、その内容はしっかりと頭の中に刻みつけられていた。  そもそも八咫鏡《やたのかがみ》は、国津神の中で最も力の強い|大物主 大 神《おおものぬしのおおみかみ》、つまり蛇神を退散させるために作られた神器である。故に背面には、花びらの形を描く蛇が陰刻されてある。蛇神を白銅鏡の中に彫りこめることは、とりもなおさず、蛇神を冥界に埋葬することを意味し、またそれだけの力を持つ鏡であった。  このような鏡を作るには、実は蛇神自身の力を利用しなくてはならない。その為に、崇神天皇の思し召しにより二枚目の八咫鏡が鋳造されることになった時、製造地は蛇神と関係の深い土地が選ばれた。  蛇神の力は地下から生まれ、水に乗って伝わっていく。鏡作羽葉神社の建つ場所は、実は古《いにしえ》より蛇神の力が水とともに地下より湧き出る地であった。鏡作氏はこの地の水を使うことによって、反蛇神の呪力を八咫鏡に注ぎこんだのである。  ところが不運なことに、鋳造にあたった鏡作氏の中に、蛇神の信奉者が紛れこんでいた。その者は鋳造に使われた白銅の鋳型を密かに研磨して鏡の体裁を整え、蛇鏡を作り出した。  その模様は八咫鏡とさかしま。蛇の向きも、おうとつも逆。八咫鏡では陰刻されていた蛇の紋様は、この鏡においては陽刻され、鏡の中から浮き上がっている。さらに鏡の持つ呪力まで反対である。八咫鏡が蛇神を冥界に追い遣る力があるのに比して、蛇鏡は、蛇神を冥界からこの世に引き出す力を持つことになった。  当初、蛇鏡の存在を知る者は、大和朝廷側には誰もいなかった。蛇神を信奉する鏡作氏の工人の手によって、蛇鏡は秘密裏に何処かに持ち去られた。その後、いかなる経過かは不明だが、蛇鏡は崇神天皇の叔母にあたる|倭迹迹日百襲姫 命《やまとととびももそひめのみこと》の手に渡った。姫は、鏡の中を通して現れた大物主大神と結婚したが、蛇神が三輪山に消えると、女陰に箸を突き立てて死亡した。  垂仁天皇の御代には、皇后|挟穂姫《さほひめ》が蛇鏡を手に入れた。皇后は、自分の色香が衰えたら、天皇の寵愛も終わるだろうと懸念して、兄と共に天皇を殺して天下を取る企てを立てた。しかし、皇后が殺害しようとした直前、垂仁天皇は自分の頸に蛇が絡みつく夢を見て目覚めた。怪しんだ天皇に問いつめられて、皇后は謀叛の計画を白状した後、兄と一緒に籠城して焼け死んだ。これもまた蛇鏡のもたらした災いであった。  皇后の死後、蛇鏡の存在を知った垂仁天皇は、鏡を打ち壊せとの命を下したが、それを試みる者には次々と災いが降りかかった。万策尽きて、最後に蛇鏡は、八咫鏡の安置してある伊勢神宮に奉納されることになった。八咫鏡の力と相殺しあって、蛇鏡も鎮まるだろうと考えたのである。  ところが雄略天皇の御代に、伊勢神宮の斎王《いつきのみこ》となった桍幡皇女《たくはたのひめみこ》が頸を吊って死ぬという悲劇が起こった。朝廷は、この一件の公表を曖昧にしたが、これまた蛇鏡のせいであった。  |天照 大神《あまてらすおおみかみ》によって冥界に追い遣られた蛇神は、常にこの世に戻る機会を窺《うかが》っている。蛇神を蘇らせる力を持つのは、女の心。時と死を超えた場所、冥界に惹かれる女の心。蛇鏡は、その女心を引き寄せる力がある。  蛇神は、蛇鏡を通して、冥界へと女を呼び寄せて妻とする。ひとり妻が増えるごとに、鏡の背面の蛇の鱗《うろこ》が一枚、赤く染まる。永遠を表す百の鱗がすべて赤く染まり、鏡の蛇が血の色に変わった時、この世に蛇神が蘇る。  そのことが明らかになると、蛇鏡は、伊勢神宮からもこっそりと引き取られた。蛇鏡の鋳造された当地に鏡作羽葉神社が建立され、御神体として祀られることとなった。そして蛇鏡が外に出ないよう、女の目に触れないよう、神社の奥深くに隠されたのである。  プップーッ。背後でクラクションの音がした。気がつくと、車の列が動きだしていた。田辺一成は車を前進させた。  玲の持っていた鏡が蛇鏡であることは、ほぼ間違いない。何かの理由で、蛇鏡は神社から持ち出されたのだ。  それにしても、あの鏡が、八咫鏡の複製を作った時の白銅の鋳型なら、へこんでいた鈕《ちゆう》の問題も解決する。古代鏡のほとんどは陽鋳なので、原型が陰刻だったとは、迂闊《うかつ》にも考えなかった。  だいたい、あの鏡の原型が三種の神器のひとつの八咫鏡だったということ自体、事実なら驚きだ。つまり八咫鏡の背面には、あの花びらの形の蛇が彫りこまれ、周囲にはやはり陰刻された葡萄唐草の模様が巡らされていることになる。そして蛇鏡とは反対に、鈕の部分だけが突起しているはずだ。  そんな蛇神封じの八咫鏡を携えて日本にやってきた、大和政権を築いた一族。彼らの来た国にもまた、蛇神がいたのではないか。蛇の姿は、あの鏡の葡萄唐草の生まれた古代アッシリアの楔形《くさびがた》文字の中にも刻みつけられているし、古代アッカド人の「祭司」にあたる文字の意味は「蛇使い」だった。アッシリアやアッカドの位置するメソポタミアは、世界最古の文明の生まれた場所といわれている。そこに蛇神崇拝が存在していた可能性は大きい。メソポタミアで文明が生まれた頃、日本は縄文時代であり、ここでもまた蛇神が信仰されていた。  大和政権を打ち立てた一族とは、世界に蔓延する蛇神と戦う民族だったのかもしれない。彼らの武器は、蛇の陰刻された鏡。それは古代アッシリアで作られた原型、もしくはその複製なのだろう。そして、彼らは蛇神を駆逐して、代わりに天照大神をもたらした。天照大神とは、太陽神だ。古代エジプトのラーやギリシャ神話のゼウスの息子アポロ、イエス・キリストもまた太陽を表す。太陽神とは、人間にとっては遥か頭上の神だ。遠い大空の彼方から、人間を見下ろしている尊大なる神。  一方、蛇神は大地の神。人間がその足で踏みしめている土壌を支える神だ。  元来、人類は蛇神を通して大地を見つめていた。しかし頭上に輝く太陽へと信仰の対象を変えた時から、意識が大地から離れていった。太陽とは、輝かしい理想であり、栄光を象徴する。太陽を崇拝するようになった人類は、進歩という大きな夢を追い求め、突っ走ってきた。そして得たものは何だったのか?  一成は目の前の渋滞を眺めて、皮肉な顔になった。高度文明の所産であるこの走る機械の中に今、俺は閉じこめられて、にっちもさっちもいかなくなっている。  彼はハンドルにかがみこむと、ため息をついた。熱しすぎたタービンのように想像の世界で回転していた脳が、現実を前にして動きを緩めた。時計を見ると、もう午後の三時を回っていた。みぃさんの祭りはもうとっくにはじまっている。今日の昼までの約束に間に合わなかった自分のことを、東高遠は怒っているにちがいない。だが、解読した内容を教えても、彼はやはり怒るだろう。巻物には、高遠の望むような蛇神の出現を食い止める方法は出てはいなかったのだから。  それに一成は、巻物に書かれている蛇神の再生を真剣に受け止めるほど、理性を失ってもいなかった。あくまでも蛇神は、人間の精神世界の中での概念だ。現実に出現するはずはない。  だが、気にかかることがある。  鱗のことだ。玲の持っていた鏡の蛇は、右目の一枚だけ赤く染まっていなかった。巻物によれば、鏡の蛇の鱗が赤く染まるのは、冥界に蛇神の妻が呼び寄せられた印。そして過去二回、みぃさんの日に永尾家の女性が首を吊って死んだ。残る一枚の鱗が赤く変わる時、また永尾家の女が一人死ぬ。  まさか、とは思うが、笑ってすますことはできなかった。玲に電話して、あの鏡は今日だけは遠ざけておくように忠告したいのに、一成は彼女の電話番号を知らなかった。  彼は拳でハンドルを叩くと、座席に背中を沈めた。大型トラックが、交差点で立ち往生している。大声で怒鳴りたいほどの焦燥を覚えた。  蛇神は、百人目の妻を求めている。そして、その妻は蛇鏡を持つ女、玲しかいない。  今日、玲が死ぬかもしれない。  そう思った途端、胸の肉がもぎ取られたように痛んだ。そのあまりの衝撃に、一成は我ながら驚いた。  俺は、彼女を愛しているのだろうか。  たった数日前に再会した女を?  ああ、そうとも。  心の中で、はっきりした声がした。最初は、彼女に婚約者がいるということで遠慮していた。しかし昨日、あんなことになってしまった。引き返すことはできない。二人は、すでに足を踏み出してしまったのだ。八年前にはじめるべきだった恋愛に。  玲に、ちゃんと告げたい。自分が彼女を愛していることを。  ……もし玲が無事だったら、のことだが。  思わず頭に浮かんだその言葉に、一成はぎくりとした。そして再び不安感が湧き上がってくるのを覚えた。  玲は明日、東京に戻るのだ。今日中にどうしても彼女に会わなくてはいけない。そうしないと、もう一生、会えない気すらした。  車はあいかわらず亀のような歩みで進んでいる。午後の太陽が乗用車の列に照りつける。ぎらつく金属の河から立ち昇る蜃気楼《しんきろう》が揺れている。  この調子では、時間が過ぎるだけだ。いっそ車を乗り棄てて、電車に乗り換えてやろうかと考えた時、前に止まっていた白のセダンが脇の農道に入るのが見えた。抜け道だろうか。ここの交差点を抜ければ、田原本町はすぐそこだ。  彼は、その車の後について左折した。セダンは田圃《たんぼ》の中に続く狭い道を進んでいく。やがて十字路に出ると、今度は右折して走り続けた。遠くにあいかわらず渋滞している国道が見える。一成は、やった、と声をあげた。この調子なら、うまく抜けられそうだ。そしたら斗根はすぐそこだ。まっさきに玲に会いに行くのだ。  やがて道は小さな集落に入った。突きあたりのT字路になったコンクリート塀の前に、凸面鏡が立っている。鏡には、左右に延びる狭い道路が歪んで映っていた。道はがらんとしていて、右に曲がった白のセダンが遠ざかっていくのが見えるだけだ。一成は軽くブレーキをかけて、前の車に続いて右折しかけた。  その時、凸面鏡に女の姿が現れた。鏡いっぱいに、両手を広げて立っている。まるで一成が右折しようとするのを待って、路傍から飛び出してきたようだ。白のブラウスに芥子《からし》色のスカート。長い髪がふわりと背後に広がっている。やけに白い顔、せりだした額。細い目を威嚇するように燃えたたせ、女の頭が、だめだ、と左右に振られた。  一成は慌ててブレーキを踏んで、ステアリングを左に回した。  キキキーッ。甲高い音が轟き、フロントガラスいっぱいにコンクリート塀が迫ってきた。  ぶつかる。  一成は悲鳴をあげて、運転席に頭を伏せた。  大きな衝撃が車を襲った。硝子《ガラス》の割れる音、車体のひしゃげる音が続く。硝子の破片が降りそそぎ、上半身に焼けるような痛みが走った。一成は歯を食いしばり、全身をつっぱった。座席の背が彼にぶつかってきた。そして、あたりに静寂が戻ってきた。  彼はゆっくりと顔を上げた。フロントガラスが粉々に砕けている。生温かいものが、頬を伝っている。血だろう、と思った。車の前部はコンクリート塀にぶつかってひしゃげている。身体を動かそうとしたが、座席とハンドルに挟まれて身動きがとれない。  首を捩《よじ》ると、右手に延びる道路が見えた。低い二階建ての家の続く通りのどこにも、車の前に飛び出してきた女はいなかった。  代わりに、道路に面した家々から人が出てくる。スローモーションビデオのように緩慢な動作で、叫び声をあげながらこっちに走り寄ってくる。  救急車。大丈夫か。ひどい血だ。  そんな言葉が切れぎれに聞こえた。しかし、人々の動作も言葉も、半透明の膜を通して見ているように、ぼんやりしている。目だけぐるりと回すと、バックミラーが見えた。首を垂れた向日葵《ひまわり》のように、黄色い支え棒がぐにゃりと曲がっていた。その先についた銀色の鏡の中には、車とコンクリート塀の瓦礫に埋もれたちっぽけな自分の姿が映っている。頭から血を流して、ぐったりと運転席に倒れた男。  鏡に映るその姿は、あまりにも非力だ。  一成の体から力が抜けていく。泣きたい気がしたが、その気力とてもうない。徐々に薄れていく意識と闘いながら、せめてもう一度、玲と会いたかった、と思った。     9  藁《わら》の蛇が暴れていた。連子窓に挟まれた通りいっぱいに、黄金色の胴体が跳ね回る。白のシャツとズボンを着た少年たちが蛇綱を抱えて、わっしょい、わっしょい、と元気なかけ声をあげる。 「ほら、がんばりやっ」 「綱が落ちたで、気ぃつけなあかんで」  少年たちを見守る沿道の肉親や親類が声援を送る。蛇綱を持った少年たちは、観客の誰かれとなく、綱で巻きこもうとする。笑いながら逃げる男や女。歓声をあげる少年たち。明るい初夏の太陽に、少年たちの背中は汗に濡れている。 「たるむなや」 「しっかりしろおっ」  蛇の頭を持った年長の少年たちが後ろの子に声をかける。藁の蛇は、喧騒の波をくぐり抜け、くねる体を震わせる。  岩濠霧菜は、蛇綱が近づいてくるのをじりじりしながら見守っていた。窓の連子を固くつかみすぎて、指先が白くなっている。棗《なつめ》形の黒い瞳は怒りに燃えていた。  霧菜の視線が注がれているのは、蛇綱ではなかった。その周囲ではしゃいでいる弟の義和だ。 「義和っ」  とうとう霧菜は声をはりあげた。しかし、祭りの騒ぎに阻まれて、義和は気がつかない。蛇綱に巻きこまれて路上に転がった男をはやしたてている。 「義和ーっ、義和ーっ」  何度か叫んでいると、やっと義和の横にいた遊び仲間の男の子が気がついた。義和はその子にいわれて、こっちを見た。霧菜が手招きすると、義和はつまらなそうな顔をしてやってきた。 「なんや、お姉ちゃん」  霧菜は、連子窓ごしに弟を睨みつけた。 「あんた、私の鏡を取ったやろ」  そのとたん、義和はばつが悪そうに首をすくめた。 「やっぱり、せやったんやな。お母ちゃんに聞いても知らんゆうし、あんたしかおらんと思うた。早よ、返してや」 「あれやったら、永尾のお姉さんに渡したで」 「なんやてぇ」  霧菜は悲鳴のような声をあげた。義和は、前を過ぎる蛇綱に視線を走らせて、早口でいった。 「お姉さんに見つかって、取り上げられたんや。僕、その後のことは知らん」 「知らんて、あんた。いつ、それ渡したんや?」 「いまさっきや。そんなに気になるんやったら、永尾のお姉さんにまた貸してもろうたらええやろ」  義和は連子窓から離れて、姉から逃げだした。 「義和、義和っ」  霧菜は叫んだが、弟は蛇綱の後を追いかけて走り去っていった。人々のざわめきと共に、蛇綱が遠ざかっていく。石灯籠の角を曲がって、藁の蛇の尻尾が消えると、弟も見物人も波が引いたように通りからいなくなった。  霧菜は、がくりと車椅子の背にもたれた。では、あの鏡はまた玲の手に戻ったのだ。あの阿呆な弟のおかげで。  向かいの永尾家はひっそりとしていた。蛇綱が通ったのに、家の誰も出てきはしなかったことを思い出して、霧菜は不安を覚えた。永尾史郎や清代がいたなら、絶対に蛇綱を見に表に出てくるはずだ。特に史郎は祭り好きで、何かの行事があると前日からそわそわしている男だった。  玲は、どこにおるんやろ。家におるんやろか。もし、あの鏡を持って、ひとりで家におるんやったら……あの女が向こうに呼ばれてしまう。  鏡を探し回っていたために、永尾家の様子を観察してなかったことが悔やまれた。  霧菜は下唇を噛んで、家の中を見回した。母は、鏡が消えたせいでかんしゃくを起こした霧菜にあきれて、買物に出てしまった。家には誰もいなかった。母に玲の様子を見に行ってくれと頼むこともできない。  せやけど、こうしている間にも、最後の機会が消えていく。ここから逃げ出す機会はもう二度ときやせん。  手首に巻いた赤い紐が目に入った。一生、綾取りをして車椅子に縛りつけられていたくない。  霧菜は車椅子のハンドリムを回すと、連子窓から離れて部屋を出た。畳の上に敷かれた板の上を通って、次の間を過ぎて玄関に来た。  玄関の上がり框《がまち》の向こうに二坪ほどの土間がある。土間の隅には、屋外用の車椅子があった。霧菜が外にめったに出ていかなくなって以来、無用の長物となり、壁際に置かれている。土間から上がり框までは、四十センチほどの段差がある。誰の助けもなしに、そこまで行って乗り移ることは不可能だった。  彼女は車椅子を方向転換させて、玄関横の茶の間に入った。茶の間の座卓は、冬のこたつを転用している。霧菜は両手でその天板を抱え上げた。がらがらっ。天板に置かれていた醤油や酢の小瓶が畳の上に転がり落ちた。それには構わず、天板を舟の棹《さお》のように畳に押しつけながら、なんとか玄関まで持っていくと、上がり框と土間の間にさし渡した。  そして車椅子を少し後ろに引くと、勢いをつけて天板に乗り上げた。きいいーっ。屋内用車椅子のソリッドタイヤが合成樹脂に擦れて不快な音をたてる。車椅子は天板を揺らせて滑り落ちると、そのまま土間を突っ切っていく。霧菜は慌ててブレーキをかけた。なんとか土間の土壁に激突する手前で車椅子は止まった。  霧菜は肩で息をしながら、車椅子を戸口へと回すと、格子戸を開いた。格子戸の敷居は、霧菜が外出する時のために板をさし渡してあったから、今度はたいした苦労もなく家から出られた。  外の通りには誰もいなかった。太陽の強い光が目を射る。灰色の瓦屋根がつややかに輝く。連子によって、縦に分割されてない世界がそこにあった。  眩しい陽射しを顔に受けながら、霧菜は車椅子のハンドリムを回して通りを横切っていく。灰色のアスファルトに、自分の影が映っていた。小さな頭の下に四角い車椅子がくっついている。霧菜はそのずんぐりした影を睨みつけた。  今日こそ私は自由になるんや。  彼女は心に誓うと、側溝に渡した板を越えて永尾家の門の中に車椅子で乗り上げた。  鏡の中に女がいた。  大きな瞳。ふっくらした唇。茶色がかった柔らかな髪。玲は、鏡を見つめていた。自分の顔の背後に、蔵の景色が映っている。黒光りのする中二階の手すり。染みの広がる漆喰《しつくい》壁に、埃のうっすらと積もった箪笥や古ぼけたミシン台。  右手で鏡を持って、じっと見つめていた玲は、おかしなことに気がついた。鏡面に映る中二階の手すりから、細長い影が垂れている。  目を凝らすと、縄だった。先を丸く括った首吊り用の縄。誰かが手を触れたように微かに左右に揺れている。  玲は、はっとして後ろを振り向いた。  手すりからは何も下がっていなかった。姉の使った縄は、玲の足許に落ちている。  どうしたのだろう。さっき見たと思った鏡から招いていた手といい、今の縄といい……。私の目はどうかしてしまったようだ。  開け放たれた蔵の扉の向こうに、明るい青空が見えた。入道雲が白く積み重なっている。祭りのざわめきが流れてくる。  私は何をしているのだろう。縄を焼くのではなかったか。  玲は、鏡を茶箱に置こうとした。  その時、再び鏡の面が目に入った。  そこに姉が映っていた。  広い額の下で思い詰めたように細められた目。何かいいた気な薄い唇。玲は、銀鼠の鏡面を通して、綾と向かい合っていた。  姉の左手が持ち上がり、ゆっくりと振られた。おいで、おいで、と指が揺れる。  どこ、行くの。お姉ちゃん。  玲は心の中で問うた。  ──ええとこ、連れてったる。  姉が答える。  ええとこて、どこやの。  綾の唇が半月形に曲げられた。  ──あんたが求めてるかたのおらはるところやよ。  私が求めてるかた?  ──せや。そのおかたやったら、絶対に変わらへん心で、あんたを愛してくれはる。  誰やの、それは?  姉の唇が横に裂け、陶然とした笑みが広がった。  ──蛇神様や。  吐息のような綾の声が頭に響いた。 「玲さん、いてはる?」  岩濠霧菜は、永尾家の玄関で声をはりあげた。すり硝子《ガラス》の入った格子戸の奥からは、何の返事もなかった。  玄関の戸を開けると、襖《ふすま》が取り払われ、広々とした畳の部屋が続いている。座布団が散らばり、微かに線香の匂いが漂っていた。さっきまで人がいた気配があった。  しかし、今は出かけている。玲も帰ってないのだろうか。だが、もし玲が鏡を持って家に戻ったら、まず蔵に行くはずだ。  蔵に行って、玲を待っていよう。  霧菜は車椅子を後退させると、方向を変えて玄関の横に続く庭に向かった。細長い築山《つきやま》のある南の庭を廊下に沿ってまっすぐに進み、家の角を左に曲がる。すると、その向こうは広い裏庭になっている。林立する庭木の奥に、白壁の蔵が立っていた。  霧菜は、木の根に車椅子の車輪がひっかからないようにゆっくりと庭に入っていった。こんもりとした小さな築山も、コンクリートの四角い池も、庭の隅の大きな楠《くすのき》も、以前と少しも変わっていない。霧菜は見覚えのある庭を前にして、吐き気を覚えた。  この庭を見るたびに、あのことを思い出す。永尾健太郎の遊びを。  いつもは表の通りで綾取りをしていた霧菜だが、たまに健太郎が「おじいちゃんの遊び」をしよう、といいだした。「一緒に遊んでくれたら、お菓子、あげるよってな」という言葉に釣られて霧菜が頷くと、健太郎は決まって蔵の横の松の木の下に行った。そこはちょうど庭木や庭石に阻まれて、家からは死角になっていた。  その柔らかな草の上に並んで座って、霧菜は一人で綾取り遊びをする。横では、健太郎の思い出話がはじまるのだ。 「多黄子はなぁ、ええ女やった。わしの家内は早いとこに死んでしもうとったよって、ほんまやったら史郎でのうて、わしと結婚してもおかしゅうはないのに、ちゅうて思うたもんや。多黄子もわしが嫌いやなかったはずや。時々、じいっと色っぽい目でわしを見つめよったさかいなぁ」  当時の霧菜には、多黄子が誰のことか、さっぱりわかりはしなかった。史郎の嫁は、あの餅のようにぷくぷくとした清代しかいないと思っていたから。それでも、多黄子という名前が出ると、老人の遊びがはじまるのはわかっていた。霧菜は、老人の遊びに対して少し身構えながら、一人で尻取り綾取りを続ける。 「多黄子はなぁ、心の中に暗い炎みたいなもんを抱えとった女やった。史郎に惚れとったくせして、その炎を史郎だけに燃やすことがでけへんかった。店番しながらも、多黄子は、客の男がくると、なんともいえん色気のある目つきで見とったわ。けど、史郎の阿呆はなんも気ぃつかへん。自分が他の女の尻を追いかけるんで一生懸命やったよってな」  健太郎は自分の骨ばった両手をじっと見つめる。まるで何かをつかむように、その手をゆっくりと動かす。 「ほんやさかい、多黄子に見つかってしもうたりするんや。女遊びのことがなぁ」  健太郎はにやりと笑った。そしてうっとりと宙を見つめた。 「それから、多黄子の箍《たが》がはずれたみたいやった。わしに、ええこと、させてくれるようになってんや……。史郎はそんなこと知らへん。わしも一言もゆうてない。史郎が女遊びをするたんびに、多黄子はわしのところにやってきて触らせてくれた……」  健太郎の手が、そっと霧菜のスカートの下に伸びる。下着の中に老人のごつごつした指が入ってきたのがわかる。下半身に冷たい指が滑りこみ、じわじわと動きはじめる。そして健太郎は喋《しやべ》り続ける。 「せやけど、あの鏡を見つけてからは、わしのところには来てくれへんようになった。鏡見ながら、自分で触ってたんや。熱いあそこをとろとろ触ってたんや」  健太郎は、霧菜の顔を見ていなかった。口をぽかんと開けて、どこか遠くのほうを笑いながら眺めている。彼の唇の端から透明な涎《よだれ》がつつっと垂れた。 「あの鏡が悪いんや。あの鏡のせいで、多黄子はおかしゅうなってもた。鏡、見ながら、自分のあそこを触るからや。わしでのうて、自分でやるからや」  霧菜は何をされているのか、よくわからなかった。くすぐり遊びのようにも思えた。恥ずかしいことだとも思うが、痒いところを掻いてもらっているようで、気持ちもよかった。やがて老人の指の動きが激しくなり、柔らかな皮膚をひっかくようになると、霧菜は微かな痛みを覚えて腰を引く。それでも健太郎の指は執拗に追ってくる。 「ほいで多黄子は首吊ってもうた。多黄子は死んでもうた。もう、こんなこともさせてくれへん。多黄子はもうわしにええこと、させてくれへん。多黄子はもう……」  彼の言葉は頭の上で壊れたレコードのように聞こえ続けていた。  蔵の横の松の木が見えた。その下で、今も霧菜の性器をこすり続ける健太郎の姿が見える気がした。霧菜は奥歯を噛みしめると、車椅子のハンドリムを乱暴に回して方向を変えた。小石が飛んで、コンクリートで固めた池に落ちた。 「おじいちゃんの遊び」が何を意味するかわかったのは、交通事故に遇《あ》ってからだ。リハビリセンターで知り合った三歳年上の男の子が、さも重大な秘密であるかのように、大人の男と女が行うことを教えてくれた。  ようやく霧菜は理解した。健太郎のしていたことは、そのいやらしい男女の営みの一部だったのだと。それを、ただの「おじいちゃんの遊び」だと信じて受け入れていた自分がおぞましかった。だが最も嫌悪したのは、大人になったら、誰でもそんなことをしているということだった。  男の子は霧菜の衝撃を楽しむように、意地悪な顔をしていったものだ。 「おまえんとこの親父もお袋も、そうやってんで。せやから、おまえが生まれたんや」  酔っぱらっては、母を殴っていた父。離婚してからは、子供に会いに来もしない父。何かというと、父のことを口汚く罵っていた母。その二人が、あんなことをしていたのだ。そう思うと、吐き気がした。  大人になんか、なりとうない。まして年寄りには絶対、ならへん。  霧菜は怒りをこめて唇を引き結んだ。  金木犀《きんもくせい》の繁みの向こうに、蔵が現れた。入口の戸が半開きになっている。  玲かもしれない。  霧菜は、蔵へと車椅子を急がせた。  縄がきしんだ音をたてて、ぎりぎり締まった。玲は、蔵の中二階に座りこんで、手すりに巻きつけた縄の強さを確かめた。手が痛くなるほど引っ張ったが、結び目は解けなかった。  これで大丈夫だ。縄はちゃんと私の体を繋ぎ止めておいてくれるだろう。  まるで自分とは別の人間が、冷静に自殺の準備をしている気がした。  彼女は縄の別の片方の先を丸めて環を作ると、その中に首を突っこんだ。少し環が大きすぎたので、もう一度ちょうど首が締まるくらいに結び直した。そして、中二階の手すりの前に立った。  法要のために、まだ新しい紺色のワンピースを着ていてよかった、と思った。ちゃんと薄化粧もしている。旅立ちにふさわしい恰好だ。  玲は最後に手で髪の乱れを整えると、床に置いた鏡を取り上げた。銀鼠色の中に自分の顔が映っている。鏡の縁を指で撫ぜると、ひっくり返した。背面の蛇が赤く輝いている。色のついていない右目が水の膜に覆われたように揺れていた。ここに飛びこんでおいで。右目が、そう語っている。  玲は心を鎮めて足許を見下ろした。  蔵の床に女の影が落ちている。やけにほっそりした影だ。背中まである長い髪が、さらさらと揺れていた。  玲の影ではなかった。  床に落ちた影の左手が動き、玲のほうに差し出された。  姉の手だ。子供の頃のように、私を、ええとこ、に連れていってくれるのだ。  玲の顔に微笑みが浮かんだ。彼女の両手が、床の影に向かって伸びた。  連れてってや、お姉ちゃん。蛇神様のところへ。それが、ええとこ、やったら、どこでもええ。確かなもんがある場所やったら、どこへでも行く。つかみきれない人の心の間を流れていくのは、もういやや。  天窓からの光が彼女の全身を柔らかく包む。幸福感がじわじわ湧き上がってきた。玲は鏡を胸に抱くと、手すりを乗り越えようとした。 「あかんーっ」  突然、下から声がした。  蔵の入口で、霧菜が叫んでいた。車椅子は戸口の石段の前で止まり、それ以上中に入ってこられないので、霧菜は精一杯体を前に乗り出して手を振っていた。 「あっちに行ったらあかんっ、やめてえっ」  霧菜は泣かんばかりに懇願する。  玲は、ただ、首を横に振った。  腕の中で、鏡がぎらりと瞬《またた》いた。  次の瞬間、玲は首に縄を巻きつけたまま、宙に飛んでいた。  ぎいっ、ぎいっ、ぎいっ。  蔵の手すりに結びつけられた縄が単調な音をたてていた。玲の体がその先にぶら下がり、ゆっくりと前後に揺れている。首が締まり、口から舌が飛び出ている。手足が断末魔の痙攣《けいれん》に震えていた。 「誰か、助けてーっ。誰かぁっ」  霧菜は絶叫した。喉が干上がりそうだった。彼女はもどかしさに全身を揺らせた。車椅子が倒れて、地面に叩きつけられた。 「玲さんが死ぬーっ。助けてーっ」  背後で、男の声がした。 「どうしたんだっ」  地面に両手をついて振り向くと、庭を横切って、茶色のズボンを穿いた大柄な男が走ってくる。不精髭を生やして、目を血走らせている。まるでゆうべ一睡もしていないようだ。霧菜は、それが先日、永尾家に滞在していた玲の婚約者なのに気がついた。確か玲は、広樹さん、と呼んでいた。  霧菜は地面に倒れたまま、蔵の中を指さした。 「玲さんが首を……」 「なんだって」  広樹は、蔵の中に飛びこんだ。  中から悲鳴があがった。霧菜がなんとか上半身を起こして見ると、広樹が下から玲の体を抱え上げたところだった。 「畜生、やっぱり昨日、戻ってくるんだった。どうして今朝までぐずぐずしてたんだろう。どうして……」  玲の首に巻きついた縄を解きながら、広樹はうわ言のように喋っている。 「あんなこと、もうどうでもいいんだ。玲、玲っ、死なないでくれ」  大柄な男の口から泣き声が洩れた。霧菜は両手を蔵の扉にかけて、ずりっと石段を這い上がった。やっと蔵の戸口に来た時、広樹がぐったりした玲を抱えて、外に飛び出てきた。霧菜は慌てて蔵の扉に身を寄せた。広樹は彼女には目もくれずに、庭を突っきり、家のほうに走っていく。店に続く土間に消えた時、ちょうど戻ってきたらしい史郎の声が響いた。 「あれ、広樹さん。どないしはったんですか」  清代の金切り声がそれに続いた。すぐに、救急車だ、いや、病院にこのまま運びこむんだという他の人々の声が聞こえてきた。  霧菜はその騒ぎに背を向けると、蔵の中に這いずりこんだ。  すりきれた木の床に広樹の靴跡が残っていた。正面の中二階の手すりから垂れ下がった縄がまだ揺れている。その下に、あの蛇の模様のついた鏡が転がっていた。  霧菜は近くの箱や箪笥の縁を手がかりに、下半身を引きずって、鏡のところまでたどり着いた。うつぶせになったまま、重い鏡を自分の前に引き寄せる。鏡面を覗きこむと、土で汚れた自分の顔が映っていた。  今さら鏡を手に入れても、もう遅い。  悔しくて、涙がこぼれそうだ。鼻を啜《すす》りあげた彼女の手が震え、鏡の角度が変わった。天窓から入る陽射しを正面に受けて、鏡面が銀色に光った。それに目を遣《や》った霧菜は、息を止めた。  銀鼠の輝きの中に、陽炎《かげろう》のような人影が映っていた。手を繋いで遠ざかっていく二人の女の後ろ姿だ。一人はほっそりした長い髪。もう一人は小柄な女。綾と玲だった。何か話しているのだろうか、時々、二人は顔を見合わせ、肩を震わせて笑っている。笑うたびに、髪や背中が艶めかしくくねる。満ち足りて、幸せそうに、姉妹は鈍い銀色の光に包まれた世界へと、漂いこんでいく。 「なんでやの……」  霧菜は呻いた。  玲さんは、幸せやったやないの。さっき助けに来た婚約者かておった。走ることも踊ることもできる。私が持ってへんもの、なんぼでも持っとった。あんたは、何も向こうの世界に行く必要はないやないの。  行かなあかんのは、私や。こんなの、不公平や。  霧菜は鏡を胸に抱くと、床に突っ伏して泣きだした。     10  女たちが笑っていた。  赤い唇を大きく開き、楽しげに黒髪を揺らせて笑いさざめいている。色鮮やかな長い裳裾《もすそ》を引きずった、古代の服装をしている女もいれば、中世の絵巻に出てくる遊女を思わせるしどけない着物姿の女、膝小僧の出た粗末な着物をまとった女。年代も服装もさまざまだが、美しい女たちが草地に集まって、何か話しながら声をあげる。周囲にたちこめる銀鼠色の霧が、彼女たちを幻影のように見せていた。  そこには時間の存在が感じられなかった。女たちは長い間、この柔らかな草地の上で笑っていたようでも、たった今、そこに集って話しはじめたようでもあった。  湿った草を踏みしだいて、玲は女たちの群れに近づいていった。  玲の前には綾が歩いている。彼女の手を取って、女たちの群れへと導いていく。  草の香りが漂っている。鈴の音に似た女たちの笑い声が響き渡る。この女たちは永遠にここに座り、愉しげに笑い続けるのだ。  玲は姉の冷たい手を握りしめて、泣きだしたいほどの穏やかな気持ちを覚えた。幸福とはこういうことではないのか。時の観念を忘れて、人の心のうつろいから自由になり、ただこうして笑うだけ……。  つと、綾が後ろを振り向いた。白い顔に、うっすらと笑みが浮かんでいた。黒髪が頬に絡みつき、細い目がきらりと光った。  ──ここが、ええとこ、や。玲。  姉の声が聞こえた。  鏡池の中央に、黒ずんだ血色の点が現れた。その色は、同心円状に広がる波に乗って、池全体に広がっていく。  東高遠は、放心した表情で池の水面を眺めていた。  とうとう、はじまった。鏡池が赤く染まっていく。これで百回目。ほんとうに蛇神が現れるというのか?  獣の吐息のように生温かな風が吹いてきて、高遠の頬を撫ぜた。彼は水面から視線を引き剥がすと、頭を巡らせた。  入道雲が、太陽を隠すほどに白い体をむくむくと広げていた。あたりが急に暗くなった気がする。雲の芯は灰色に陰り、空との境目が薄い銀色に光っている。風は強くなったり弱くなったりしながら、木々をざわざわと揺らせている。ひときわ大きく騒ぐ鎮守の森の榎に気がついて、高遠はいい知れぬ不安を覚えた。  ごろごろごろ。空の彼方で雷鳴が轟いた。 「わっせい、わっせい」  参道から、少年たちの声が流れてきた。振り向くと、蛇綱を担いだ白装束の子供たちがこっちにやってくる。それにぞろぞろと続く斗根《とね》の人々。巡行が終わったのだ。  蛇の頭が少し疲れたように少年たちの頭上で顎を震わせている。黄金色の藁の飛び出た胴体が、拝殿へとくねりながら近づいてくる。  高遠には、それがこれから蘇《よみがえ》ろうとしている蛇神に見えて、思わず足がすくんだ。  蛇綱を囲む行列の中から、祭りの世話役が飛び出して、鏡池の辺《ほとり》に立つ高遠の前に走ってきた。造園業を営んでいる宮田という男だ。 「神主さん。これから蛇綱を榎に掛けますよって、御祓《おはら》い、お願いしますわ」  この大変な時に、のんびり祭りの心配をしているこの男が憎たらしくなった。  どいつもこいつも何もわかっていない。  あれほど念を押して巻物のことを頼んでおいた田辺一成は、一向に音沙汰なしだし、斗根の者たちは、蛇神を担いで無邪気に騒いでいる。  むっつり顔の高遠に、宮田はおずおずといいつのった。 「すんまへん、神主さん。御祓い……」 「これが見えんのかっ」  高遠は、鏡池を指さして怒鳴った。赤い色はさっきより濃くなり、池全体に広がっている。しかし、宮田はぽかんとして、高遠と池を見比べた。 「へんな波が立ってますなぁ」  少しして彼は呑気に応えた。高遠は宮田の肩を揺すぶってやりたい衝動を覚えた。 「そんなことはどうでもええ。水が赤うなっとるやろが」 「へっ?」  宮田は奇妙な顔をして、もう一度池を振り向いた。 「そういや、なんや水が濁ってまんなぁ。どうしたんやろ。泥でも混ざりこんだんですやろか」 「泥やないっ、血の色やゆうんが、わからへんかっ」  高遠の剣幕に、宮田は首をすくめた。 「そんなん、水を入れ換えたらええだけやないですか。東さん」 「水を入れ換える?」  高遠は眉間に皺《しわ》を寄せた。宮田は首筋に手をあてて池を眺めた。 「この池は、ちゃんと石を築いて造ったもんやよって、排水くらいできるようになってんやないでっか。なんやったら、明日にでもわし、見たげまっせ」  高遠は驚いて池を見つめた。水を入れ換える。そんなことは考えてもみなかった。だが、宮田のいう通りだ。池の底に排水口があるかもしれない。  池の水を抜いてやれば、池はもう赤く染まりはしない。水自体、なくなるのだから。  高遠は烏帽子を脱ぐと、地面に置いた。そして草履のまま、ざぶんと池に飛びこんだ。水飛沫が周囲に散った。 「ありゃあ、神主さんっ。何しはる」  宮田の叫び声を無視して、高遠は池の中央に歩いていく。胸までしかない池だった。神服の袖に水が流れこんで腕を引っ張る。足許は藻でぬるぬるしている。 「神主さんっ、神主さんっ」  宮田の声に、蛇綱の周囲に集まっていた人々がこっちに走ってくる。  高遠は鏡池の中央に来ると、頭から水に潜った。濁った水を通して、暗い水底が見えた。黒々とした藻が揺れている。無数の人の頭が転がった冥《くら》い草原のようだ。彼は、逆立つ藻に指を絡ませ、池の底に体を繋ぎ止めて這い進む。ねっとりした血色の水が、身体にまとわりつく。悪夢の中を、恐ろしいものから逃げている気がした。動作が緩慢になり、全身が重たくなる。身体の芯まで達する悪寒と闘いながら、彼は藻の間に指を滑らせ、水底を探りはじめた。  田辺一成は霧の中を歩いていた。乳白色の世界をひとり、草を踏み分けて進んでいる。  さっきまで車の中にいたのに、俺はどうしたのだろう。ひょっとしたら死んだのかもしれない、とぼんやりと思った。  どこか遠くで草が風になびく、ざわざわという音が聞こえた。一成は立ち止まり、あたりを見回した。  霧に沈む茫漠とした草原の彼方に、大きな黒い影が見えた。小山ほどの影全体が、むくむくと蠢《うごめ》いている。音はその方角から流れてきていた。  彼は誘われるように、影のほうに歩いていった。近づくに従って、人の影が集まっていたのだとわかった。大勢の女たちが頭と衣を揺らせて、笑いさざめいている。草のなびく音と感じたのは、女たちの笑い声だった。  しかし、その声はどこか彼を落ち着かなくさせた。笑い声の底に、動物が息を吐くような、しゅうしゅうという音が混ざっている。  女たちのほうに呼ばれている気がするが、その一方で行きたくない、と思った。ためらいながら足を緩めた時、向こうを二人の女が歩いているのに気がついた。  一人は、長い髪に芥子《からし》色のスカートを穿いている。衝突事故を起こす直前、鏡の中に現れた女だった。そして、その女の手を握っているのは、玲だった。  ──玲ちゃん。  自分の喉から洩れた声があまりに不明瞭なことに、彼は驚いた。そのせいかどうか、玲は彼の呼びかけに気がつかない。目を輝かせて、笑いさざめく女たちのほうに歩いていく。女たちが近づいてくる玲に気がつくと、しゅうしゅうという音がさらに大きくなった。  その時、一成はその音が何に似ているのか気がついた。  蛇だった。蛇が息を吐く音だ。  あの女たちは、蛇神の妻なのだ。  そう閃いたとたん、一成は、玲のほうに走りだした。  ──行っちゃだめだっ。玲ちゃん、そっちに行っちゃいけないっ。  心の中に、八年前、喫茶店の片隅で、笑いころげていた玲の顔が見えた。二人で川の辺を歩いていた時の玲の横顔が見えた。そして昨日、抱き合った時に息を切らせていた情欲に燃えた玲の大きな瞳が見えた。  ──俺だよっ。こっちに帰ってくるんだっ。  一成は激しく手を振った。  しかし玲には聞こえない。もう一人の女に手を引かれて、ふらふらと歩いていく。一成は玲に追いつくと、女の手を払おうとした。女の手は煙のように消え、彼は玲の手を握りしめた。確かな掌の感触が伝わった。  ──引き返すんだっ。  彼の声が聞こえたのかどうか、玲の足が止まった。彼女の顔がゆっくりとこちらに捩《ね》じられようとした時、不意に濃い霧が二人の間に割りいってきて、彼女の姿を覆った。同時に、玲の手の感触がふっとかき消えた。  一成はひとり、霧の中に立っていた。  ──玲ちゃんっ。  彼は、彼女の名を呼んで走りだした。だが、走っても走っても、彼女はいない。霧がますます深くなる。あたりは銀鼠一色だ。足許の草の感触が消えた。足は柔らかな煙を踏んでいるようだ。それでも一成は走った。  行く手で何か光った。眩しい白い光が目を射た。一成は、その光に向かって両手を伸ばした。  温かな手が、彼の両手をつかんだ。次の瞬間、汗をびっしりと浮かべた青年の顔が視界に飛びこんできた。 「もう大丈夫ですよ」  一成は、車の運転席から引きずり出されたところだった。自分を取り巻く見物人の顔が見えた。救急車のサイレンの音が聞こえてくる。彼は血だらけで、ひしゃげた車の側に横たわっていた。頭上では、午後の太陽がぎらぎらと輝いている。  戻ってきてしまったのだ。ひとりで……。 「玲ちゃん」  一成は呻いた。  誰かが自分を呼んだ気がして、玲は立ち止まった。  心が後ろに引かれている。  何だろう。この気持ちは。  銀鼠色の霧の中で、玲はあたりを見回した。綾がじれたように、手を引いた。  その時、玲は思い出した。あれは、ついさっきのことではなかったか。誰かの温かな掌が、自分の手を握ったのだ。玲は、姉の手を放すと、自分の掌を眺めた。  がっちりした手だった。誰か男の手。自分のよく知っている男の手。  突然、沸き立つほどの胸の高鳴りを感じた。せつなく強く、迸《ほとばし》る想い。なぜかはわからない、涙が流れた。  すぐ先では、女たちが赤い唇を大きく開いて、笑い声をあげている。黒髪を揺らせ、喉を震わせ、ただ愉しげに草の上に座ったり、横になったりしていた。それぞれの手や脚が互いに絡みつき、女たちは全体でひとつに溶けあって見える。  永遠の時を過ごす、笑う女たち。  なんと幸せそうなことか。嫉妬や恨みや、愛に伴う、さまざまな感情から解放された顔だった。  だがそこには、今さっき玲の胸に湧き上がった生き生きした感情はなかった。女たちの群れから滲み出ているのは、安らぎだけ。死の平穏に繋がる安らぎだ。それが永遠に続いたとして、何だというのか。  心臓が、どくん、と音をたてた。生きていたい、と体がいっていた。  綾が玲の肩を揺すぶった。  ──玲、引き返したらあかん。ここで、あんたは幸せになれるんや。  玲は、再び女たちを見つめた。何をあれほど楽しそうに話しているのだろう。何がそれほど楽しいのだろう。そこに座って、ただ何もせずにいることが果たして幸福だろうか。  耳許で、綾の声が聞こえる。  ──私らは、蛇神様の妻。私らは蛇神様と一緒に蘇るのを、ここでずっと待ってきた。それが、もうすぐ叶う。今に蛇神様がこの世に蘇らはる。  綾の顔に自信の輝きが広がった。  ──そうなったら、私ら、蛇神様の子を産むんや。子らは世界に広がっていく。この世はまた蛇神様の時代になるんや。  女たちの体の輪郭が徐々に曖昧になってきた。黒髪が隣の女の肩に流れる。手が、腰が、隣の女の脚や背中に溶けていく。女たちの体がひとつになっていく。  そしてそこに、草の上に横たわる巨大な蛇が現れた。女たちの白い顔は、蛇の鱗《うろこ》と化した。その菱形の鱗の一枚、一枚に開いた口がついている。その唇がしゅうしゅうと音をたてて笑いながら外にめくれていき、やがて鱗は、濡れた赤一色となった。  赤い大蛇はぬめぬめと光る胴体をくねらせて、草の上でとぐろを巻いていた。  玲は、悲鳴をあげそうになった。  蛇のとぐろが崩れて、その中から頭部がくいっと持ち上がった。  丸い大きな蛇の両目が、何かを探すように光っている。だが、そのふたつの目は他の部分の鱗とは違って、赤くはない。穿《うが》った穴のように銀鼠色に沈んでいる。  蛇の頭の動きが、ぴたりと止まった。蛇はまっすぐに彼女を向いている。その目が見えるのかどうかはわからなかったが、口から二股に分かれた真紅の舌が出てきて、素早く巻き上がった。  そして蛇は、草上に流れる赤い河となって動きだした。その河の流れの行く先は、玲の許だ。顎を草の上に滑らせて、ずりり、ずりりと近づいてくる。  逃げようとする玲の腕を、綾がつかんだ。ざらざらした冷たい手だった。綾は生臭い息を吐きながら、玲の肉に爪を食いこませて囁いた。  ──逃げたらあかん。あんたも蛇神様の妻になるんや。  妻になるとは、鱗になるということ。その体の一部になることか。蛇神と共に蘇るとは、そういうことだったのだ。  玲は青ざめて、首を横に振った。  大蛇は、綾の背後で頭を低くして止まった。綾は玲に顔を近づけると、優しくいい聞かせた。  ──わからへんのか、玲。あんたは蛇神様になれるんや。それがあんたの欲しがっていたものやろ。蛇神様の心は変わらへん。いつまでも同じや。あんたは永遠に続くものとひとつになれる。  たしかに私は確かなものを求めていた。だけど、それはこんなものではなかった。人の心の中の確かなものだ。蛇神を求めていたわけではない。  ──いやや。  玲は呟いた。  綾の顔に苛立《いらだ》ちが過《よぎ》った。  ──わからへんか。あんたの求めるもんは、人の心では無理や。蛇神様だけが与えてくれはる。  玲は首を横にふって、後ずさった。  綾は玲の両腕に手をかけて、痛いほど握りしめた。  ──私が、何のためにあんたをこっちに引き寄せたと思う? あんたのことを想うてのことやないの。せやのに、ちっとも気ぃつかへん。あんたは昔からそうやった。自分がどれだけ愛されてるか、ちっとも気ぃつかへんで、わがままばっかりいいよる。  綾の頬が紅潮していた。瞳を燃えたたせて、姉は玲に激しい調子でいった。  ──あんたは愛されることに慣れてしもうてんや。私があんたのこと、どんなに羨ましい思うたか、わかる? あんたは皆にかわいがられた。お父さんもお母さんも、親戚の皆も近所の人らも。皆、あんたのことを愛した。あんたは人に好かれる子や。私と違うてな。  不意に綾の顔に陰がさした。玲の腕を握っていた姉の手から、力が抜けた。  ──私には、愛されているゆう気持ちがようわからんかった。愛されてへんと、人の気持ちも誤って受け取ってしまう。  高志のことをいっているのだろうか。  皆に愛されることを切望しながら、姉は周囲に心を開くことはできなかった。そして、やっと心を開いた相手は、姉の気持ちを踏みにじっただけだった。  ──お姉ちゃん。  玲は姉の顔を見つめた。  ──私にとったら、お姉ちゃん、ものすごう大事な存在やったんで。けど、そのことをちゃんと示す前に、お姉ちゃん、死んでしもうたんやないの。もっと生きといてくれたら、その機会もあったのに、さっさと死んでしまうから……。お父さんもお母さんも、私と同じ気持ちや。お姉ちゃん、早よ死んでしまいすぎたんや。  綾は不思議そうな顔をした。眉がひそめられ、薄い唇が震えた。  ──なんで、そんなこと今になってゆうんや。なんでもっと前に、そうゆうてくれへんかったん?  ──けど、お姉ちゃん、私らの手助け、何もいらへんみたいな顔しとったやないの。何も欲しがってへん顔しとったやないの。せやから口には出せへんかった。  ──ただの言い訳やっ。  綾が鋭い声をあげた。額が青ざめている。怒っているのだ、と玲は思った。  綾は、玲を見据えた。  ──お父さんもお母さんも、私のこと好きやった。そうゆうてもええかもしれへん。けど、私みたいな子は苦手やったんや。せやろ。それがほんまのことや。あんたかて、自分の心に嘘ついたらあかん。  玲は首を強く横に振った。  ──私、お姉ちゃんのこと、ほんまに好きやってん。せやから、子供の時、いっつもくっついて歩いたんやないの。  綾は唇の端を歪めた。  ──違うわ、玲。あんたはな、私から離れたら道に迷うのんがわかっとったさかい、しがみついとっただけや。好きやからやない。あんた自身のために私の手ぇ、よう放さへんかったんや。  玲はどきりとした。  私は、ほんとうに姉が好きだったのだろうか。疑問が矢となって心臓を貫いた。  その時、姉の後ろに大きな影が湧き上がった。蛇だった。いつの間にか巨大な頭部を滑らせて、綾の足許に這ってきていたのだ。  と、綾の体がゆらりと揺れて、そのまま煙のように形を崩し、蛇の右眼の中に引き寄せられた。  ──お姉ちゃんっ。  玲は慌てて姉を両手で引っ張った。だが、綾の体はずるずると蛇の中に消えていく。腰から胸、と銀鼠色の眼の中に溶けていく。玲は必死で姉を助け出そうとした。だが、綾は静かな微笑みを浮かべていった。  ──手ぇ、放しや。玲。  玲は自分の手許を見た。姉の華奢《きやしや》な細い手が、玲の丸味を帯びた両手に包まれている。  小さい頃から、この手に引かれてきた。この手にしがみついてきた。  私は、姉の静けさが、静けさの中の強さが羨ましかったのだ。  綾の声が響いた。  ──手ぇ、放すんや。  玲は姉の顔を見上げた。何もかもわかっている、というように、綾の目が細められた。玲の手が姉の手から滑り落ちた。  綾は微笑みながら、蛇の右の眼に吸いこまれていく。蛇の右眼の部分に、綾の顔が嵌《は》めこまれた。綾の唇が笑いながら花開き、蛇の眼が赤く染まっていく。やがて姉の顔のあった場所に、真紅の蛇の瞳が現れた。  赤い虹彩の周囲を銀色の環が縁どっている。つるりと光る丸い瞳が動いて、玲を捉えた。その眼に見つめられると、力が抜けていくのがわかった。玲は、しばらく巨大な蛇と向き合っていた。  恐怖は感じなかった。ただ草の上につっ立って、頭の隅で、あの鏡の中の蛇の浮き彫りでは赤く染まっていないのは確か右眼だった、とぼんやり考えていた。しかし、ここでは左の眼。ここは鏡の中なのだ。だから逆さまなのだ。  足許で、ざあああっという音が湧き立った。見ると、蛇の細長い舌が草をかき分けて、伸びてきている。先が二股に分かれた赤い舌が玲の脚に絡みついた。玲は草の上に仰向けに倒れて、蛇のほうに引きずられていく。しかし、玲には抗《あらが》う力もでない。  行く手では蛇が鎌首をもたげて、玲を待ち構えている。泥の臭いがあたりにたちこめていた。頭上で、瞳の入っていない蛇の左眼が鈍い銀鼠色に輝く。ふと、その眼の中央に小さな波が立っているのに気がついた。波は同心円状に広がっていき、眼の縁まで達すると、再び中央にぽつんと波が起きる。  数日前、見た光景を思い出した。  鏡池だ。あの池の表面も、こんな波が立っていた。鏡池は、蛇の鱗と繋がりがあるのかもしれない。朦朧《もうろう》とした意識の中でそんなことを考えているうちに、蛇の顔が近づいてきた。瞼《まぶた》のない眼で冷酷に玲を見つめている。  不意に、止まっていた思考が動きだした。私は、最後の鱗、蛇の左眼になろうとしている。この蛇の一部になってしまうのだ。  いやだ。私が求めたのは、そんなことではない。  玲は両手で近くの草を握りしめた。ぷちぷちぷちっ。蛇の強い力に引きずられて、草はあっけなくちぎれていく。玲は恐怖に駆られて、蛇を仰いだ。  上下に割れた鋭い歯の奥に、深い闇が広がっていた。その暗黒の底から、生臭い空気が湧き上がってくる。  玲の全身に震えが走った。彼女は、地面に爪を立てて絶叫した。  ──助けてえっ。  東高遠の手が、丸く突き出した石に触れた。彼は、水苔でぬるぬるする石を揺すった。微かに石が動くのを感じた。  高遠は両手で石をつかむと、力をこめて引っ張った。石は水圧に押されて、びくともしない。息が苦しくなってきた。だが、一度、水面に顔を出したら、再びこの石を見つけるのは難しくなる。彼は最後の力を振り絞って、両足で水底を踏みしめた。  がくんっ。体が後ろにのけ反った。高遠は両手に石を抱えたまま、水中でひっくり返った。石が抜けたのだ。水が強い流れとなって、足許に吸いこまれていく。慌てて、膝を伸ばして立ち上がった。  ごおおおおっ。  頭を水面に出したとたん、大きな声が耳を打った。赤味を帯びた水が彼の周囲で渦を巻いている。鏡池の水が激しい勢いで地中の排水口に流れ出していた。  みるみるうちに減っていく池の水を眺めながら、高遠は腰が抜けるほどの安堵感を味わっていた。  わしは食い止めたのだ。水がないからには、池の色が変化することはあり得ない。鏡池が赤くなる、百回目の機会はもうないのだ。これからは、この池に決して水を入れないようにすればいい。そうすれば蛇神も永遠に出てこられはしない。  こんな簡単なことで、蛇神の蘇生を防げたのだ。なぜ今まで気がつかなかったのだろう。戦々兢々と鏡池の水面を窺《うかが》ってきた年月が馬鹿らしく思えた。 「神主さんっ、大丈夫でっか」  池の縁から宮田の声がした。見ると、斗根の人々が心配気な顔で鏡池を取り巻いている。その中には、祭りに参加した少年たちも混じっていた。皆、高遠の突飛な行動に驚いて、集まってきたのだろう。境内の砂利の上に、蛇綱が放り出されていた。  高遠は水面に浮かんでいた草履を拾い上げると、池から這い上がった。神服の袖や袴の裾から水が流れ落ちる。彼はぶるっと頭を振ると、近くに転がっていた烏帽子を濡れた頭に載せた。そして周囲を見回すと、陽気な声でいった。 「何、ぼやぼやしてますんや。まだみぃさんは終わってはらへん。陽の落ちる前に、蛇綱を榎に掛けなあきまへんで」  池の周りの人々は、あっけにとられて彼を眺めた。  高遠は頭を上げて、鎮守の森の入口へと歩きだした。ぐしゃっ、ぐしゃっ、ぐしゃっ。玉砂利を踏む濡れた草履の音が、朗らかに響き渡った。 「玲ちゃん。玲ちゃん」  自分を呼ぶ声に、玲はうっすらと目を開いた。  そこに広樹の顔があった。不精髭を生やして、眉間に皺が寄っている。この人、こんなに老けた顔をしていたのだろうか。ぼんやりした頭をはっきりさせようと瞬《またた》きすると、父の大きな声が聞こえた。 「気ぃついたかっ、玲っ」  広樹の横に父の顔が突き出された。大きな口を歪めて、今にも泣きそうにしている。後ろで、ハンカチを顔にあてている母の姿が見えた。  玲はわずかに顎を上げて、周囲に視線を巡らせた。蛍光灯の青白い光が眩しい。枕許に立つ白衣の看護婦。ベッドの横に置かれた医療機器。自分が病院にいることがわかった。しかし、なぜ病院に担ぎこまれたのか、思い出すまでに少し時間がかかった。首を吊ったことが、遥か昔の出来事に思えた。  私はどれほど長く昏睡していたのだろう。いや、どれほど長くあそこにいたのか。あそこ……蛇神のいる草原に。  最後に覚えているのは、すべての光景が水に溶けるように崩れていったことだ。玲は溶解したその景色の中でもがいていた。そして、両手両足を必死で動かしているうちに、気を失ったのだ。  私は生き返ったのか。  玲は体をベッドに沈ませた。首を締めた喉がひりひり痛む。全身がだるくて重い。だが、その重みこそ生きていることの証《あかし》だった。  広樹がいとおしげに手を撫ぜてくれている。父が肩を震わせている。母の啜《すす》り泣く声を聞きながら、玲は再び目を閉じた。  今は何も考えたくなかった。広樹がなぜここにいるのかすら……。  滑らかな鏡面がぎらりと光った。  埃だらけの床に這いつくばって、鏡を見つめていた霧菜は息を止めた。鏡の中から、何かが自分に合図したように思ったのだ。  彼女は鏡をひっくり返した。花びら形の赤い蛇の模様がある。その右眼が、銀鼠色のままなのに気がついた。  霧菜の棗《なつめ》形の目が驚きで大きくなった。  まだ間に合うかもしれない。あちらに行けるかもしれない。  霧菜は再び鏡の表面をひっくり返した。銀鼠の鏡の奥で、何かが蠢いていた。手だった。白い手が手招きしている。ほっそりした指がゆっくりと揺れている。  霧菜の赤い唇が割れて、笑みが浮かんだ。  頭上に、玲が首を吊った縄が垂れている。広樹が首をかける環をほどいていたので、そのぶん、長くなっている。立てば手が届くだろう。あたりを見回すと、すぐ横に中二階に続く梯子があった。霧菜はその下に這っていくと、両手に力をかけて、梯子をつかんだ。少し体が持ち上がる。さらにもう一段先の梯子に手を伸ばす。腕の筋肉が震える。汗が額に滲む。さらにもう一段、這い上がる。萎えた足の裏を床に押しつける。体がゆらりと揺らいだのを、必死で梯子に手をかけて支えると、背を伸ばして縄を取った。中二階の手すりにくくりつけられた結び目ごと梯子のほうに縄を手繰り寄せて、環を結んだ。小さな環しかできなかったが、なんとか頭をくぐらせることができた。  霧菜は深く息を吸いこんだ。  そのまま梯子から手を放そうとして、彼女は自分の脚で床に立っているのに気がついた。家に閉じこもるようになって、そんなことを試みたことすらなかった。いつも座っているか、横になっているかしかなかった。霧菜の生活において、立つという行為は長い間、存在しなかったのだ。  しかし、今、彼女は立っていた。誰の助けも借りずに、ひとりで立っていた。  霧菜は、それを見下ろして思った。  もし私がその気になったら、脚が動かんでも、いろんなことができるかもしれへん。私は、自分で自分を車椅子に縛りつけていたんやないやろか。もし私が外を見る気になったら、連子窓の向こうに出ていけるんやないやろか……。  彼女は視線を宙にさまよわせた。天窓を通して、夕方近くなって少し赤らんできた空が見える。雀の群れが飛んでいく。霧菜は軽やかに羽ばたく鳥たちを眺めて、唾を呑みこんだ。喉がごくんと鳴った。  生きていてもいいんやないか。  そう思った時、足許から鋭い光が放たれ、目を射た。うつむくと、床の上に置いた鏡だった。銀鼠色の反射の中で、手が招いている。さっきまで白かった手は、いつか血の色に染まっていた。揺れる赤い手が、鎌首をもたげてくねくねと動く蛇に変わった。赤く燃える左眼と、瞳のない右眼。蛇は、不揃いな両眼で、霧菜を見つめていた。  ──私の妻になれ。  霧菜の頭の中で声が響いた。ぎらぎら輝く鏡から、楽しげな女たちの笑い声が聞こえてきた。  私は求められている。  誇らしさと歓びが湧き上がってきた。  彼女は微笑みながら両手で梯子を突き放した。支えを失った彼女の体が墜ちていった。  鏡の中へ。蛇神の許へと。 「とかしこみかしこみももうす」  東高遠は、祝詞《のりと》を書いた紙を折りたたんだ。そして榊《さかき》と一緒に捧げ持つと、腰を直角に折り曲げて頭を二度深々と下げ、柏手を二度打った。最後に一拝して顔を上げた。  頭上で枝を広げた榎の大木。その根本には蛇綱が横たわり、果物や菓子を盛った木の器が、お神酒《みき》と一緒に置かれている。高遠は、榎の前から退くと、神妙な面持ちで儀式を見守る少年たちに告げた。 「ほんなら蛇綱を榎に掛けてください」  少年たちは蛇綱に近づくと、胴体部分を持って榎の幹に巻きつけはじめた。  榎の葉の間から洩れてくる光は、もう弱くなっていた。空はほの赤い夕焼けに染まりつつある。榎の下に密生する姫蒲《ひめがま》が風に揺れている。斗根の人々は湿地の周囲に立ち、放心した顔で蛇綱が枝に掛けられていくのを眺めている。祭りの終わり特有の寂しげな空気が漂っていた。  高遠は榊を手にしたまま、満足の表情を浮かべていた。無事、鏡作羽葉神社の神官の役目を果たしたのだ。みぃさんの祭りを執り行ったことだけではない。蛇神の蘇生をくい止めたのだ。体にへばりつく濡れた衣類の不快感も忘れるほど、気持ちがよかった。 「終わったでぇ」 「ほな、頭を落とせっ」  世話役が少年たちに指示した。最年長の少年二人が力を合わせて、巨大な蛇の頭部を空中高く放り投げた。  黄金色の蛇が長い胴体をくねらせて空に飛ぶ。雲の切れ間から射してきた夕陽が、蛇体を包んだ。その瞬間、蛇が血の色を放った。てらてらと輝く鱗。炎の如く燃える二つの眼。かっと開かれた口には、内側に向いて尖った歯がびっしりと生えている。榎の枝に絡みついた胴体がするすると離れて、巨大な蛇は己が口で尻尾を噛み、宙で花びら形の環を描いた。  高遠には、蛇が笑うのが見えた。全身の鱗を震わせて笑っている。耳を澄ますと、大勢の女たちの笑い声にも聞こえた。声はあたりの空気に滲みわたり、夕焼けに染まる森の中に消えていく。  びしゃん。  藁の蛇綱の頭部が、泥の中に落ちた。  宙に浮かんでいた赤い蛇は、瞬時にして夕暮れ時の空に溶けた。  高遠は、まじまじと足許を見つめた。姫蒲を押し潰して、藁束の蛇の頭が転がっている。下部は泥で黒く汚れていた。  斗根の人々が歓声をあげている。少年たちが、蛇の頭部を高く投げ上げたことを口々に褒めている。しかし高遠には、一緒になって騒ぐ気持ちにはなれなかった。彼にはわかったのだ。先刻の赤い蛇の意味するものが。  蛇神が蘇ったのだ。  自分はとんでもない思い違いをしていた。鏡池が百回、赤く染まることは、きっと何かの物事の結果なのだ。その原因がどこか他のところにあるのなら、いくら池の水を抜いてもたいした役には立ちはしない。そして今日、すでに百回目の何かが起きてしまったのだ。だから、蛇神は蘇生した。  彼は脅えた目で、周囲を眺めた。  森の木々が夕方の風に揺れていた。遠くで蛙の声が聞こえる。空は茜色《あかねいろ》に染まっていた。いつもの夏の夕暮れ時だった。いったい、蛇神はどこに蘇ったのか。この平穏な光景のどこに、あの神はひそんでいるのか。  宮田の声が響いた。 「ほな、皆さん。これからご馳走だっせ」  少年たちが喜びの声をあげた。人々はぞろぞろと森の出口へと歩きだした。 「神主さんも、早よ服を着替えて来てください」  宮田の声に、高遠は上の空で頷いた。だが彼は、その場から動かなかった。  人々のざわめきが遠ざかっていく。森に再び静寂が訪れた。高遠は、また蛇綱を見つめた。重たげな頭部を泥にのめりこませて、蛇はぶざまに湿地に沈んでいる。藁の胴体は榎に絡みつき、決して動きはしない。  遠くで烏の声がした。森の木々が優しく揺れている。茜色の柔らかな光が、森の緑に浸透している。榎の背後にも、姫蒲の奥にも、巨大な蛇の姿はない。怪しげなものの気配すらない。  高遠は小さく息を吐いた。  何事も起きないではないか。いつもと同じだ。太陽は沈み、そしてまた明日が来る。  これで蛇神が蘇ったというのか。  高遠の唇が引きつれた。  わしは何を畏れていたのだろう。蛇神が蘇っても、世界が崩壊するわけではない。昨日とちっとも変わりはしない。馬鹿げたことだ。すべては先祖の誰かのでっち上げた、たわ言に過ぎなかったのだ。  高遠の喉の奥から、くっくっ、という声が洩れた。その声は次第に大きくなり、やがて彼は首を反らせて、腹の底から笑いだした。その声は、力なく横たわる蛇綱を越え、姫蒲の群生の間を這い、森へと流れ出していく。静かな鎮守の森に、高遠の哄笑だけがいつまでも響き渡っていた。     11  店の格子戸を開けて外に出ると、強い陽光に目が眩んだ。  玲は額に手をかざして、天を見上げた。紺碧の空、白い雲。輝く太陽。生命力の漲《みなぎ》る夏空にたじろぐ。彼女は無意識に額から頬、そして首へと手を滑らせた。湿布の巻かれた首筋が、指で触ると少し痛んだ。 「おお、ええ天気やな」  背後で父の声がした。振り向くと、父が店から出てきたところだった。下駄をつっかけて、きょろきょろして聞いた。 「あれ、広樹さんは?」  玲が門のほうを指さすと、ちょうど彼の大柄な体が道に現れた。後ろに清代がいそいそとつき従っている。  広樹は肩から下げたナップザックを揺らせて玲と史郎に近づいてくると、頭を下げた。 「どうもお世話になりました」 「そんな、めっそうもない。こっちこそ、えろうお世話になって。広樹さんには何とお礼を申しあげたらええか……」 「いや、そんなことは、もういわないでください」  広樹は気がかりそうに、玲の顔を見遣《みや》った。広樹が自分を危ういところで助けてくれたことが話題になっているのだとわかっていたが、玲は何も聞こえていないふりをして、道角にぽつんと立つ灰色の石灯籠を眺めていた。  あれから三日が過ぎていた。幸い玲は一時的な仮死状態に陥っていただけで、脳の損傷もなく、昨日退院した。玲につきっきりだった広樹も安心して、東京に戻ることにしたのだった。玲は今週いっぱい、実家で療養すると決めていた。 「ほな、広樹さん。私らは、ここで失礼します。帰りの運転、気ぃつけてください」  店の前で広樹に別れの挨拶をすると、史郎は玲に命令口調でいった。 「玲、広樹さん、ちゃんと車のとこまでお見送りするんやで」 「わかってるわ」  わかってる。お父さんが、私と広樹さんを、二人きりにさせたがってることは。  玲は心の中で呟いた。黙っていても、父も母も二人の間に何かあったことに勘づいているようだった。  両親に背を向けて歩きだした時、向かいの岩濠家の連子窓が目に入った。窓の奥は暗く、ひっそりとしていた。  あそこにはもう霧菜はいないのだ。  玲の心が痛んだ。  霧菜は、玲が自殺未遂をした直後、永尾家の蔵の中で首を吊っていた。  自殺を企る直前、霧菜が止めに来たことを、玲は断片的に覚えていた。あの時、冷静になって、首を吊るのをやめておけば、霧菜も助かったかもしれない。しかしもう、何を悔やんでも遅かった。  結局、蛇神は妻を手に入れたのだ。  それとも、あれはただの夢だったのだろうか。病院のベッドで意識を回復した時は、あれは疑いなく事実だったと思った。しかし三日も過ぎると、仮死状態で見た幻覚だった気もしてくる。姉が手招きしたことも、蛇神の妻に誘われたことも、自分の自殺を正当化させようとする意識がつくり出した夢。現実は、私は姉の七回忌ということで、神経過敏になっていただけ。それが昂じて自殺未遂を図ってしまった。やはり自殺願望のあった霧菜も、玲につられて実行した。そして玲は生き残り、霧菜は死んだ。ただ、それだけのことだったのだ。  玲は腕組みをすると、首を横に振った。自分の中の何かが、この説明に納得していなかった。  だったら、なぜ綾も多黄子も、蔵の中で同じように首を吊って自殺したのか。なぜ皆、あの鏡を持って死んだのか。  わからない。今となっては、もう何も。あの鏡をまた覗いたら、わかるかもしれない。きっと姉や霧菜と話せるだろうから。だが、鏡は失われてしまった。  昨日、父に、あの鏡のことをそれとなく聞いたが、史郎はぶっきらぼうに、処分した、と答えただけだった。 「こっちだよ」  広樹の声に、玲は我に返った。彼女は石灯籠の前を行き過ぎて、まっすぐに進んでいたのに気がついた。このままだと、正面の家の土塀にぶつかるところだった。広樹は道の曲がり角で、心配そうに自分を見ている。玲は彼の横に並ぶと、再び歩きだした。  水曜日の昼前。斗根の通りはひっそりとしている。しかし連子窓の奥から、二人を見つめる視線を感じた。自殺しそこなった、永尾さんちの玲ちゃんやで。一緒におるんは婚約者かいな。そんなことを囁きながら、近所の者がじっとこちらを窺《うかが》っていることだろう。  でも、それがどうしたというのだ。  玲は昂然と顎を上げた。 「俺たち、もう一度、やり直せるんじゃないか」  広樹が前を向いたままいった。  玲が黙っていると、彼は少し怒った声で続けた。 「何も、あんなことをする必要はなかったんだよ。すべて終わったわけじゃなかったんだから」  彼は、私が首を吊ったのは、二人の結婚がめちゃくちゃになったせいだと思っている。  この三日間、玲は自分の自殺未遂の理由について、何も語らなかった。きっと両親も、広樹と同じように考えていることだろう。その理由はわからないにしろ、結婚が破綻しそうになったせいだろう、と。  玲は腕を組んで、地面に落ちる自分の影を見つめた。その影はもう、ほっそりともしてないし、長い髪でもなかった。  姉は、私から離れていってしまったのだ。玲は一抹の寂しさとともに思った。  姉に呼ばれたこと。不確かな心の泥沼に足をすくわれてしまったこと。そんなことを、自殺の理由として、広樹に告げても理解してはもらえないだろう。  一成なら、わかるだろうか。  ふと、そう考えて、血の気が引いた。  まだ自分の心の中から、一成のことは追い出せていない。  玲は隣の広樹を眺めた。がっちりした顎。遠くを見ているような細い目。以前は、その心の内を知りたくて苛々《いらいら》した。しかし今は、何とも感じない。どこか彼が遠い存在に思える。一旦、死んで、生き返ったせいかもしれない。自分が別の人間に変わってしまった気がした。 「私、一人で考えてみるわ」  広樹は、玲を振り向いた。 「俺は、玲ちゃんが好きなんだ。別れたくはない。玲ちゃんだって、俺のこと好きなんだろう。だったら、もういいじゃないか」  玲の眉間に陰りが射した。  ──好きやからやない。あんた自身のために私の手ぇ、よう放さへんかったんや。  脳裏に姉の言葉が蘇《よみがえ》った。  自分が迷うのが怖いから、姉の手を放すことができなかったと同じく、私はあの東京という都会で迷わないために、広樹にすがりついていたのかもしれない。彼は私の救命具となるにはぴったりだった。頼もしくて、決して沈むことはない。  だが私は、本当に彼を愛していたのだろうか。  玲は、その想いに慄然とした。それから自分の心が悟られるのではないかと恐れて、彼女は広樹を盗み見た。彼はひとり、もの思いに沈んでいた。  この人は、私を見ようとしていないのだ。突然、玲はそう思った。私が彼に自分の愛情を押しつけることに自己満足していたように、彼は自分の内で私への愛情を反芻《はんすう》することに自己満足している。そして、それは同じことなのだ。お互いに相手を見てもなくて、それぞれ、相手への自らの愛情の深さをいとおしんでいるだけ。  私たちは、本当に愛し合っていたのだろうか?  斗根の集落が切れて、駐車場代わりの草地に出た。広樹のワゴン車の前に立った。  彼は運転席のドアを開くと、少しためらってから聞いた。 「東京に戻ったら、連絡してくれるね」  玲は頷いた。不思議な気がした。今までは、玲がそう頼む側だった。電話を忘れないで。今度、いつ会える?  だが、もう違う。二人の関係は、大きく変わっていた。  広樹は玲の前に立った。そしてどうしていいかわからないような顔をした。以前だったら、玲が広樹の体に抱きついて、別れの接吻をした。彼はそれから逃げるふりをしていた。そして玲の唇が、彼の唇を捉えた。  しかし、玲が自分から働きかけない限り、もうあの別れの儀式ははじまらない。今度は、広樹が何かする番だった。彼は、玲の唇を捉えようと体を傾けてきた。  しかし玲は彼の手を取って握手した。 「それじゃあ、気をつけて」  広樹の顔に一瞬、戸惑いが過《よぎ》り、なんとか笑みを取り戻した。 「玲ちゃんも……」  彼は、玲の手を握りしめた。自分の手が、がっしりした掌に包まれた時、玲は、はっとした。  蛇神の世界を歩いていた時、誰かがこうして自分の手を取って、引き止めてくれたのだ。そして私の心に、帰りたい、という気持ちが生まれた。  玲は、そっと広樹の手を握り直して、手の感触を確かめた。これは、あの手だったのだろうか。  玲は眉をひそめた。  わからなかった。  彼女は、広樹の手を放すといった。 「さよなら」  広樹は、暗い顔をしてナップザックを後部座席に放り投げると、運転席に座った。バタン。ドアが閉まった。彼は車のエンジンをかけて駐車場から出すと、農道への出口に来て車を一旦停止させた。そのまま前方を睨んで何か考えていたが、突然ドアの窓を開けていった。 「玲ちゃん。一緒に東京に帰ろう」  広樹は真剣な顔で自分の横の助手席のロックをはずすと、玲をじっと見つめた。  とっさにそちらに動こうとした玲は、両足を踏んばって止まった。  このまま彼の車に乗って東京に戻れば、すべては元の鞘におさまるだろう。ここで起こったことは、奈良の休暇の出来事として、記憶の底にしまわれるだけだ。そしてやがて心の傷も薄れていくだろう。  彼と一緒に車に乗れば……。  だが、私はもう以前の私と違う。昔の私は死んでしまった。生まれ変わる以前の生活にはもう戻れない。残された道は、新しくはじめる以外にない。  玲は、かぶりを振った。 「来週にするわ」  広樹は傷ついた顔をしたが、非難めいたことはいわなかった。 「わかった。じゃあ来週にでも電話するよ」  車は農道を走りだした。  玲は駐車場代わりの草地に立って、紺色のワゴン車が遠ざかっていくのを見送っていた。太陽の光を浴びて、国道に向かって農道をまっすぐに走っていく。あちこちに傷のついたあの古ぼけたワゴンがここに戻ってくることは、もうないかもしれない。  私が広樹を選んだのだ。終止符を打つのも私になるだろう。  玲は、夏の強い陽射しを顔に受けて、草の上に決然と立っていた。  鏡池は波ひとつなく鎮まっていた。  東高遠は池の辺《ほとり》に立って、周囲の木々の影を映し出す水面を眺めた。この三日の間に、池の水は再び満ちてきていた。今では元通りに澄んでいる。  だが、もう池が赤く染まる日を畏れることはない。すでに蛇神は出てきてしまったのだ。しかし、それは何を意味するわけでもなかった。蛇神が怒ろうと蘇ろうと、この世の物事は何ひとつ変わりはしない。そんなことのために、世襲の神職を守り続けてきた東家の者たち。なんと、おめでたいことだ。  高志が神職を継いでくれなくても、もう気にはならなかった。自分が死んだら、蛇神のことなぞ知らない人間が神主になればいいのだ。  昨日、音信不通だった田辺一成からやっと電話があり、事故に遇《あ》って、あの巻物は破損してしまったが、永尾家にある鏡が神社の御神体の蛇鏡であることはわかったと告げられた。  退院したばかりの一成に、高遠が、蛇神の言い伝えは単なる伝説だった、もうあの巻物についても気にすることはないと答えると、彼はほっとしたようだった。ついでに、永尾玲が自殺未遂をして、岩濠霧菜が自殺したと話すと、一成はひどく動揺して、永尾家の電話番号を聞きたがった。それを教えると、挨拶もそこそこに電話が切れた。最近の若い者は礼儀もなってないと、高遠はいつもの如く憤慨したものだった。  今、高遠の手には、重い古代の鏡が抱えられていた。昨日、永尾史郎のところに出向いて、譲ってもらったのだ。その鏡が神社の御神体だというと、史郎はひどく驚いたが、喜んで渡してくれた。  彼は蛇鏡を表裏ひっくり返して眺めた。ただの古ぼけた鏡だった。背面に花びら形の蛇の模様がある。電話で一成は、永尾家にある蛇鏡は赤い蛇の浮き彫りがほどこされているといっていたが、この蛇は赤くはなかった。鏡の金属の色と同じ銀鼠色だ。  果たして、これがほんとうに御神体の蛇鏡かどうか、高遠には確信は持てない。だが、そんなことは、どうでもよかった。これ以上、蛇神について頭を悩ませたくはない。  高遠は、鏡から顔を上げた。鎮守の森の榎《えのき》が空に長い枝を伸ばしている。あれは蛇神の墓標なのだ、と高遠は思った。  確かに、かつて蛇神は存在していたのかもしれない。しかし千年以上の年月のうちに、滅びてしまったのだ。みぃさんの日、湿地で見た花びら形の赤い蛇の姿は、その残像だったのだろう。  神のいなくなったこの時代、もう何も畏れるものはない。それを思うと、寂しい気もする。畏れを失った人間は、何を規範に生きていくのだろうか。  高遠は、蛇鏡を抱えたまましばらく榎を見上げていたが、やがて視線を鏡池へと戻した。水面に、彼の姿が映っている。その痩せた影はいかにも頼りなさげに、たゆたっていた。  彼は深い息を吐くと、両手で蛇鏡を掲げて、宙に投げた。鏡は太陽の光と戯れながらきらきらと瞬《またた》いて池に落ちていった。  ぽちゃん。小さな音をたてて、土の塊が水中に沈んだ。田辺一成は土くれの崩れ落ちた水濠の縁に立って、当惑していた。  花びら形をした水濠に、なみなみと水がたたえられていた。雨が降ったわけでもないのに、水濠に水が溜まっている。  みぃさんの翌日の月曜日、作業員がこれを発見して、発掘は一時中止になったという。入院中、見舞いに来た学生から聞いてはいたが、これほどの水量だとは思わなかった。まるで、どこかに溜まっていた水が、一気に流れこんできたかのようだ。  たぶん、ここは本来の姿に戻ったのだ。  一成は、大地に刻印された水の蛇を眺めながら思った。古代人たちは、この水の蛇の環の中央で、蛇神に祈りを捧げたのだ。この光景を写真に撮らなくては。きっと、いい資料になるだろう。  だが、一成は身動きもせずに、やはりぼんやりとその場に立っていた。研究熱心な彼にしては珍しいことだった。  まだ体調が回復していないのだ。衝突事故の後、彼は高熱がぶり返して、病院で寝ていた。外傷はたいしたことはなかったが、前日からの風邪と疲労がたたったらしかった。病院のベッドの上で、猛烈な喉の渇きを覚えた。全身の皮膚はかさつき、鏡を見ると、目が乾いてどろんとしていた。このまま病院で、一気に十も二十も年を取るかと思った。あれほど、もっと年上に見られたい、と願っていたのに、いざ自分がそれを前にすると、怖くなったものだった。  だが、自分が病院で熱に浮かされていた時、玲もまた別の病院で臥せっていたとは知らなかった。昨日、東高遠に玲のことを聞いて、早速、彼女の電話番号を回したが、父親らしい男が出て、玲は今日退院するが、まだ家には戻ってないと告げられた。当然のことだが、自殺未遂のことを隠しておきたいようだった。  今日の午後にでも玲の家に見舞いに行ってみよう。そう思いながら、鏡作羽葉神社の緑の森を見遣った時、柵の切れ間を越えて、一人の女がこっちにやってくるのが見えた。  玲だった。  驚きに、一成の体が緊張した。  彼女は白のワンピースを着て、土を踏んでゆっくりとこっちに近づいてくる。顔の周囲で、柔らかな髪が揺れる。大きな瞳が、まっすぐに彼を見ていた。  玲の首には、白い包帯が巻かれていた。それが、彼女の自殺未遂を物語っていた。  玲もまた、一成の頭に巻いた包帯に気がついたらしく、彼の前に来るなり訊ねた。 「どうしたの、その傷」  一成は頭部に手をあてて、苦笑いした。 「交通事故に遇ったんだ。みぃさんの日にね」  みぃさんの日、と聞いて、玲は大きな瞳を見開いた。  一成は頷いた。 「玲ちゃんのこと、聞いたよ」  玲はしばし黙っていたが、やがて唇の端に笑みを浮かべた。 「私たち、同じ日に死にかかっていたわけね」 「そういうことになるな」 「そして、同じ日に生き返ったんだわ」  玲は呟いた。一成は彼女の顔を探るように見ていった。 「死にかけていた時、玲ちゃんと会ったよ」  玲の顔がさっと強張った。 「玲ちゃん、もう一人の女の人と一緒に、どこかに行こうとした。止めようとしたけど、消えてしまった」  玲は青ざめ、目許を微かに震わせている。一成には、なぜ彼女がこれほど驚いているのかわからなかった。  玲は黙って一成の手を取った。両手で彼の手を包みこんでそっと撫ぜた。 「あれは夢じゃなかったのね」  では、玲も同じものを見たのだ。しかし一成は、二人の見たものを口に出して確かめ合う気にはならなかった。  彼は玲の両手を今度は自分が包んだ。 「僕とつきあってくれないか」  何か抗弁するように口を開きかけた玲を遮って、一成は続けた。 「婚約者がいることはわかっている。でも、好きなんだよ。玲ちゃん」  玲の顔に微笑みが浮かんだ。しかし彼女は静かに答えた。 「そんなこと、あてにならないわ」 「いや。本気だよ」  一成は応えた。自分でもどうしてかわからないが、これから玲を永遠に愛せる気がした。 「僕を信じてくれ」  一成は玲を抱き寄せた。彼女は抗《あらが》わなかった。彼は、玲の柔らかな髪に顔を埋めた。彼女の甘い匂いが鼻をくすぐる。幸福な気分が湧き上がってきて、全身が熱くなった。玲を抱く腕に力をこめた時、二人の前に横たわる、蛇の形をした水濠がふと目に入った。急に激しい喉の渇きを覚えて、そこにたたえられている水をすくって飲みたい衝動に駆られた。  一成は視線を水濠から逸《そ》らせた。  正面に、鏡作羽葉神社の緑の森が横たわっている。  考えてみると、風邪をひいたのは、あの神社の湿地で転んでからだ。あの時、泥の中に指が入って、ぞっとするほどの悪寒を覚えた。 『蛇神の力は地下から生まれ、水に乗って伝わっていく』  巻物に書かれていた一節を思い出した。  一成は玲の肩ごしに、自分の右手の指先を見た。もう傷口は塞がっている。治りかけているのか、むず痒かった。  玲の声が耳許で聞こえた。 「不思議だわ。こうしていると、とても安らかな気分になれる。死にかけていた時、あそこで感じたみたいな気持ちだわ」  一成は頷いた。彼には、彼女のいっていることがわかった。 「あの霧に包まれた草原を歩いていた時だろう」 「あの時、死んだはずの姉が出てきて、蛇神は、この世に蘇って、子をつくるといっていたわ。どういうことかわからなかったけど……」  東高遠は、蛇神の蘇生はただの伝説だといっていた。一成は、優しく彼女の肩を叩いた。 「過ぎたことだよ。意味はないさ」 「そうね……」  彼女は呟くと、眩しそうに空を仰いだ。一成もつられて顔を上げた。  吸いこまれるような青空が広がっている。遠くまで連なる緑の水田。ゆったりと揺れる木々。その間に点在する小豆色がかった瓦屋根の家々。盛夏を前にして、すべてのものが圧倒的な生命の輝きを放っていた。  一成は体に力が漲《みなぎ》ってくるのを感じた。その時、再び右手の指先が疼いた。  彼は玲の肩から手を外して、指を掻いた。  ぺりりり。  右手の指先の皮膚が剥けた。  見ると、白くかさかさした古い皮膚の下に、新しい皮膚ができている。艶やかに輝く赤い鱗《うろこ》の肌が……。  一成は驚きの声を洩らした。  しゅうううっ。  蛇の吐く息があがった。  水濠が太陽を反射して、花びら形をした蛇がぎらりと銀色の光を放った。  参考文献 『日本人の死生観』   吉野裕子 講談社現代新書 『蛇』   吉野裕子 法政大学出版局 『鏡』   日本古代文化の探究 森浩一編 社会思想社 『蛇の宇宙誌』   小島瓔 東京美術 『田原本町史』   田原本町史編さん委員会 田原本町役場 『神話・伝承事典』   バーバラ・ウォーカー 大修館書店 『日本書紀』(上・下巻)   全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫 『古事記』   倉野憲司校注 岩波文庫 単行本 一九九四年二月 マガジンハウス刊 底 本 文春文庫 平成九年六月十日刊